寝殿造 5.4  寝殿造の変質・小寝殿     2015.11.07 

小寝殿

小寝殿は、屋敷内に寝殿が二つ並存する場合の小さい方を云う。小寝殿は東西どちらかの対の変形とみなされることもある。寝殿造の成立期における完成形は左右対称な殿舎群と良く云われるが、小寝殿の登場は左右対称でないもっともはっきりとした兆候である。例えば太田静六は『寝殿造の研究』の中で藤原頼通の第二期高陽院(後述)についてこう述べる。

注目すべきは小寝殿の出現で、元来、小寝殿は平安末期から鎌倉期にかけてよく現れるのだが、本例のように平安盛期末にみられるのは大変珍しい。小寝殿の実例としては最も早い例である。小寝殿とは中央の寝殿に準じる寝殿という意味で、対屋が南北棟であるのに対し、小寝殿は寝殿と同じく南正面で東西棟が普通だが、時には対屋と同じく南北棟の場合もある。今回のように小寝殿としたのは頼通の創意によるかと思われるが これは同時に平安盛期も末になると、正規寝殿造中にもぽつぽつ変形が現れてきたことを示す。(太田静六1987、p.251)

このなかの「時には対屋と同じく南北棟の場合もある」については川本重雄と藤田勝也から異論が出ている。また「正規寝殿造」なるものは本当にあるのか? という点は別ページに任せて、ともかくこの小寝殿が寝殿造のある時期の変化の象徴であることでは研究者の意見は一致しているだろう。別御所の形式をとる鎌倉時代の小御所との関連性も指摘され、古代の小寝殿から中世の小御所へと至る過程が想定されている(川上貢2002、p.66,平井聖1974)
小寝殿が復元図に現れるのは『建築史図集(日本編)』(p.60)にある太田静六の鳥羽南殿のこの図だろう。寝殿造の変質を強く印象づける。ただし文献上は太田静六も云うようにもう少し早い。



平安時代に天皇や院が屋敷の主と同じ屋敷内に同居した例は川上貢によると次の通りである。嘉承2年(1107) の六条殿を除き、こうした場合はほとんど小寝殿がある。(川上貢2002、p.66)。

  • 承徳元年(1097) 高陽院、天皇(西小寝殿)、中宮(東対)
    『中右記』承徳元年10月17日条「寝殿之西又新立小寝殿為中殿、其儀如清涼殿、西庇為殿上、西中門南廊為陣座、東対為中宮御所、東本小寝殿為内侍所」
  • 康和5年(1103) 高陽院、院(東小寝殿)、東宮(西対)
    『玉葉』治承2年12月15日条「是康和度、高陽院以西対、為東宮御所、以東小寝殿、為院御所、大寝殿非両御所之例云々」。
  • 嘉承2年(1107) 六条殿天皇(寝殿)、中宮(東泉上廊)
    『中右記』嘉承2年12月19日条「以寝殿兼南殿中殿、西廊為殿上、西中門侍廊為陣座、其南廊為内侍所、東泉上廊為皇后宮御所」。
  • 大治5年(1130) 大炊殿、院(小寝殿)、女院(西対)
    『中右記』大治5年正月1日条割書に、「院御方小寝殿云々、宮宮御所西対女院御方」。
  • 同大治5年(1130)土御門殿、中宮(西北小寝殿)
    『中右記』大治5年2月27日条「又新造西北小寝殿(中宮御所料也)」。
  • 同大治5年(1130)三条西殿、女院(西小寝殿)
    『中右記』大治5年12月26日条割書「故院御所西対被壊渡鳥羽殿之後、西被作小寝殿、(中略)是女院御所者」。

小寝殿はハレの場、儀式空間ではないので、間取りの手がかりとなる指図などは極めて少なく、実態解明はかなり困難であるが、文献にあらわれる記述から藤田勝也は三種に類型化する。

以下屋敷の位置に「太田静六図」と記すものは太田静六1987 『寝殿造の研究』 図110 「平安末期から鎌倉初期にかけての京師概状(主要邸宅の住置と所有者あるいは主な使用者)」を指す。
 

