寝殿造 5.8  透渡廊の消滅と母屋の変化    2016.10.14 

太田静六は平安時代末期における寝殿造の特徴は、小規模住宅の平面的な発達にあるとしてこう書く。

平安末期まで盛んに営まれてきた大規模邸宅は、実生活より儀礼や饗宴を中心とするものであったが、この種の邸宅は平家時代に入る前後から急激な衰えをみせ、これに代って実生活に即した小規模住宅が急激に発達すると共に、盛んに営まれるようになった。例えば摂政藤原基房が他に大規模な邸宅を持つにも拘わらず、日常愛用していた松殿第は、僅か四分の一町ほどの小住宅であった。
また平家一門の住む六波羅第にせよ西八条第にせよ、今まで一般に考えられているような大規模邸宅ではなく、小規模なものであった。このように、平家時代に入ると大邸宅時代は過ぎて、実生活本位の小規模住宅が主流となる。それ故、一見したところでは如何にも低調といった観を与えるが、これは表面的な見方で、少しく注意すると実質的にはより進歩して、次に現れる書院造や一般住宅に一層接近したことが認められる。このことがなお顕著に現れるのは次の鎌倉時代に入ってからだが、小規模ながら実生活本位の邸宅に移行した点が、平家時代における最大の特色である。(『寝殿造の研究』、p.529)

一点だけ保留するが、この太田静六の意見には基本的に異存は無い。異存が無いのは寝殿造の研究に関わるほとんどの研究者も同じだろう。

保留にした一点は、大規模寝殿造花盛りだった摂関期の普通の寝殿造が明らかになっていないからである。最後の大規模寝殿造である東三条殿が脚光を浴びたのは、それ以外に道長、頼通時代の大規模寝殿造が無くなったからであり、その東三条殿すら火災により消滅したことによって、儀式の場が摂関家の小規模寝殿に移り、それによって以下の寝殿の状況が判明したということである。東三条殿が消失せずにいたら、以下の寝殿もその詳細は記録に残らなかっただろう。

つまりバブルの頂点のような摂関期には最大級の寝殿造に隠れた、中小規模の寝殿造が沢山あったはずである。寝殿造の常識からすれば非常識な頼長の宇治小松殿や、平清盛の六波羅泉殿。そして以下に挙げるような小規模寝殿造からそれを感じ取ることも出来る。なお、小規模寝殿造とは云ったが、それは摂関家としてはであり、寝殿造全体の中では中の上ぐらいだろう。『中右記』元永2年(1119)3月21日条に「東西対東西中門如法一町家」と書いた本人、藤原宗忠の屋敷を思い出して欲しい。大治3年(1128)の「平資基屋地去渡状」など、たった2戸主(約300坪)の屋地で寝殿を名乗っている。

なお、頼長の宇治小松殿が、指図に現れた「寝殿、東北子午廊(中門廊)、東卯酉廊(二棟廊)、東子午廊(侍所)」の他に「北対、(北対)北子午廊、北築垣、東別屋、西中門南屋、南雑舎、西子午長屋、北織戸内御所、同北子午廊、同西南下午廊、北御堂、北御堂南子午廊、西南車宿」があったように、以下の図も屋敷の中で儀式に使われた寝殿とそこへの尊者など客の経路の範囲に過ぎないことに注意は必要である。

関白藤原基房の松殿第

その「僅か四分の一町(8戸主)ほどの小住宅」である。四分の一町(8戸主)がどのぐらいであるかというと、60m四方である。この屋敷が四分の一町であることは、『山棟記』仁安2年(1167)2月15日条の「上西門院御所焼亡」の記事である。このとき鳥羽天皇の第二皇女上西門院の御所であり、その火災数年内に松殿は基房の所有となったらしく、基房が再建して承安3年(1173)12月16日に移ったことが『玉葉』同日条にある。このとき基房は関白だった。兼実は関白の屋敷が四分の一町とは「小過歟」と割書で書いている。その移徙の義に右大臣兼実が尊者として招かれた。その元服儀は二棟廊で行われて指図が残る。それを元に太田静六が復元したのがこの図である。

寝殿造の歴史・松殿第

太田静六復元図、『寝殿造の研究』、p.629

透き渡廊はまだあったが、5年後の『玉葉』にはこうあり対屋も対代廊も無かった。

関白第、中御阿南、烏丸束、松殿是也、以西為礼、無対屋 (『玉葉』治承2年(1178)4月26日条)

