寝殿造 7.2.4 院家の主殿 2016.12.21 |
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東寺宝泉院 永徳3年(1383)〜宝泉院は永徳3年(1383)3月頃に新坊と呼称されていたことからその数年前、あるいは10数年前頃に創立されたと思われる。応永24年(1417)3月16日に宝泉院で結縁潅頂が行なわれており、その時の道場指図が『続群書類従第26輯上』に収録されている。その指図と記録の両者から川上貢が推定したのがこの平面図である。 公卿間は中門との境および西面柱聞に妻戸をたてていて中門あるいは西面車寄からのそれぞれの客殿への昇降口を開いていた。 屋内は襖障子や壁で間仕切られたようで、畳は敷きつめられず板敷であった。そのことと、中門廊の梁間が一間であることから、この主殿の柱間寸法は寝殿造以来変わらぬ1丈ベースであったように思う。ただし、建物南半分にも、既に母屋・庇の構造は見てとれない。 奈良・禅定院禅定院は元興寺の別院であるが、経済基盤の確立が遅れた元興寺は封戸の崩壊とともに衰退して四分五裂状態だった。永久2年(1114)興福寺大乗院院主が禅定院の諸堂建立に関係したことから、禅定院主も兼帯した。平家の南都焼打により興福寺大乗院も延焼したが、元興寺・禅定院は無事であったため、興福寺の別当房にあてられた。元興寺なのに。おまけに興福寺再建後も、大乗院は禅定院がその居所となった(p.453)。 以下にあげる禅定院は宝徳3年(1451)に焼失したあとに再建されたものである。 享徳3年(1454) 常御所ラフスケッチのような道場指図しか残っていないので全容はわからない。ただしここでも建物南半分でも、既に母屋・庇の構造は見てとれない。もう寝殿造ではなさそうだ。の主殿の柱間寸法はおそらくは10尺ではなくて6〜7尺だろう。建てられた年代も大きな要素だが、「九間」が出てくると私は6〜7尺の疑いをもつ。中門廊に相当する部分、ここでは障子上の梁行が二間だと私の中ではほぼ確定である。 文明7年(1475) 文明9年(1477)12月 会所殿舎の全容享徳3年より40年後の明応3年(1494)の目録では禅定院諸施設の内容は次ぎの通り。(「禅定院建物注文」『尋尊大僧正記』明応3年巻末所収川上貢p.454)。
このうち「檜皮葺常御所一宇 丼障子上棟一宇」が享徳3年(1454)の常御所だろう。会所は「檜皮葺北棟一宇 檜皮葺亭一宇」のどちらかか。しかしその他にまだ「大池中嶋檜皮葺亭一宇」がある。この時代の貴族は摂関家と云えども、こんな豪邸ではなかったのではないか。 文明17年(1485)南都仏地院応仁の乱の後、非本式寝殿あるいは常御所の系譜をひくいわゆる主殿が正規寝殿に代わるものとして登場してきた。その代表例として文明17年(1485)に仏地院に造立された主殿である。仏地院は南都・興福寺の院家(いんげ) 梁行中央で屋内を南と北に二分するところの東西行に連続する建具仕切(並戸)がみられる。並戸以南は15間を中心に左右に六間二室が配され、並戸の北は諸室に細かく分かれていた。「内」とあるのは塗籠だろう。各部屋の広さは、例えば「六間」は倍にして「12畳」と読めば判りやすい。 室町殿寝殿平面との相違は並戸以南の母屋・庇の別の解消が一番大きい。もちろん鎌倉時代後半から庇は残り香程度に薄まってはいたが、この仏地院に到っては完全に無くなっている。この変化は応仁乱後の前述の状況の中で、公家行事にみる古代的体裁の保持と踏襲が困難になった、あるいは諦めたということだろう。もちろんここは院家であって公家の屋敷ではないのだが、この当時の仏教、特に大寺院の仏教は民衆の為のものではなく、護国のため、貴族や権力者のためのもの、つまりクライアントは権力者であり、更に門跡とか院家の主は貴族・皇族出身者達である。 