寝殿造 5.5 独立した小寝殿・角殿・小御所  2015.11.10 

(3)独立してたつ小寝殿

寝殿や東西の対などの中心建物群から離れて設けられる小寝殿。11世紀末期から12世紀前期にあらわれる。

第四期高陽院・東小寝殿

この時期の高陽院には先述の通り西小御所があったがそれとは別である。第二期高陽院にも東小寝殿はあったが第四期のものはそれとも別である。この東小寝殿は篤子内親王が中宮立后の後に御所としている。『中右記』 寛治7年(1093)3月11日条に、

於高陽院中宮御方有種々御遊〔暫御小寝殿也〕、・・・先於西庇有小弓興、(中略)次於東面有上鞠之興、(中略)殿下引公卿御簀子敷、乗燭之程事了、移御西庇之饗餞之座、有盃酌管絃之興、

とあって、篤子内親王立后の儀の後、新中宮はここを御所とし、小寝殿の西庇で小弓、東面で蹴鞠が行われ、師実は他の公卿らと東面貸子より観覧、その後再び西庇で饗餞があって盃酌・管絃におよんでいる。つまり一時期の高陽院には寝殿が3つあったというこになる。高陽院は「方一町屋」の屋敷4つ分の広さなので窮屈ではなかったろうが。

その後新中宮は他に移ったのか里内裏期間中の承徳元年( 1097)10月以降、その東小寝殿は内侍所にあてられている(*1)。当時の里内裏における内侍所は、寝殿や対があてられるのは稀で、中門南廊をもってその場所とすることが多いという。神鏡奉安のための内侍所は、寝殿や対など天皇の居所からある程度距離を保つことを原則とした。つまり小寝殿は寝殿等からある 程度は離れた小規模な建物であったと考えられる。また『殿暦』などには長治元年(1104) 3月以降、この東小寝殿は私的な仏事によく使われる(*2)。

*1) 『中右記』承徳元年( 1097)10月17日条、同2年( 1098)12月2日条、同天永2年(1111) 9月20日条、同12月3日条。
*2) 根拠のないただの想像だが、鎌倉時代の寝殿造には 中門の南廊の先に念仏堂等を置くケースがいくつか見られる。例えば『公衡公記』 弘安11年3月28日条にある「北山殿南屋」(川上貢2002 補足図5 p.247) などである。中門南廊や仏事との関わりを考えれば、広大な高陽院の東中門南廊の先に東小寝殿があったのではなかろうか。


三条西殿

三条大路北・烏丸小路西に位置する三条西殿(三条烏丸殿、太田静六図では白河上皇三条御所)は、「如法一町家」の一つとしても知られるが、大治4年(1129)7月に西対で白河法皇崩御したあと、三条西殿は女院御所とすべく建物は修理・新築されるが、そのとき小寝殿も新築された。修造なった同邸への鳥羽上皇や女院・宮達の初渡御について、『中右記』 大治5年(1130)12月26日条は次のように記す。

今夕三条西御所修理之後初有渡御〔故院御所西対被壊渡鳥羽殿之後、西被作小寝殿、其所被作渡殿、凡皆悉修理、如新造、是越後守清隆朝臣所勤仕也、及御簾畳等勤云々、是女院御所者

予入夜後参三条殿、戌刻従西御門入御、(中略)先口従中門廊口御所、列立西対前寄御車於寝殿申史(中央カ)間入御

此間於新造小寝殿南面昼御座供五菓(割書略) 次上御簾覧古書(中略)頭弁来召諸卿、開白殿以下着御前座、是東並南廊也、御所之前也

寝殿西方には西御門・中門廊そして西対がある。旧西対は鳥羽泉殿に移建され御堂となっているので、この西対は新築である。つまり小寝殿は西対の代わりではなかった。小寝殿は南面する殿舎であったが、東方と南方が廊によって囲まれている。西方室町小路に面する築垣によって画されていたと推察され、小寝殿は方一町の敷地の西北部に、別区画を形成する御所だったと見られる。

土御門烏丸殿

土御門烏丸殿は永久5年(1117) 11月造営で、土御門大路北・烏丸小路西に位置する方一町の邸である。太田静六図には「土御門内裏」と記されている。平安宮内裏を模した最初の里内裏としても知られるが、そこに小寝殿増築された。敷地西北部に設けられたこの小寝殿は、崇徳天皇の中宮となった摂政藤原忠通の息女聖子(皇嘉門院)の専用御所であった。それは小寝殿だけではなく、それを中心とする主要三字の新造である。その小寝殿の一郭は、平安宮内裏を模して造営された中央の殿舎群とは全く切り離された形で存在するいわゆる別御所だった。

『中右記』 大治4年(1129)12月28日:土御門皇居北面門二宇歟相改東西被立替也、
 同 大治5年(1130)2月27日条:又新造西北小寝殿〔中宮御所料也〕
 同 大治5年(1130)3月4日条:修理戌亥角新造屋三ケ宇〔是中宮御所料也〕

『兵範記』長承元年(1132)12月22日条には中宮の御仏名が小寝殿で行われたときの指図がある。ただし私には読み解けないので藤田勝也の判読を引用する。

小寝殿は、北側部分は不明ながら、おそらく四間四面で東に孫庇を付し南面に貴子をまわす東西棟の建物で、東南部に三間の子午廊を突出した形式と考えられる。母屋北面はすべて壁、東面は障子、西面は棟分妻戸、南庇南面は格子で、南庇を中宮の昼御座、東南廊の東側母屋三間を中宮殿上としている。御仏名では母屋・南庇・南貴子をその会場とし、西庇北二間を御所、その南一間と東庇・東孫庇の南一間を女房座所とし、さらに南賛子の外に三間の仮庇を設け侍座としている。なおもう一宇の建物の一部も、庁座の指図として図413の後に掲載される。南庭に面し、母屋西一間に南面して妻戸をたて、南庇を土庇とする建物である。


