寝殿造 7.2.2 室町時代の伏見殿 2017.2.13 |
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伏見殿の前史と概況『迎陽記』、応永8年(1401) 7月4日条にこうある。
「回禄」は火事のこと。伏見殿はかつて平安時代に、橘俊綱がその所領伏見荘の勝地に経営した臥見亭のあった場所である。橘俊綱は藤原頼通の庶子であるが、母が橘俊遠の妻となって、形式上では俊綱も俊遠の子とされた。しかし実際の出生故か、尾張守・丹波守・播磨守・讃岐守・近江守・但馬守など大国の受領を歴任し、その財力はそうとうなものと思われる。父・頼通同様に屋敷マニアであり、『作庭記』の著者とされるほどである。 しかしその伏見荘臥見亭は寛治7年(1093) 12月に焼亡。翌年俊綱が卒去した後、伏見荘は子の家綱から白河院に献上された。その後、有仁親王、頌子内親王に伝領され、後白河院に献上された。後白河の後は、遺領長講堂領に含まれる所領のひとつとして後白河の娘・宣陽門院に伝領された。後にその長講堂領を後深草天皇が相続したことは有名である。 上記引用にある「弘安回禄」は、『勘仲記』、弘安元年(1278) 11月28日条こうある。
「先年有焼失事」の「先年」がいつかは解らないが、『勘仲記』の残っていない建治3年(1277)と川上貢は推測する。 南北朝・室町時代の伏見殿を一期と二期に分けると、一期は上記の記事にある応永8年(1401)7月までである。その後、伏見の地は伏見宮家の家領としてひきつづき相伝された。そして桃山時代に豊臣秀吉が伏見城を建設するときに編入されて終わった。「桃山時代」「桃山文化」の「桃山」とは伏見城のことだという。 一期の伏見殿伏見荘と伏見殿は長講堂領から分れて崇光院およびその子孫によって相伝されるが、その過程は複雑である。「正平一統」のあたりは非常に入り組んでいるが、伏見宮家を説明するためには触れておかなければならない。 南北朝の動乱のさなか、足利尊氏、直義兄弟の内紛(観応の擾乱)が起こり、尊氏は時間稼ぎのため、観応2年(1351)に南朝に帰順して北朝は消滅。11月7日北朝の崇光天皇や皇太子直仁親王は廃される。年号も北朝の「観応」が廃されて南朝の「正平」に統一された。これを「正平一統」と呼ぶ(ただし以下便宜上北朝の年号を用いる)。そうして尊氏は直義追討に出陣し、翌観応3年(1352)1月に鎌倉に追い込み降伏させる。 その火災以前の建物で、指図が残るものは仏殿と以下の小御所である。 一期の小御所『安任卿記』永仁6年(1298)7月27日条の割註に「以御堂北小御所為御所」とあり、伏見殿には小御所があった。そして永和2年(1376)に小御所で光厳院御十三回忌結縁灌頂が行なわれたときの小御所の指図が仁和寺にのこっている。このときの伏見殿の主は崇光院である。その間に火事の記録はないので両者は同じものかもしれない。指図にあるのは西をハレとする五間四方に1×2間の張り出しが付いた建物である。 この仏事ではハレの西半分が道場に、そしてケの東側が僧衆の控え室に使用された。だからケの面の間取りがこうして残り、建物の全体が判明した。そうでなければ指図に書かれるのは西から三間のみで、東は不明になっていただろう。 ただし、これは仏事道場の室礼指図であるので柱の記述が省略されているように見える。構造的に考えると、下の図の赤、及び青の位置にも柱があったのではなかろうか。更に云うなら、北の突き出し部分にも柱があり、南北に建具で仕切られて、突き出し部分が中門廊、あるいは公卿座あつかいになっていたのかもしれない。 というのは柱間寸法を寝殿造系の10尺としてでの話であるが。藤田盟児は畳みを追い回しに敷いていることから、7尺前後の主殿造系ではないかとする。それならば赤や青の柱は指図の省略ではなくて実際に無かったのかもしれない。 二期の常御所その後、伏見荘は長講堂領から切り離されて伏見宮家に戻され、応永16年(1409)に栄仁親王がここに戻る。『椿葉記』だとこの部分である。
