寝殿造 6.3.3a 常盤井殿・第2・3期 2016.11.21 |
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概況常盤井殿は西園寺実氏の別邸として文応元年(1260)以前に成立し、実氏よりその娘大宮院を経て、その子の亀山院・後宇多院そして恒明親王へと次々に譲られた。その間、建治3年(1277)、弘安5年(1283)、そして正安2年(1300)と3度焼失し、その都度再建されたが、その後、建武3年(1336)正月10日の焼失で幕を閉じる。 弘安5年(1283)焼失の後、いつ再建されたのかは不明だが弘安10年(1285)10月19日に後深草院が冷泉富小路殿よりこの御所に移っている。借りたのか? 正安2年(1300)焼失後は嘉元元年(1303)に再建されたのが最後の御所である。その四期には後伏見院の仙洞になっている。後伏見院が退去したのは元弘の乱(1333)での鎌倉幕府滅亡によってである。 判明している焼失によって四期に分けると、御所の指図等は、第二期のもの一件。第三期のもの一件。第四期のもの二件が残る。 御所の位置は京極大路の東で、春日小路の南、大炊御門大路の北、ほぽ方一町の地を占めていたらしい。京極大路より東なので洛外になる。ほぽ方一町というのは、洛外なので東には小路も大路も無いからである。ハレの面は当然京極大路になって御所も西をハレとした。 第二期建治3年(1277)の焼失以降、弘安5年(1283)の焼失までである。 構成この期の情報はあまり残っていない。ただ『勘仲記』弘安5年(1283)11月26日条に、焼失した第二期・常盤井殿には「泉屋」が設けられていて、京極面北門とともに焼け残ったとある。西側か東側かは解らないが、おそらく北側にあったのだろう。 廿六日壬午 晴、夜半自冷泉朱雀火災出来、常盤井仙洞焼亡、泉屋丼京極面北門等焼残云々、 指図仁和寺蔵の弘安元年(1279)12月16日の行幸の指図である。この図には書かれていないが、原本には右上、寝殿の東に「御所在之」と記されている。 藤田勝也編 『日本建築史』 p.139より ただし、見慣れていないとこの図は何を書いているのか解らない。儀式の指図は普通の平面図とは違う。行幸の経路に関するところしか記されていないからだ。ここから読み取れる範囲で再現するとこのようなことである。ただし寝殿の梁行が四間でなく五間だったかもしれない。北側は常に省略される。 川上貢の『日本中世住宅の研究』 旧版p.52 にある仁和寺蔵の原図写真と比べると、『日本建築史』の図の「二棟廊」と「弘庇」の文字の位置が少しおかしい。作図時の誤植だろう。対代廊の弘庇であることは、二棟廊南面東から三間目に南向妻戸が書かれていることで解る。原図に「二棟廊」の記載は無いが、この位置にあるのは二棟廊以外無いということでカッコ付で図に加えた。なお、念誦堂と車宿、随身所の梁行が違うが、原図でも『日本建築史』の図のように書かれていて、そこは私の修正である。柱間寸法を全て同じと見なして作図した。 この御所は、まだ透渡廊があり、二棟廊に弘庇は付いていない。西対代廊も備わっている。東にも塀中門があり、東西に中門を備える。また寝殿は三間四面相当と比較的小さめであるが、東に「御所在之」と書かれていることから、小御所、常御所、あるいは泉殿がそちらに有ったと推定される。この「御所在之」との記述が気になる。というのは次の三期にも「泉亭」が、四期には「泉殿」が記録に残るからだ。「泉亭」「泉殿」なら場合によっては小さめな、用途としては弘御所のような遊興の場かもしれないが、「御所在之」と云われると、その「泉殿」は小御所のような規模、用途にも思えてくる。しかしこの時期の記録はこの指図一枚しかない。川上貢の博論段階ではこの指図は載らなかったらしく、1967年の『日本中世住宅の研究』 旧版に「補論」として加わった。 第三期弘安5年(1283)焼失後の再建で正安2年(1300)の焼失までである。 構成この第三期の期間に記録に表れるのは以下のものである。