(1)対に代わる小寝殿

東西をハレ・ケと分ける邸においてケ向きの対に代わって設けられる小寝殿であり、11世紀中期にあらわれる。

第二期高陽院・東小寝殿

例えば関白頼通造営の第二期高陽院(長久元年(1040)〜天喜2年(1058)の小寝殿である。高陽院は四方を大路に囲まれる方二町、つまり四町の最大級の屋敷であり、第一期では寝殿の東西北三方に対を配し、寝殿・西対を主要な儀式の場とする西礼の家である。第二期高陽院も同様に西礼の家であったが、『栄花物語』に後朱雀天皇の里内裏一条院が権災したので、高陽院に避難された時の様子が次ぎのように書かれる。

高陽院殿に渡らせ給ぬ。(中略)一宮は女院のおはします寝殿のひんがしおもて(東面)、そなたの廊かけておはします。東の対はこのたびはなくて、山河ながれ滝の水きほひおちたるほどなどいみじうおかし。
『栄花物語』巻34(暮まつほし、長久4年条)

同じく巻36(根あはせ)にこうある。

高陽院殿のありさまいと面白くおかし。西の対をれいの清涼殿にて、寝殿を南殿などにて、こ寝殿とて、またいとをかしくてさしならび、山はまことの奥山とみえ、滝こぐらき中より落ち、池のおもては遙かに澄みわたり、左右の釣殿などなべてならずをかし。

ここから、小寝殿がケの東対に代わるものであったと推測できる。なお、東西の対は南北棟であるが、先に太田静六も書いている通り、小寝殿は寝殿と同じ東西棟である。小寝殿の「小」は「ちいさい」の意味とは限らず、「新しい」の意味もあるという。

土御門殿

もうひとつの早い例は土御門殿である。源俊房が永保元年(1081)から4年(1084)に再建して以後、嘉保2年(1095)の焼失まで村上源氏の本所として利用さた。太田静六図には村上源氏の土御門殿としては、土御門大路北、万里小路と高倉小路に挟まれた位置に「右大臣源雅実」の記載のあるものがあるがこれか。方一町屋である。

俊房は息子の仁寛が鳥羽天皇の暗殺を企てたとされ、弟の顕房に村上源氏の主流を譲った。源雅実はその顕房の子である。

その俊房の再建工事の初期に建てられたのが西小寝殿で、「水左記」承暦5年(1081)12月2日条にはこうある。

姫君御方口北対給、中納言渡西小寝殿、

中納言とは俊房の婿中納言藤原宗俊(『中右記』の藤原宗忠の父)であり、小寝殿を住まいとした。寝殿をはじめ東対などハレ向きの建物群がその後順次造営され、最終的には東をハレ、西をケとする東礼の家に整備される。

第四期高陽院・西小寝殿

寛治6年(1092)7月から天永3年(1112)5月までの第四期高陽院にも西小寝殿がある。
この高陽院は云わずと知れた方二町の最大級の屋敷である。この第4期は関白藤原師実の造営で、寝殿・東対・北対・東中門・馬場殿があり、西対は棟上まで終了していたが、その西対を途中で中止して造営されたのが西小寝殿である。『中右記』承徳元年(1097)8月2日条に・・・。

早旦参内、民部卿参仗座、被勘申賀(高)陽院西対立直日時(件対一日棟上了、而頼法王仰俄披立直小寝殿也、是依皇居弁カ)

と記される。高陽院が皇居となる予定で、白河法皇の仰せによって、建築途中の西対を中止し、小寝殿建設にきりかえさせられたと。更に『中右記』承徳元年(1097)10月17日条にはこうある。

寝殿之西又新立小寝殿為中殿、其儀如清涼殿、西庇為殿上、西中門南廊為陣座、

この小寝殿は清涼殿として堀河天皇の御座所にあてられた。里内裏期間中は西がハレであったが、康和4年(1102)天皇の内裏遷幸後、天永2年(1111)再度鳥羽天皇の里内裏となるまでの、師実の孫にして養子、藤原忠実の領有期間中、忠実は東対を御座所とし、諸儀式は常に東面で行われている。一方の西面の小寝殿は、北政所(麗子)や太皇太后(寛子)あるいは前斎院(誠子内親王)などの居所に用いられていた。つまり東対を中心とする寝殿造から東をハレとみなし、西面の小寝殿は邸主以外の人々の専用御所として使用されていた。


