寝殿造 7.2.1 南北朝・室町期の内裏 2016.12.10 |
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土御門東洞院殿位置は北正親町、南土御門、東高倉、西東洞院である。 平安時代末期に同地に所在した藤原邦綱の土御門殿と呼ばれた屋敷のあった処とされる。権大納言藤原邦綱の屋敷は「寝殿造の変質・小寝殿」で取り上げたがあれとは違うようである。複数の成功用の屋敷を持っている。後白河天皇の第六皇女・宣陽門院が長講堂領とともに後白河法皇から受け継いだ屋敷である。おそらく藤原邦綱が後白河に献上したのだろう。その後、長講堂領とともに後深草が相続したようである。そしてここには長講堂のバックアップとしての「新長講堂」あるいは「上長講堂」と呼ばれる仏堂があった。 建武度(1337-1401)建武3年(1336)正月10日に二条富小路殿内裏が兵火により焼失したので、新たに内裏に定められたのは土御門東洞院の地に所在した陽徳門院の土御門殿であった。翌年の建武4年(1337)9月2日に北朝の光明天皇がここに入り、その後も崇光、後光厳、後円融、後小松と、歴代天皇の内裏として受けつがれた。暦応2年(1339) 、康安2年(1362)、貞治5年(1366) としばしば修理が加えられておよそ60余年のあいだ維持されてきたが、応永8年(1401)2月29日、小御所より出火し全焼する。 位置と敷地東:高倉通、西:東洞院通、北:正親町通、南:新長講堂で土御門までは達していなかった。 寝殿平面図二条富小路殿内裏は久々に紫宸殿と清涼殿が分かれていたが、建武度の内裏は寝殿ひとつで両者を兼ねている。 土御門東洞院殿は桁行・梁行ともに七間という、寝殿造の常識からはちょっと考えられない梁行だが、このあとの応永度や康正度の清涼殿でもやはり梁行七間なのでほんとうにそうだったのだろう。ただ、棟分けの並戸の北と南という、鎌倉期から顕著に見られる傾向はここでもはっきりとみてとれる。下の図は上記・土御門東洞院殿の表示を縮小して、母屋背面の並戸の南北を色分けで示してみたものである。
そして下は足利義教の室町殿の寝殿造を同じように色分けして縮小表示したものである。こうして見ると、両者はほとんど同じに見える。どう同じかというと、並戸の南側では、伝統的な母屋・庇の構成をはっきりと残し、北側では全く自由な部屋割りがなされているということである。 応永度(1402-1443)内裏土御門東洞院殿の焼失後、内裏の新造はただちに着手せられ、翌年の応永9年(1402)11月19日に移徒行幸が行なわれた。そして最後は応永度内裏は嘉吉3年(1443)9月23日の夜に焼失する。賊の乱入による放火のためとか。殿舎については『康富記』、嘉吉3年(1443)同日条にこうある。
土御門東洞院殿は南に上長講堂があったため東西行一町、南北行半町だったが、応永8年(1401)の火災で焼失したため、その敷地も含めて方一町となった。ただ「方四町々也」は意味が解らない。「北正親町、南土御門、東高倉、西東洞院」なら方一町である。「四方各一町」のつもりだろうか。 (参考)平安・鎌倉時代の内裏・清涼殿応永度以降の内裏では紫宸殿と清涼殿がきちんと分離した。その清涼殿を見るためには、元となる平安時代の清涼殿を押さえておく必要がある。下の右が平安時代の清涼殿である。
ただし名称に一部を省略したり、「ヤリト」でなく「戸」と書かれたものは「妻戸」と解釈するなど正確性には若干欠け、室町期の清涼殿と見比べる範囲で作図している。以下の用語説明も間取りを見る上で必要な範囲をザックリとであって、正確にはネットでも調べられるだろう。 参考の二つ目は右の鎌倉時代末期の元弘元年(1331)に幕府によって新造された富小路内裏での清涼殿である。若干は変わっているがほぼ平安時代の清涼殿が踏襲されている。なによりも、建物の基本的構造が変わっていない。つまり母屋・庇の柱列で屋根を支えている。 ただし鎌倉元弘期の図は仏事の道場指図から起こしたものなので、仏事で使用された南から三間の建具は解らない。儀式に使うときには室内の障子などは撤去し、御簾や壁代で設えることが多いからである。 応永度内裏の清涼殿応永度の内裏の清涼殿の平面図である。川上貢の著書では右を北に作図がされているが、北を上に修正した。清涼殿は平安時代から東を正面、ハレとした南北棟の長方形の殿舎である。その清涼殿を七間四方の正方形に建てるのなら、南を正面にしてもよさそうなものだが、そこは伝統の重みなのだろう。指図に清涼殿と書かれた母屋の部分はしっかりと東を向き、前に庇がある。この部分がハレ向きでもっとも重要なのだろう。本来西庇に並んでいた鬼間、朝餉之間、台盤所が南庇に並んでいるが、この並びなら有職故実はなんとか満たせる。 室町時代・応永度(1394-1427)内裏。川上貢『日本中世住宅の研究』 p351より作図 が、建物の基本的構造が変わっている。屋根を支えているのは母屋・庇の柱列、側柱(かわばしら)と入側柱(いりかわばしら)ではない。つまり平面図に現れる柱列と、屋根の小屋組が分離している。母屋後方の棟分け度の奥の変化は確かに鎌倉時代から始まってはいるがそれでも母屋の後ろは二間だった。ところがここでは、母屋後方の棟分け度の奥は、その倍の四間もある。実はこの傾向は建武度(1337-1401)の寝殿から始まっている。正面は90度違ってはいるが。 康正度(1455-)内裏次の康正度内裏の清涼殿である。やはり七間四方の正方形ベースである。 室町時代・康正度(1455-)内裏 間取りは多少違うが、棟分けの並戸を境とした正面(東・右)とその裏側の関係は全く同じで、正面は母屋・庇の関係が維持され、裏側では実生活に根ざした間取りがなされている。 初稿 2016.12.10 |
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