京極面南門とは西中門の正面にある正門だろう。東中門廊、東中門は第二期の図にもそれらしきものが描かれている。なお、上記のリストは記録に残ったもののリストであって、あったものはそれだけといいうことではない。例えば絶対にあるはずの殿上(侍廊)や随身所が上がっていない。 指図『門葉記』に正応4年(1291)3月18日の常盤井殿寝殿指図があるが、おそらく祈祷僧の動線と道場の室礼しか記者の関心にはないので、それから平面図を起こすことは難しい。 先の仁和寺蔵の弘安元年(1279)12月16日の行幸の指図のあと、弘安5年(1283)に被災しているので、同じ寝殿ではない。ただし、その次の四期でもほぼ同じ様な構成になっているので、ほぼ同じ構成と仮定してみよう。するとこうなる。オレンジが道場の中心で、黄色が経路と道場の従たる部分である。 道場の中から見ると東西北の三面には御簾がかかっている。東は御聴聞所に宛てられていること、階の西側は三間あるが東には一間しか描かれておらず、東には指図に書かれていないスペースが二間あると推定される。北は孫庇もあるかどうかは不明だが、庇一間はあるだろう。西はハレ側の外壁で、内側が御簾ならば外側は格子(蔀)だろう。南は簀子縁に何か書いてあるのだが私には読めない。ただ、ハレ面は通常格子(蔀)なのでそう置いてみた。 ところが、この三期の段階では透渡殿は無かったようである。『実躬卿記』永仁2年(1294)2月29日条によると、勅使座が対代弘庇に設けられたことについてこうあるらしい。
『勘仲記』正応2年(1289)4月21日条御所には上皇(後深草院)の他に、後深草院の中宮だった東二条院とその娘の皇后宮(後字多院皇后)が同宿し、寝殿内を上皇・女院・皇后宮三人の室が設えられ、北面と東面に常の在所が設けられた。おそらく後深草院が東二間。「左大丞申云、東二条院御方台盤所当時無其所、以皇后宮御方可被通用」とあるので、東二条院とその娘の皇后宮が北だろう。従って北も梁間は二間だと思う。 『勘仲記』正応2年(1289)10月5日条『勘仲記』正応2年(1289)10月5日条の、久明親王元服の室礼ではこうある。
こんなところでお目にかかるとは。久明親王なら伏見天皇の皇子ではなく後深草院の皇子である。川上貢先生でも重箱の隅ではミスもあるのかと思うとなにか安心する。久明親王は、従兄の前将軍・惟康親王が京に送還されたことにともない、元服して、すぐに征夷大将軍に就任し、鎌倉に向かい鎌倉幕府の8代将軍となる。 寝殿の南庇の(西から)五ヶ間と、同じくその簀子縁に筵(下の図では黄色)を敷き、二棟廊の弘庇と、西対代弘庇にも、更に中門北廊三ヶ間も同様に筵を敷く。元服する親王の行路のようだ。儀式のときには筵(今のゴザ?)をよく敷く。 が、逆に二期にあたる仁和寺蔵の弘安元年(1279)12月16日の行幸の指図は、 寝殿のハレ向きしか記していなかったとすればどうだろう。何しろ殿上の北一間も書かれてはおらず、更に二棟廊など透渡廊からの視線で、西から妻戸、そして 格子(蔀)が二間ということしか書かれていない。第二期の頃から寝殿は五間四面だった可能性も出てくる。西礼の御所なので、寝殿の中での主人(院とか天 皇)のプライベートルームは北に二間無ければ東になるだろう。行幸の指図、記録にはそこまで書く必要は無い。行幸という儀式に関係するところだけ記せばよ いのだ。我々は見たことも無い千年近く前の御所の間取りを知ろうとして指図を見るのだが、それを記す者にとってはそれは既知の事実である。