3例を通して

通常、西礼の屋敷であれば西対があり、逆であれば東対があって、そこが儀式の場として使用される。第四期高陽院は屋敷の一部が里内裏になるという特殊事情だが、土御門殿、第二期高陽院では、小寝殿はそのハレの対の反対側、内向きの空間にあった。それらのことから、小寝殿成立の契機は、内向きの居所としての機能の充実にあったのではないか、小寝殿は、私的居住空間の形成を表徴する建物ということになるのではないか、と藤田勝也は推察する。


(2)私的生活空間としての小寝殿

11世紀後期、大儀式の挙行を想定しない私的性格の色濃い邸に小寝殿があらわれる。

鳥羽南殿

冒頭の太田静六復元図にある鳥羽南殿の小寝殿がまずあげられる。鳥羽殿は離宮であるので、本来の機能は休養・遊興あるいは仏事である。寝殿や西対代が儀式の場となる 西ハレの邸構成で、小寝殿は寝殿東北部に位置し、法皇や女院の居所にあてられている。私的性格の濃厚な邸の中で、さらに内向きの施設として小寝殿は用いられた。

なおこの南殿跡では発掘調査が行われており、(財)京都市埋蔵文化財研究所から『増補改編 鳥羽離宮跡1984』が発行されている。それによると、 小寝殿に推定される礎石建物は、母屋三間で四周に庇をまわし、さらに東面に孫庇を備えるという規模である。



法住寺南殿

f後白河の法住寺南殿も私的性格の濃厚な屋敷で、鳥羽南殿と同様に西礼の家で、西に対代があった。小寝殿は寝殿東方にあったという。内向きの施設として使用されたらしい。『兵範記』 仁安3年(1168)8月4日条に、

東小寝殿御装束知日者、無別儀、為之上皇御所

とあり、後白河上皇の御座所にあてられ、その他仏事・遊興の場であった。
 

大炊殿

京中の御所の事例としては、白河法皇の院御所、大炊殿がある。大炊御門大路北・万里小路東に位置する一町屋(太田静六図には「藤経宗・後白河・藤兼実、大炊殿」とある)だが、白河法皇崩御後、大治4年(1129)9月から約一年間、鳥羽上皇が本所として利用する。『中右記』大治5年(1130)3月25日条にはこうある。

予以下参院御所大炊殿、於東小寝殿南庇四間被行之、朝座被行之間也、(中略)次参女院御方、寝殿南庇四間也、朝夕両座了也、

鳥羽上皇の居所は東の小寝殿である。この大炊殿は西礼の屋敷であり、その西に対代、寝殿の反対側に小寝殿を設けるという構成は京外院御所の前二者と共通する。
 

六条殿

六条大路北・東洞院東に位置する六条殿は、太田静六図には「白河天皇六条内裏」と記されるもので、東洞院大路と六条大路に西と南で接する。承保3年(1076)に 白河天皇が里内裏として造営し、譲位後の寛治元年( 1087) に大修理を行う。このとき北方への拡張によって南北二町の規模とした。六条殿は最初の院御所専用邸である。
ここに西小寝殿があった。西小寝殿は天皇が太上天皇(上皇や法皇)や、皇太后(母宮)のもとを訪れ、年始の挨拶をする儀式(朝観行幸)の時に、天皇休所にあてられるのが慣例であった。
そのほか『中右記』寛治7年三(1093)3月10日条には、

於六条殿小寝殿西面被講和歌、

同寛治8年(1094)4月8日条に、

依例有御潅仏、(中略)公卿以下、引参仕一院御所六条殿、但中宮大夫以下也、西小寝殿西庇供御装束山形等、依無出居、右大将以下取布施置之、

とあるように、遊興や仏事の場として使われている。後の弘御所を連想させる。
この小寝殿は寝殿西南部に位置したものと思われ、寝殿東西の対は記録にみえず、寝殿と西南方の小寝殿が主要建物と考えられる。しかもこの小寝殿は、対の位置にはなく、儀式を前提にしたハレの建物とは考えにくいとされる。

師通の二条殿

二条大路南・東洞院大路東に位置する。太田静六図には「藤師通・後鳥羽上皇二条殿」と記され一町半。ただし教通・師通時代には一町屋か。この邸は、教通時代には摂関邸に相応しく寝殿東西に対を配する大規模邸宅だったが、師通居住の頃には、寝殿と雑舎がわずかに存するばかりであったが、寛治6年(1092)から一年半程で東小寝殿が建てられ、完成後は師通の居所となった。
このときの邸内建物は、寝殿・北対・東小寝殿・東渡殿・西北渡殿・東侍廊・東車宿・東中門・同南廊・東門・東北雑舎・西車宿代屋・西北雑舎・西南角堂・同北廊などである。

