寝殿造 5.7 建具の変化・平清盛の六波羅泉殿 2016.10.8 |
|
平家一門の屋敷は六波羅にあった。長門本『平家物語』巻14には以下のように書かれる。
二十余町かはともかく、平清盛の父忠盛の頃から方一町の屋地を持ち、清盛の代に相当に広がり、平家一門と郎党達の武士団団地と化していたようである。その清盛の六波羅泉殿の寝殿周辺の姿が知られるのは、高倉天皇の中宮となった清盛の娘・平徳子が後の安徳天皇出産のために、実家である清盛の六波羅泉殿に戻ったからである。そのときの記録が『山槐記』治承2年(1178)11月12日条などに指図も含めて残る。 太田静六『寝殿造の研究』、p.613より 左端に「蔵人所カ」とあるところはは特に名称は見当らなかったものだが、おろらく蔵人所にでも宛てられたのだろうと太田静六は推測する。平徳子が来なければ侍所だろう。侍所とは武士の詰め所ではなく、執事・家人の詰め所である。そして天皇家の執事役が蔵人である。中門廊の西壁は、『玉葉』治承2年11月14日条中にこうあるので確かである。
この復元図は信頼性が高い。『山槐記』の指図を元にしているからである。それにしても妙な寝殿だ。平清盛と云えば従一位太政大臣にまでなった、院をも凌ぐ最高権力者である。 寝殿については母屋三間の四周に庇を持つ小寝殿だで、『玉葉』治承2年12月15日条にこう記される。
つまり普通とは相違して母屋の中央に並戸が立ている。『山槐記』治承2年11月12日、皇子御出産の当日条中でも、当時にあっては常の儀ではない異例の寝殿と言われている。
東西の庇まで南北に仕切られている。中門廊の先に西門があり、その間に随身所や車宿があった。『山棟記』治承2年10月25日条中に随身所と車宿をそれぞれ使用したことが記されている。これも図には書かれていないが存在し、『山槐記』治承二年十一月十二日条(皇子御生誕当日)の条中に、東門は普段は使わない小門だと明記している。
二棟廊と中門廊はあり得るバリエーションの内だが、西に透渡廊が無く、東にはまるで寝殿を延長したもたいな東泉廊が接続している。寝殿の部分を拡大してみよう。 東三条殿の指図とはだいぶ違う。
この屋敷はいつ頃建てられたものなのだろうか。清盛はこの当時の権勢は摂関家や院すら超えて、官位でも従一位前太政大臣で、消失前の東三条殿の主とさほど変わらないにもかかわらず、格式という点ではかなり劣る。平治の乱は平治元年(1160)12月、それから18年後の記事なので平治の乱当時からあった寝殿造かもしれない。平治の乱以前であれば清盛は四位の諸大夫であり、これぐらいの屋敷であってもおかしくはない。そもそも平家一門は官位は上昇しても、公家社会の有職故実には暗い。壮大な厳島神社は建てても、道長や頼通のように豪華な邸第造りに血道をあげるとは思えない。と思ったのだが、『顕広王記』治承2年7月29日条によるとこうあるので「兼被作彼亭」が新造でなく修理であったとしても装いは新たにしているようである。
そのことについて太田静六もこう書く。
清盛は、これとは別の八条坊門第に主に住んでいる。そちらは大寝殿造だったのかというと、これまた手狭で寝殿も小さいものだったらしい。 治承4年の以仁王と源頼政の挙兵に際し、高倉天皇は清盛の八条坊門第に難を逃れたが、『山塊記』治承4年5月22日条には、高倉天皇の乗る御輿は八条第の寝殿に着いたものの、正面階隠間の柱間が狭くて御輿を入れるのに苦労したとある。
高位の者、特に天皇や院は中門廊からでなく、中庭に面した寝殿正面から入る。八条坊門第もやはり小規模な寝殿造であったらしい。 初稿 2016.9.28 |
|