ただし、二期の 段階から桁行七間だったと云うには、指図の階の位置は書き間違いとしなければならないが。 すると寝殿、二棟廊、西対弘庇、中門廊の位置関係は下の図のように考えるのが妥当だろう。殿上の位置などは二期を踏襲した辻褄合わせだが。透渡廊が無くなると二棟廊南に弘庇が付くというのはこの頃一般的なパターンで、それが再建の前後で変わるという良い例になる。既に触れたが、透渡殿は勅使との対面の場らしい。それが無くなったので、その代用に二棟廊に弘庇を加え、勅使対面の場にしたと。が、下の図はまだ途中経過だ。西対代の検証が残っている。 西対代・二棟廊・休廬1案西対代については『勘仲記』正応2年(1289)10月5日条の久明親王元服の準備に関してこうある。
これだと少なくとも西対代は母屋と庇と弘庇で梁行三間以上あるように見える。上記の引用に弘庇は出てこないが、すでに見た通り「親王の行路」に弘庇がある。川上貢はこの解読に時間が割けなかったようだから(それでも半世紀経ってもバイブルであり続ける博論だ)こちらで取り組んでみよう。しかしこれは難問だ。ネズミ一匹出てこないかもしれない。ただ、川上貢も云うように言葉通りに読むとどうもおかしいのだ。下手すると梁行五間のようにも読める。そこで分解して順に見ていこう。●はちょっと無理があるかと疑問に思う点である。 (1)「西対代東南二面、御簾懸之」 西対代全体の東南二面に御簾を懸けて、おそらく下ろしたのだろう。その内側には几帳、あるいは屏風があるのが通例である。ただ、平安時代には几帳が良く出てくるが、鎌倉時代も後半になると几帳の記述が少なくなったように思える。
(2)「同母屋二箇間、同北庇二ヶ間〔撤中障子二間〕、子為親王御休廬」 a)、西対代の母屋とその北側の北庇二ヶ間と読むと、母屋は梁行二間となる。後で東西の庇が出てくるので、あわせると梁行四間。川上貢同様に、それなら立派な対屋じゃないか。何で対代なんだという疑問が湧く。ただし持明院殿の対代も対代と云いながら梁行四間あった。 b)、「母屋二箇間、同北庇二ヶ間」を母屋・庇とも梁行一間とみなし、二ヶ間は南北二ヶ間、合わせて2×2間のスペースと見なす。「同北庇」は西庇の北側のことと強引に読む。これならば東庇が加わっても全体の梁間は三間だ。対代と云われても納得する。 いずれにせよその2×2間のスペースには内部が障子で仕切られていたがこれを取り払って、ひとつのスペースにし、今なら中学生の久明親王の「休廬」にしたと。、「休廬」はここでは曹司と同じと解釈しておく。 (3)「同母屋並庇北面、懸御簾巻之」 これはケース(a)だと理解しがたい。(2)で中障子を撤去したというのに御簾が残っているのか。鎌倉時代後期の話であるので、障子と云えば遣戸障子だろう。杉障子(板)か布や紙の障子(今の襖)かは解らないが。 ケース(b)ならば切妻の建物で東西に庇、母屋も西庇も北面で外界に接する。そこは格子(蔀)で、日中は上を跳ね上げているのだろう。格子(蔀)ならば普通内側に御簾を垂らしている。それを巻き上げるというので辻褄は合う。その外に立蔀の塀でもあったのだろう。あるいは池があって風光明媚でも良い。外から覗かれる心配は無く、採光出来ると。 (4)「同庇東西障子覆御簾」● このあたりからやっかいだ。何で東西? 「東西」を「東面」に読みなおしても、既に(1)で御簾を懸けているではないか。しかたがないので(1)では懸けただけで下ろしてはいないと解釈しておこう。なお「同庇東西障子」は「西対代の庇の東西の障子」、つまり西庇の西面と東庇の東面の障子で、この場合はその外は室外だから、格子(蔀)も障子となる。 (5)「母屋東南西三面懸壁代、立廻五尺屏風四帖」 壁代は几帳の布を長くして壁に貼り付け、カーテンのようにしたものである。それで母屋の北を除く三面を覆ったと。