角殿

前項の独立してたつ小寝殿の一郭が「角殿」と呼ばれることがある。先の三条西殿と烏丸小路を挟んで東隣の三条東殿(一条東洞院殿)は、大治元年(1126)2月に、播磨守家保が法皇の仰せによって造進した屋敷で、当時の京中院御所の一つである。『長秋記』大治4年(1129)2月29日条は次のように記す。

行香了参三条殿、先如(女)院御方行香、次新院御方行香、此間別当仰云、此殿御修法壇所在故、明日御燈於此殿被修事、可無便之由、有本院御定、仍今夜新院欲御幸角殿之処己帰忌日也、不憚如何、申云日次憚事只問陰陽可御沙汰候也、但所案者、可幸所非関外、不経日数有何憚哉、別当云、尤可然、巳叶愚案、以此旨可申者、間愛染王御修法、初夜時了叉有同御佛供養、寛信己講共奉仕、事了御幸于角殿、

私は漢文が苦手なため「非関外」を藤田勝也と逆に読んでしまう。一方で「不経日数有何憚哉」は「日を変えないことに、つまり今日入ることに何の憚りがあろうや」と読める。さっぱり判らない。ただし藤田勝也が「中略」としたところ(色を変えた処)を補って読めば、確かにその夜に「行香」(行幸)している。

その5年後の女院遷御のときにやはり「帰忌日」が問題となっており、別当・下官(師時)等が集まり議論する。

先問宗憲、宗憲云、諸議皆非也、可渡御金吾宿所、別当云、上皇自鳥羽殿還御三条殿、帰忌日也、着御後間食此旨、俄御幸角殿、調角殿是又御所也者、以僧房准角殿、令宿御矣、有何事哉、(『長秋記』長承3年(1134)8月13日条)

つまり金吾宿所である僧房に渡御すべきという意見に対し、かつて上皇が鳥羽殿より三条東殿に還御した後、その日が「帰忌日」と知らされ俄に角殿へ移御したが、それは角殿が御所だったからで、僧房を角殿と同様の御所と見なすべきではないと主張する。また「謂角殿是又御所也者」と角殿が御所であることを強調していることから、角殿が三条東殿の一角を占めてはいても、それとは独立した御所としての体裁を有していたということを示している。

ただ、当時の社会風習をしらないと上記は何の話やらになるので簡単に説明。平安時代後期(実は鎌倉時代も変わらないが)、天台や真言など元々は護国修法であった密教と陰陽道が近づいて私的修法(安産祈願もそのひとつ)が盛んになり、星宿供が発達する。妙見信仰もそのひとつ(詳しくは速水侑『平安貴族社会と仏教』参照)。今昔物語集に阿倍清明とか、その他怪しげな修験者が沢山登場するあの頃である。


「帰忌日」(きこにち)とは天ボウ星の精が天から舞い降りて人家の門の前に居すわり、帰って来る人の邪魔をするという日。だからこの日に遠くから帰ってくることは不吉とされる。

「本音と建前」という言葉があるが、平安時代後半は律令制という「建前」は崩せないが、しかしもう実質律令制は崩れているという時代で、辻褄合わせに様々な便法(いいわけ)が発達する(詳しくは佐藤進一『日本の中世国家』参照)。
密教と陰陽道の共同歩調で、ブッダとは実は何の関係もないバラモン教もどき、道教もどきが社会の規範となっている。しかしそのままでは暮らしにくいので、ここでも様々な便法(いいわけ)が発達します。「角殿は別な御所である」というのもそのひとつ。でも屋敷の僧坊では言い訳にならないといいうのがこの話。

なお。白河殿にも角殿が存在する(『長秋記』大治5年(1130)11月22日条)。

小寝殿のまとめ

全体としておよそ11世紀末より12世紀にかけて集中する。

この推移は、小寝殿の独立性への指向を示し、(3)の三条西殿や土御門烏丸殿の小寝殿の如き、御所郭内における別御所の形成をもって完結する。これはは邸敷地内の新たな利用法、すなわち同一邸内に居住しつつ種々の理由から共住回避する便法として注目される。同様の施設は角殿とも称され、更に角御所、別御所の形式をとる小御所へと連なる。藤田勝也はこう書く。

小寝殿の存在自体が、そうした構成の邸の有する性格と表裏一体の関係にあったのだろう。さらに注目されるのは、小寝殿の多くが寝殿の東西脇ではなく、より 自由な位置に設けられているという事実である。前節でも考察した知く小寝殿は内向きの居所という性格を有した。かかる性格によって対とは一線を画し、また 寝殿からの独立性を一層指向する建物であったことを、この事実は示唆する。こうした独立性への指向は、寝殿から離れた位置へと小寝殿を一層誘引する。(藤田勝也2003 pp.108-115)

小寝殿が対の形式でまず登場したのは象徴的である。小寝殿は居所としての機能が最優先される建物であり、ハレの舞台とはならない内向きの空間であった。そのような建物が平安時代後半とくに院政期に集中してあらわれ、寝殿造の配置構成に大きな変化をもたらす。しかも中世以降は小御所の一形態として継承されるのである。(藤田勝也2003 p.127)

 

初稿 2015.11.10