寝殿造 5.6  対の消滅・頼長の宇治小松殿    2016.10.3 

宇治・小松殿を建てたのは頼長の父・藤原忠実である。宇治における摂関家の別業として中心的役割を担った邸で、忠実の新造小松殿には鳥羽上皇の御幸もみられた。『百錬抄』保延元年(1135)10月11日条にこうある。

上皇臨幸前大相国宇治別業〔所謂小松殿、新造〕

ここにある通り、忠実の本邸ではなく別業であり、またこの時新造されたものであった。

その宇治別業を頼長が伝領し、頼長はこれを愛用したので宇治左大臣と呼ばれるようになる。久安5年(1149)10月19日に頼長の二男・師長はこの宇治・小松殿で元服した。当日の装束次第と室礼の指図が『兵範記』にみられるが、ここでは間取りに絞った図をあげる。

太田静六『寝殿造の研究』、p.622より

師長元服時の他の建物は判らないが、保元の乱後は忠通の所有となる。保元3年(1158)10月17日、破損修理のなった忠通のこの小松殿に後白河院、皇后、女御の、平等院参詣に伴う御幸があって、「兵範記』前日条はその舗設・装束を詳記しており、その中で以下の建物が確認できる。

寝殿、東北子午廊、東卯酉廊、東子午廊、北対、(北対)北子午廊、北築垣、東別屋、西中門南屋、南雑舎、西子午長屋、北織戸内御所、同北子午廊、同西南下午廊、北御堂、北御堂南子午廊、西南車宿

「卯酉(ぼうゆう)廊」とは東西の廊、「子午(しご)廊」は南北の廊である。子午線の子午である。卯酉線という言葉はあまり使わないが、赤道は卯酉線のひとつである、

破損修理とあるので、上図の範囲の建て替えはされていないとすると、「寝殿、東北子午廊、東卯酉廊、東子午廊」の範囲が描かれていることになる。

それにしても変な形だ。

  • まず、対が無い。対代も無い。そういう寝殿は多々あっただろうが、行事、儀式が記録に残るような屋敷ではこれが初出だと思う。
  • 侍所と東二棟廊の床がつながっていない。馬道(土間)でつながっている。おそらく、屋根はつながっているのだろうが。そしてのの侍は南北棟になっている。
  • 東二棟廊がかなり長い。
  • 透渡廊に相当する部分に床が半分しかない。中門廊の中門側もそうだ。
  • 孫庇が北ではなく南にある。
  • 東弘庇は南北に二間にかない。「信貴山縁起絵巻」で僧が勅使と面会する絵があるが、形も用途もあんな感じか。「信貴山縁起絵巻」のあのシーンには違和感があったのだが、ここで出てくるということは、当時普通にあり得たということだろう。最上級寝殿ばかり見ていると気づかない。
  • 南孫庇の西端一間だけ弘庇になっている。これも初めて見る。
  • 西庇と書いてある部分と西廊に真ん中の柱が無い。屋根の形は判らないが、柱の記載が正しければ、建物としては七間の母屋の東五間に北庇を付け、東五間目を用途として庇扱いとし、西二間を別室に区切っているようにも見える。良く見たら東庇の母屋側にも柱が無い。すると八間の母屋の切妻屋根の南北(北は一部)に庇を伸ばしたようなものか。これがかなりイレギュラーなのか、あるいは寝殿は入母屋屋根と思い込む方が間違いなのか。

このような必要に応じた庇の拡張は寝殿の平面構造で紹介した仁寿2年(852)の宇治花厳院への「尼証摂施入状」の建物を思い出させる。これが地方の豪族とか、諸大夫の屋敷なら、下々ではそういうことも、と納得しやすいが、藤原氏氏長者の私邸なのだ。そしてこの邸の主は公式行事では東三条殿を使っている。


初稿 2016.9.29