更に内側を屏風で囲ったと。五尺屏風とは高さが五尺(約150cm)、6枚のパネルからなり1枚は幅1.8尺(60cm弱)。波形に立てるので、一帖でおおよそ柱間一間(一丈、引柱寸)を塞ぐぐらいである。「母屋東南西三面」も、その母屋が二間×二間の周囲約八丈もあっては塞げるのは半分で「立廻」にはほど遠い。かと云って一間×一間では囲われ過ぎで出入り口が無くなる。「休廬」二間×二間、内母屋が一間×二間の南北行というのであれば、「休廬」内母屋一間×二間の内一間×一間半ほどを屏風で囲えば出入り口完備で視線を遮るプライベートスペースが出来上がる。 現在のオープンスペースなビルのフロアでも、コーナーの間仕切りは150cmのパーティションで十分視線を遮る。 (6)「同西面敷繧繝端畳二枚〔東西行〕」 その屏風で囲った中の西側に繧繝(うんげん)端という皇族専用の最高級の畳を一枚の方向は東西に、それを南北二枚敷いたと。南北二枚とは書いていないが普通そうだからである。横に並べては一人分のスペースにならない。なお、この当時の畳みは現在のものより大きい。 (7)「其前置脇足硯筥等〔脇足東、硯西〕」 その前に脇足と硯筥を置いた。其前とは、畳みの敷き方から北か南のどちらかである。 (8)「副東屏風立壷厨子二脚〔南北行〕、北厨子上置御冠筥二合、南厨子上置唐匣並?器〔唐匣東、?器西〕」 その親王座の東の屏風に厨子二脚を置いたと。すると北向きに座っているように見える。この領域にはそれほど詳しくは無いが、この室礼を見て欲しい。これは南(下)が正面で二階棚は西にある。「脇足」「硯筥」「御冠筥」「唐匣」「?器」がどういうものかは『続群書類従・26』の「類聚雑要抄」を見て欲しい。不得意分野なので下手に説明しようとすると墓穴を掘りそうだ。 (9)同間西辺敷高麗端畳一枚〔南北行〕」 これも難問である。(6)で親王座を西面に敷いているじゃないか。何で同じ間の西辺に畳みが敷けるのか、と。ケース(a)で母屋が梁行二間だったら休廬の外でないと敷けない。しかしここは休廬の室礼を説明しているのだ。矛盾する。 (10)「庇二ヶ間敷高麗端畳一枚〔東西行〕」● まず後半に「同東庇」とあるので、前半の「庇二ヶ間」は東庇のことか。しかしこの1案では庇は西にも東にもあるのに単に庇と云っている。しかし西庇はもう使ってしまった。残るのは東庇だが、休廬の東側の東庇北二ヶ間か。西対代は南北棟で庇も南北に長い。なのに畳一枚を東西行に敷くとはどういうことだろう。なにかおかしい。 (11)「同東庇南第一二間暫安理髪御調度」 翌日に元服のために頭をちゃんと結い上げる場所はここではない。ここは道具控え室のようなものであり、東庇は東弘庇とは違う。というのは筵で設えた弘庇を親王が進むのはこの翌日だからである。弘庇を道具置き場に使う訳はないし、儀式で主人公の親王が、道具置き場を通る訳はない。つまり下の図のグリーンのエリアの南から二ヶ間、ちょうと「東庇」と文字のあるあたりである。
対代らしく、なるべく梁行を狭く解読しようとしたが、西庇、母屋、東庇、弘庇、各一間で、梁行四間になる。そして「東庇南第一二間暫安理髪御調度」置き場
というのもこの図で見ると納得出来るだろう。東庇南第三間は西対代北西の休廬から寝殿に向かう通路になる。 最初の頃は川上貢先生は何で太田静六みたいに平面図を起こしてくれないんだろうと不満に思っていたが、今では感謝している。逆にいうと、何でも解ったかのように平面図を出す太田静六は鵜呑みには出来ないとしみじみ思う。 西対代・二棟廊・休廬2案しかしもしも建物の構造がこうだったらどうだろう。施工上はこの形の方が合理的だ。西対代と思っているものは、実は二棟廊の延長部分と殿上(侍廊)の延長部分からなっていると。下の図は茶色っぽい部分が切妻屋根と思って欲しい。