小寝殿を中心とする邸東面の整備は、関白、氏長者就任を控えた師通が就任後における様々な中小儀式挙行のために計画したものとされる。確かに臨時客・吉書・上表といった儀式空間として東対と同様の機能を小寝殿は果たしている。しかしそれなら、師通がハレ面にたつ主要殿舎を通常の東対ではなく小寝殿としたのか。実はこの二条殿は、師通の後妻方からのもので、私的性格の色濃い屋敷であった。
大儀式には東三条殿がある。従ってこの二条殿では細かい儀式は行うが、そのために前例踏襲の建物とはせずに、自分の住まいとしての住みやすさを優先したのではないかと藤田勝也は観る。(pp113-114)

師実の土御門京極殿

私的性格の色濃い邸に小寝殿が設けられる事例として、先の師通の父藤原師実の土御門京極殿もあげられる。太田静六図では京の碁盤の目の一番東側(京極)の北方、土御門大路の南で南北二町屋である。かつては摂関全盛期を代表する邸宅だったが、嘉保2年(1099)の師実による再建でその様相は一変する。今回の再建は、息男師通に前年関白職を譲り、政界を引退した師実の隠居所として造営されたもので、敷地南半分を御堂、北半分を御所とする邸構成である。北半の御所部分は寝殿と北対に小寝殿が確認できる程度である。もちろん中門廊や中門、侍廊に車宿、その他の雑舎などはあっただろうが。どちらかと云うと南の御堂部分が重要な位置を占めていたという。

五条東洞院第

それから約一世紀後の平安時代末期となるが、五条東洞院第は五条南、東洞院西の権大納言藤原邦綱の屋敷がある。『玉葉』治承4年(1180)正月十日条高倉天皇は中宮、東宮と共に邦綱第を里内裏としたとある。

十日、比日自閑院第、行幸五条東洞院邦綱卿亭、(中略)次中宮行啓、次東宮行啓、

『山塊記』治承4年(1180)2月17日条には中宮御所の平面記載があり、こう記される。

五間四面屋也、但母屋一丈四尺、庇張八尺、

同・治承4年(1180)11月21日条には寝殿は「七間四面寝殿也」と明記される。塗籠もあり七間母屋の西二間である。

母屋東第四間〔南階間也〕、立御帳、(中略) 御帳間南庇供昼御座、(中略) 夜御殿〔西戸内有二ヶ間〕、立御帳、

同条には

寝殿西北有中宮御所、其西北有東宮御在所

ともあり、東宮御所の平面記載はないが、中宮御所と同程度と推測される。小寝殿、小御所との記載は無いがそう見てもよさそうな大きな建物が二つもある。東西対屋は全く現れない。そこから太田静六は次のような配置図を想定した。

一年後の2月16日に天皇だけが閑院内裏へ戻り、5日後に20歳の若さで譲位する。東宮と中宮とはそのまま五条東洞院第に留まっており、三歳の東宮はここ で即位し安徳天皇となった。その後4月9日までここを里内裏とし、閑院へ戻るが、その直後に清盛による福原遷都となる。11月26日に京に戻るが、そのと き入御したのは内裏ではなく、再び邦綱の五条東洞院第であり、ここは二度に亘って安徳天皇の皇内裏となった。

権大納言藤原邦綱は 養和元年(1181)閏2月3日にこの世を去り、その後藤原基通の所有となったようである。木曽義仲が後白河法皇の御所、法住寺南殿を攻めて焼失させてしまった後、後白河は前摂政藤原基通の五条東洞院第、つまりここに遷る。

以上を通して

以上私的性格の濃厚な諸邸に小寝殿の存在が顕著であり、それらの邸構成についてみると、

  1. ハレ向きに正規の対が不在で、対代や対代廊をもって代える。院御所に特徴的である。
  2. あるいは対・対代・対代廊が不在で、主要建物は寝殿・小寝殿のみ。これは関白邸や一般公家邸にも事例が見出せる。

いずれの邸でも寝殿東西に対代でない正規の対は不在である。かつ、小寝殿の多くが寝殿の東西脇ではなく、より自由な位置に設けられている。




初稿 2015.11.07