応永8年(1401)7月4日の火災によってかつての殿舎は失われており、荘内の大光明寺の塔頭で、崇光院の妃、栄仁親王生母・故三位局が住んでいただという宝厳院という尼寺の建物を仮御所とした(桜井清 p.82)。故三位局は『看聞日記』によるとその15年前の応永元年7月15日(1394)に亡くなっている。つまりこれは元院家と云うことになる。院家と云っても元は隠居場の山荘だが。この時期の伏見宮家には新たに伏見殿を再建する財力はなく、栄仁親王からその子・貞成親王までのおよそ20有余年にわたって仮御所生活が続く。 以下私は先の貞成親王の『椿葉記』の記述から第二期の伏見殿の常御所は宝厳院の住居とみているが、貞成親王の伏見在住中にも、近所の宝厳院が出てくる。故三位局の隠居場が院家に、次いで伏見宮家の住まいとなり、仏堂は別にあって宝厳院として残ったのかもしれない。 その間に、後光厳院の孫・後小松院の跡継ぎ称光天皇が死んだことにより、貞成親王の子・彦仁王が後小松院の猶子として即位して後花園天皇となる。更に後小松院が死んだあとの永享7年(1435)に洛中一条東洞殿の新御所に移る。 ただしその新御所も新築ではなく、後小松院の御所の寝殿など一部を移築したものである。後光厳流の後小松院は、崇光流の伏見宮家から猶子を取り後花園天皇としたが、それはあくまで後光厳流の天皇であって、後花園の実父・伏見宮貞成親王を天皇の父とは扱わないように周囲に遺言し、自分の御所(仙洞)を伏見宮貞成親王に譲ことも禁じていた。それゆえ足利義教は、後小松院の仙洞の建物を解体して公卿等に分配しつつ、寝殿等主要部分を隣の敷地に移築して、形としてその遺言を尊重しつつ伏見宮貞成親王の洛中御所を用意し、しばらく後に後小松院御所のあった空き地も貞成親王のものとした。その土地には崇光流の伏見宮家に代々忠誠を尽くしてきた公卿等を住まわせたようである。 さて、その伏見殿仮住まいの初期の状態である。川上貢復元平面図(p.178)をベースに『看聞日記』応永23年(1416)11月18日条などを反映させてみた。 それより5年前の応永18年(1411)11月に右大臣今出川公行への秘曲伝授、及び貞成の元服(既に40であるが)の記事があるが、そこに見える間取りはこの応永23年とあまり変わらない。ただ、応永18年のときには正式には茵(簡単に言うと座布団)を敷くべきところ、入手できなかったので毛氈二枚を重ね敷きにしてすませたという。ことごとく略儀であったらしい。引き出物も本来は御馬進献なのだが、剣だけで済ませている。室町時代の上級貴族は右大臣と云えども有職故実通りには出来なかったということだ。(桜井清 p.99) 元が荘内の院家・宝厳院で新築では無いとすると、柱間は10尺は無く、8尺ぐらいだったかもしれないが、6尺ということは無いだろう。あとで根拠を示す。ここは「寝殿」を名乗ることを憚っている。藤原定家の寝殿や嘉禎度の近衛殿の寝殿よりも大きいのだが、貞成親王らの感覚では「狭少不思議なる草庵」(先の『椿葉記』、桜井、p.82も同)であって、胸を張って「寝殿」というのが憚られたのだろう。なお、殿上は塔頭であった頃、栄仁親王らがここに戻った頃にはなかったかもしれない。 建物の構造は母屋・庇ではない。側柱(かわばしら)と入側柱(いりかわばしら)の構造ではないという意味でである。弘庇の柱が歯抜けになっている。屋根はそれほど重くはないのだろう。板葺きか、檜皮葺としてもこんな感じだろう。しかし真ん中はしっかり棟分けの並戸である。屋根を支える柱の構造はシンプルである。中央の棟分けの柱列と南北面の3本の柱列で支えているように見える。南北の中央を棟分戸(並戸)で仕切り、前(南)がハレの場である。ハレの場の外壁は蔀と妻戸である。その奥(北)がケ(褻)のエリアになる。外周の建具は不明だが、おそらく舞良戸(まいらど)だろう。 二期当初の状態仏事の設えだが『看聞日記』、応永24年(1417)11月18日条(p.112、川上貢p.181)を箇条書きに直す。これを通してそれぞれの部屋がどういうものであったかがおぼろげながら解る。