作合は『建築大辞典』 p.1000 に「二つの屋根の出合う部分、ここでは雨が溜まるので桶をもってそれを受ける」とある。桶とは今で云う雨樋である。私が知っているのは春日大社の直会殿(なおらいでん)と舞殿のこれぐらいだが。 二棟廊は里内裏や院御所、親王御所などでは二棟御所とも云われ、主に南側は天井を張り母屋と呼ぶ。建物の構造としては母屋では無いのだが、主人の常御所や、その家族の居所となるからである。そして北側を庇と呼称する。 『勘仲記』正応2年(1289)10月5日条の室礼を当て嵌めてみよう。
これならば6日条(5)の「親王経西作合並弘庇、自中門廊南車寄戸前、下御堂上」にある「作合」は非常に明確になる。二棟廊と侍廊屋の接合部分二ヶ間、休廬のすぐ南側である。
前者の「次ぎに」説はそんな事例が他にもあるのかどうかは知らないが、個人的にはあり得るように思う。しかし(2)も根拠はある。例えば天皇が親である院のところに年始の挨拶にくる朝観行幸でも対屋に休廬が設けられた。だから実は二棟廊の西端であっても、作法としては西対のつもりなのである。なにしろ里内裏では対屋が粗末だと、寝殿の南を紫宸殿、寝殿の北を清涼殿のつもり、として設えるぐらいだから。 なお、もしも本当に侍廊(殿上)と西対代南側の屋根がひとつの切妻屋根でつながっているのなら、私なら侍廊と西対代の境目一間を馬道(めどう)にして板で橋を渡すだろう。同じ屋根の下でも別棟と演出するためである。 東中門廊寝殿東方の施設には前記『勘仲記』永仁2年6月25日条の春宮御書始の記事中に、侍読等の公卿参路としてこうあり、東中門・同中門廊が渡殿で寝殿と連絡していたらしい。
「経南庭」にそんなこともあるんだと、ちょっとビックリしたが。 『勘仲記』正応2年(1289)10月6日条翌6日条は元服の式次第がかなり細かく書かれている。とりあえず出てくる場所を仮に示しておく。この図は西対代・二棟廊・休廬2案で描いている。「作合」は前述の通りここと考えるのが一番適切だと思う。 久明親王の動線を中心に整理してみる。
建物の配置、親王の動線に関わるものはここまでである。やはり藤原兼仲の文章能力の問題ではなくて、私の読解力の問題だった。しかし問題は作合と弘御所である。 作合亀山殿のときは川上貢は建物と建物を繋ぐもの、つまり廊と解釈したが、今回のケースは違う。既に2案で書いてしまったが、作合は『建築大辞典』 p.1000 に「二つの屋根の出合う部分、ここでは雨が溜まるので桶をもってそれを受ける」とある。桶とは今で云う雨樋である。私が知っている実例は春日大社のこれぐらいである。 弘御所これも既に書いてしまった。「御休廬」を含む二棟廊である。そう考えるしかないというのがこのサイトの見解である。呼び名を固有名詞と思い込んではいけないという例である。くだけて云うと「パパ」と「あなた」と「うちの人」と「おにいちゃん」は場合によっては同一人物というようなものだ。この場合は同じ人間が言う「ママ」と「あのひと」、あるいは「パパ」と「意地悪大魔王」が同じというに近いかもしれない。 儀式の場しかしこの二日間の記事で、鎌倉時代後期の最上級寝殿造での儀式空間のおおよそが見えた気がする。儀式空間としては左右両対など必要ない。中門廊もハレ、というか礼、この御所は西礼だが、そちらだけあれば良い。鎌倉時代でも院御所には両中門があったが、この記事には西中門と中門廊しか出てこない。またケ(褻)の空間に属する寝殿の正門の反対側、この御所では東側二ヶ間はまったく書かれない。寝殿北側も同様である。どちらかというと、寝殿母屋までケのエリアかと思うぐらいである。そして庇の重要性だ。 初稿 2016.10.15 |
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