この松殿第も新造から21年後の建久5年(1194)3月26日被災し、基房は花山院へ移る。

三条南・高倉第

ただ、基房はこの屋敷しか持っていた訳ではなく、仁安2年(1167)正月二日に摂政基房は三条南、高倉第で臨時客を開いている。それまでなら、そういう儀式は東三条殿で行っていたが、東三条殿はその前年、仁安元年(1166)に消失している。この三条高倉第は方一町の大邸宅であり、西対代もあったようである。

錦小路・大宮第

また三条高倉第以外にも錦小路・大宮第を所有していた。その大宮第は有名な治承大火(治承元年4月28日)で焼けたが、承安2年(1172)正月2日に基房はここで臨時客を開いている。『玉葉』同日条には

錦小路大宮第、伴家、前太相国々領也、新加修造所献也、以西為礼、無対井透廊等

と記され、西礼の家で対屋や透廊も無かったらしい。ただし方一町か、四分の一町なのかは不明である。



九条兼実の冷泉万里小路第

兼実は九条殿、大炊御門北・角小路西邸も持っていたが、『玉葉』によると、の摂政氏長者に就任した翌月の文治2年(1186)4月28日に冷泉万里小路第に移った。この屋敷は参議藤原隆房のものであった。隆房の家系は藤原北家魚名流で摂関家では無いものの、藤原顕季以来藤原家成など、代々院近臣の中枢を勤めた家系で、隆房自身も後白河の近臣であり、加賀国・因幡国などの受領を務めて公卿に昇った。当然相当の資産家であったはずである。

『玉葉』同年10月17日条には寝殿南庇・車宿・四足門・棟門・渡殿などの修理が終ったとある。そして二ヶ月半後の文治3年(1179)正月3日にここで臨時客を催し、『玉葉』当日条に下の指図がある。臨時客は正月2日か3日に摂関家で公卿以下を饗応する行事である。

寝殿造の歴史

太田静六復元図、『寝殿造の研究』、p.642

それと、同日条の記述から太田静六が復元したのがこの図である。

寝殿造の歴史
太田静六復元図、『寝殿造の研究』、p.643

このときの尊者は大納言右大将の藤原実房で、尊者は寝殿中央の階を登っている。

右大将来臨、人々降立中門外、・・・・右大将進立中門下、此間、・・・・余出自二棟廊中門、・・・・経寝殿東南簀子、降自南階西頭、

前内大臣も招待されており、饗座に着く経路は『玉葉』当日条に

前内大臣入自中門廊東北妻戸、経透渡殿並寝殿東面妻戸奥座北辺等、着第一東京錦菌

と記されている。位は前内大臣の方が高いはずだが、尊者にならなかったのは現職ではないからか。なおこのとき、兼実は前内大臣を迎えるために、二棟廊を出て寝殿東南賛子を通り、正面南階に出ている。この当時、二棟廊は主人の書斎ないし客亭を兼た居間的に使われているが、ここでも二棟廊が兼実の居間であったことが判る。そしてその臨時客が終わると、兼実は座を立ち、簀子縁を経て二棟廊に戻っている。

この屋敷においても対屋も対代廊も無い。東三条殿での臨時客は東対の南庇だったが、今回は寝殿の南庇を使っている。東三条殿では、殿上人の座を南庇の前の弘庇を使ったが、その弘庇が無いので、東庇を使っている。

兼実は南庇を11尺に直したのにまだ一尺足りず、席の後ろを人が通れなかったと悔やんでいる。大饗や臨時客を主催した前代までの摂関家の大寝殿は、こうした儀式のために庇の幅も大きくしていたのだろう。参議藤原隆房邸であった頃は11尺より更に狭かったはずである。この11尺でも寸法の記載のある史料の中では最大級なのだが。

『玉葉』文治2年(1186)10月17日条に、寝殿南庇・車宿・四足門・棟門・渡殿などの修理が終ったとあるが、それ以前にはこの屋敷の門は板棟門だった。同年5月20日条には、後白河法皇の使者が来て、この屋敷に御方違行幸をしたいというので、兼実が「又門不葺檜、旁(かたがた)見苦歟」、即ち冷泉第は門が槍皮葺でなく見苦しいからと言って遠慮した。もっとも「院宣云、板棟門之条、全不加有憚」となって、後白河はここに来ているが。