「中の上」の中世住宅先に述べたように応永16年(1409)に栄仁親王がここに戻ったときに住まいとしたのは荘内の院家(尼寺)・宝厳院である。上記応永23年(1416)11月18日条はその7年後であるが、ほとんど変わっていないはずである。この宝厳院を仮の住まいにしたということは、おそらく伏見荘内では一番立派な建物だったからなのだろうがローカルな塔頭である。中世住宅の中では「上の下」より下の「中の上」ぐらいのランクだろう。それでも寝殿の構造を持つ。寝殿の母屋なら南庇があると云われそうだが、それが弘庇になっている。藤原定家の寝殿もそうだった。これぐらいは格下の寝殿では許容範囲内である。かつ寝殿の時代的変化、つまり並戸によって南北に分けられ、北は孫庇と一体化して間仕切りがされるという後期寝殿造の傾向まできちんと見せている。下はその比較である。もちろん足利義教・室町殿寝殿は「上の上」、それに対して伏見殿は親王家の屋敷として建てられたものではなく、「中の上」の洛外寺庵の仮住まい。大きさはもちろん違うが、しかし構造はほとんど同じである。
伏見殿 足利義教・室町殿寝殿 貞成親王時代の平均値次は平常時の状態を川上貢の説明にそって整理する。ただし上記の応永23年(1416)11月よりも後の、貞成親王時代の平均値だと思う。 客殿 西面四間、藻光院御方とも呼ばれ四間の大きさの室としてあらわれ、常御所とは隣接していてあいだに障子がたてられていた。常御所との間の障子を撤去して仏事の道場や七夕法楽の会所にあてられる。 持仏堂 持仏堂は元々のものではなく、治仁王の居室として、その生前に使われていたその一部を建具で仕切って持仏堂としたという。学問所と持仏堂がL形の一室となり、塗籠を含めた四間が先代治仁王の居室だったのか。
常御所 客殿の東に隣接し南面四間の室で、その東に庇間(二間)が附属している。常御所との庇間のあいだには元は柱があったが、撤去されて三枚の障子がたてられるように変更された。庇間は常御所より床の高さが一段下っていたらしく、近臣の祇候所にあてられている。 御湯殿上 女官の祗候所または夫人の居室で、宮御所の北面に隣接していた。御湯殿上は夫人居室として専用ではなくて、女官の候所であったところから、夫人居室、御湯殿上、御末の三者を一室で兼用していたと考えられる。室の大きさは四間であった。貞成親王の夫人は伏見宮に祗候する公卿、庭田経有(宇多源氏)の娘であり、正妻というより女房の一人らしいが、何人も居る側室の一人とかではなく、妻に該当するのはその一人しかいない。いかにも伏見に隠棲している宮家という感じがする。 持仏堂、塗籍、学文所 この三者は、常御所と客殿が南面しているのと反対に、北面した位置にあり、一ケ所にまとまって存在するのが一般の例であったようだ。持仏堂と塗簡が各々一間四方程の大きさというのは川上貢の推測である。学文所は両者の北側に北面して明るい場所に設けられていたように推測されるというのは妥当だと思う。 殿上 御所番衆の候所であり、外様公卿の控所にあてられた。つまりもっとも入口に近いところにある取次の間で、奥の主人常居所である常御所と御所への昇降口との中継場所であり、したがって、御所警固の番衆の控所となり、常御所へ招じ入れられない客人の控室にあてられたのであろう。なお、殿上は四間を数えた。 なお、別棟の廊屋に「東御方局・廊局」があった。位置としては御湯殿上に近く設けられていたと考えられる。 二期の14年後永享元年(1429)12月27日に貞成親王の子・彦仁王が後小松の猶子として即位し後花園天皇となる。それには義教の働きかけが大きかった。義教は貞成親王を室町殿に招いたり、また永享2年(1430)12月には伏見殿を訪問している。この段階想定の平面図がこれである。ベースは川上貢案だが。 そのときの伏見殿の室礼が『看聞日記』、永享2年(1430)12月19日条にある。例によって分解して見てみよう。
ただし、この室礼に出てくる屏風は「禁裏仙洞御屏風」に「広橋屏風」、「菓子以下八合」は「勧修寺五合進之入江殿三合」と伏見殿のものではなく、借り物のようだ。「八合」等の「「合」は容器(蓋物?)と読んだが。「広橋」も「勧修寺」も将軍および伏見宮側近の公卿である。伏見宮家の質素というろりも、貧困な生活が垣間見える。このときは後小松院の院政中とはいえ、既に天皇の父なのだが。 初稿 2016.12.11 |
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