寝殿造 7.2.3 門跡寺院の寝殿 2016.12.10 |
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院家・実乗房(岡崎房)概観実乗房(岡崎房)は鎌倉時代には公卿の子弟、特に洞院家の子弟によって相承された延暦寺の院家である(p.450)。 元応元年(1319) 12月灌頂指図実乗房(岡崎房)で、後に青蓮院門跡・延暦寺座主となる大乗院尊円親王のための濯頂の儀式が行われ、その指図が『門葉記』に残る。『門葉記』の指図にはいかにも正確そうなものと、ラフスケッチのようなものがあるが、これは前者である。 桁行九間梁行四間で、旧来表記では七間四面と、鎌倉時代の寝殿としては最大級である。屋根を支える柱の構造としては、まだ寝殿造のままで、母屋の梁 の中央に六本の柱を入れただけである。この柱も屋根を支えていたかどうかは解らない。方立のように建具の仕切りとして立てられたのかもしれない。しかし間 取りは既に母屋・庇の構造から離れはじめて、細かい間仕切りが始まっている。寝殿造より主殿系書院造へと進化する過程の過渡期の形式と川上貢は捕らえている(p.451)。
門跡・青蓮院の里坊・十楽院比叡山門跡・青蓮院の里坊・十楽院の鎌倉時代末期より南北朝時代初期頃の状況を示す配置図が『門葉記』にある。これはある意味非常に貴重な図である。というのは指図は通常、儀式の室礼の指図であって、正門から寝殿のハレ面しか描かれない。希に御産の室礼とか、移徙の指図で寝殿の北側が知られる程度で、寝殿の北の雑舎の配置図など皆無と云ってよい。この十楽院の図にはそれが描かれているのである。御厨子所(厨房)まで描かれている指図は始めてみた。
川上貢 p.267 の「十楽院指図(f門葉記j所収)」より作図。例によって柱間寸法は全て同じとした。 普通の寝殿造と違う点も確かにある。これほどの規模の寝殿造なら、礼側、この場合は西礼だが、正門を入ると、左に殿上(侍廊)、右に車宿と随身所があり、正面は中門廊とコの字形に塞がれるのが大臣家クラスの通例である。そして中央正面に中門がある。しかしこの屋敷では左右の殿上(侍廊)と随身所・車宿がない。更にこの図では正門の正面が中門ではなく中門廊(中門北廊)の車寄戸になっている。 北側の対屋と雑舎寝殿より先に対屋や雑舎 を見ていこう。一対、二対は北対と云っても良いものである。北対は藤田勝也が 『日本古代中世住宅史論』の中でまとめており、当サイトでも既に見てきたが、よく源氏物語の六条院復元図に見かけるような(要するに『家屋雑考』のような)寝殿と同レベルのものよりも、例えば女房の局のような長屋が多い。上の全体図で云うと「東対」を横にしたようなものである。太田静六が『寝殿造の研究』(p.499)において、おらく北対の平面形式や用法の知られる最初期の例であろう とした『御産部類記』にある、村上天皇の女御藤原安子が天暦4年(950)5月24日に皇子憲平(後の冷泉天皇)を出産した前後の記録にもこうある。
この屋敷の一対と二対は少し南北にずれているので馬道(めどう)東西にはならないが。 そしてその北対の、この屋敷のように西礼の屋敷なら、西の妻(端)正面に門があることが多い。たた、文字による記述には良く出てくるが、この図では「一体七間」の西正面に門が描かれている。 ただ、ここは高僧の住まいなので大勢の女官や女房は居ないが。そして、既に述べたように通常なら西正門の腋に侍廊が家政機構の事務所になるのだが、その家政機構、僧の屋敷なので「家政」とは云わないが、それに相当する機能が一対、二対に見られる。公文所は所有する荘園其の他、経済面での文書機関である。綱所は家司クラスの役僧の執務室である。 東対の西には竈殿がある。竈殿とは書かずに御厨子所とまるが。この建物に土間があるのは煮炊きの竈があるためだろう。「御分座」は良く解らないが、「侍所」はおそらく雑務を担当する下級僧の詰め所だろう。 「東対」は確かに東は東だが北東にある。柱間寸法をExcel 一コマに統一してるので原図とは少し印象が違うのだが、右と左の柱間は1対2ぐらいに描かれている。仏事の指図の柱間寸法は江戸時代の春画のような、関心遠近法とでも云いたくなることがあるが、この元になる指図の柱間の描き分けは信用して良いかもしれない。印象としては僧房のようだ。僧の屋敷なのだから当たり前と云えば当たり前だが。参考に僧房の復元図をリンクしておく。法隆寺と元興寺である。大寺院の奈良時代の僧房の梁行はこの「東対」の倍ぐらいあるが、長屋状態は同じである。その北端に風呂場がある。これらは鎌倉時代、南北朝時代の門跡の里房だからということではなくて、平安時代から一般にはこうだったと思われる。 中門廊から寝殿中門廊から寝殿までを拡大してみよう。 次ぎは小御所である。 初稿 2016.12.10 |
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