当然相当の資産家であったはずの公卿の屋敷でも、屋敷の門は板棟門で、庇も摂関家の臨時客に対応できないほどの幅だったということになる。
なお、この屋敷は鎌倉時代の承久の乱のあと、藤原隆房の孫、四条隆親が、西園寺氏真とともに後嵯峨天皇をバックアップし、後嵯峨天皇の里内裏から院御所となり、亀山天皇に始まる後の大覚寺統の本所御所となった。

大炊御門・富小路殿

九条兼実は冷泉万里小路第に2年ほど住んだあと大炊御門・富小路殿へ移る。この屋敷は貴族でもトップクラスの左大臣藤原経宗の所有であったのを後白河法皇が他の屋敷と交換して入手し、多くの舎屋を増築したものを兼実に貸与したものという。兼実は文治4年(1188)8月4日にここに移ったが、その邸は案外と小規模で、門を入って屋家をみると甚だ狭小で寝殿母屋の柱間は1丈2尺、庇は9尺しかなく、「甚凡卑也」と述べている。

冷泉万里小路第で庇11尺では1尺短かったと嘆いた兼実だから庇は9尺は問題外なのだろう。しかしここ大炊御門第は藤原経宗の父・大納言藤原経実以来のもので経実は大炊御門と呼ばれるのでメインの屋敷だったのだろう。摂関家本流との格差はあるだろうが、それほど貧相な屋敷とは思えない。要は摂関家として臨時客が開けるような寝殿ではなかったということか。なお、経宗の家系はその後も大炊御門家と呼ばれるので後にはここに戻っていると思われる。

同じ富小路に面してはいるが、鎌倉時代の里内裏・冷泉富小路殿とは別物である。

関白藤原基通の六条堀河殿

摂関家は藤原忠通のあと基実が継いだ。妻は平清盛の娘・盛子である。しかし24歳で亡くなる。そのそのとき、子の基通はまだ7歳であったため、義母盛子が厖大な摂関家の荘園を管理することとなり、摂関の地位は基実の異母弟の松殿基房が中継ぎとして継承した。摂関家の凋落は直接にはここに始まり、摂関家はこの基実に始まる近衛、鷹司と、兼実に始まる九条、一条、二条のいわゆる五摂家に分かれる。

治承三年の政変、いわゆる鹿ケ谷の陰謀事件で後白河法皇の院政が停止され反平家の公卿が一掃されると、基通は治承3年(1179)11月15日に非参議右中将から内大臣・内覧・関白に任じられた。このとき基通はまだ20歳である。そして同月26日に近衛邸からここ六条堀河邸に移った。近衛邸はこの後に出てくるが、その当時は寝殿が無く、関白の屋敷としてふさわしくないということらしい。

その六条堀河殿で三ヶ月後の治承4年(1180)2月11日に、基通の弟・忠良の元服が行われ、その時の指図を元に太田静六が作成したのが以下の復元図である。なお指図には「庇張八尺 三間図面寝殿也」とある。対屋の消滅はそれ以前からあったことだが、この図では透渡廊まで無くなっている。平清盛の泉殿でも透渡廊は無かったが、摂関家の屋敷でそれが無くなるのはこの屋敷が初めてである。

既に述べたように、対屋や対代廊はもちろん、透渡殿まで無い。寝殿に次ぐのは二棟廊で、ここが普段は客亭とされるなど、儀礼本位ではなく実用的な住宅である。東中門はあるが、中門南廊は単なる塀になっている。正門も関白の屋敷なら中門の東正面に四脚門があるべきだが、六条大路に開いた南門で、四脚門ではなく普通の棟門である。その当時の近衛邸では関白の屋敷としてふさわしくないということでここに移ったはずなのだが、一昔前の摂関邸の面影はどこにも無い。

山槐記』同日条にはこの屋敷は故美福門院の乳母伯者局の宅だとある。故美福門院の乳母伯者局の宅としてならこの小規模寝殿造は理解出来る。もちろん所有者と居住者が別であることはこの時代沢山あるが。太田静六は基通の父・基実を称して六条殿と呼ぶところから考えると、この六条堀河殿は元来が基実の所領で、それを基通に相伝して移ったのであろうと推測するが、六条というだけではここと断定は出来ず、永万2年(1166年)に亡くなった基実存命中はまだ摂関領は横領も分割もされてはおらず、基実が住んだ屋敷とは私には考えにくい。



初稿 2016.10.04