そして青蓮院の里坊・十楽院でも判るように、僧の住まいとっても奈良時代の僧房とは違い、基本的にその時代の「お屋敷」となんら代わりはしない。従って、この間取りは興福寺の院家故の間取りではなくて、これが建てられた当時の大工が、普通に作っていた「お屋敷」の姿を現していると見て良い。もちろん「普通に」といっても「お屋敷」での話で、一般庶民の話ではない。「超大豪邸」ではなく「普通に豪邸」というぐらいか。決して奇想天外な新設計ではなかったはずだ。 目新しいのは一室の梁間が三間になっていることである。これまで見てきた平面図では一室の梁間は基本二間だった。古風な寝殿の母屋も梁間は二間である。梁間が三間だったのは足利義教の室町殿ぐらいだったと思う。云ってみれば「超大豪邸」だ。そしてそれらでも梁間が三間だったのは一室に限られ、普通は二間だった(*)。ところがこの「超大豪邸」ではなく「普通に豪邸」ぐらいな仏地院は東西の棟の中央の柱列から南北にそれぞれ三間を基本としている。奈良時代の寺院建築や、寝殿造を見慣れていると、よくそんなに太い梁がこの時代に手に入ったものだと考え込んでしまうが、種を明かせば柱間が狭まっているのである。この仏地院の三間の長さは寝殿造の二間と同じ長さなのだ。従って上にあげた平面図も縮尺を合わせている。 (*):足利義教の室町殿のあの九間は本当だろうか、中に柱が2本あったんじゃないかとすら思えてくる。 建具並戸の南の古代的形式が薄れた処に、並戸の北において発展してきた建築様式や建具が全面的に進出した。 外面の建具建具表によると妻戸4(侍上)、蔀3(侍上)、遣戸14(内侍上4)で、蔀はあるにはあるが三カ所と極めて少ない。その位置は「侍上」という以上に は判らない。その「侍上」を通常中門廊と呼ぶものと、その北の六間、西に着きだしている六間、二間のあたりと見なすと、対面上もっとも重視する、正門から 見える西面あたりではないだろうか。「六坪」と書かれる中門廊の西三間内一間は妻戸(車寄戸)、残る二間は連子窓(れんしまど)付きの白壁がお約束だ。 室内の建具板戸とあるのも室内とみれば、明障子(今のショウジ)11〜12、衾障子(今の襖)18、板戸6〜7,腰障子39の合計74〜76である。全て遣戸障子(引き違いの建具との意)である。腰障子とは上が明障子、下が板戸である。今のショウジにもそういうものがあるが、この当時のショウジは今よりも無骨で和紙を貼る部分は上半分ぐらいである。外面に使うときに下の方は雨に当たりやすいので板にする。 仏地院では柱はすべて五寸角の角柱、内外の仕切建具、「何間」とある部屋は畳の敷詰。既に書いたが例えば「六間」とあれば倍にして「12畳」と読めば判りやすい。「六坪」とある中門廊(この当時は中門と呼ぶ)は板の間だろう。間取りはのちの書院造の形式に接近している。 敷地ところでこの仏地院は下図のように敷地内の配置が判っている。敷地は東西14.7丈、南北23丈で面積は一町屋の1/5で7戸主より少し小さい。 さて、先に「仏地院の三間の長さは寝殿造の二間と同じ長さ」と書いたが、それが判明したのがこの敷地の配置図からである。柱間寸法は5.94÷9で6尺6寸(約2m)で、平均的な寝殿の2/3である。現在の京間の畳みが長辺6尺3寸だから柱の寸法を加えるとニアリーイコールぐらいである。一室の梁間が三間と云っても、平安時代の寝殿造の標準、10尺二間と同じ長さである。 川上貢 p.541 配置図を元に作図 ところで、この配置図で、主殿はえらく南に偏っている。普通なら南北の比率は逆にするだろう。地形の問題もあるかもしれないがそれだけではあるまい。ほんとうに敷地内にこれだけだったなら風呂は銭湯(あるか?)、三度の食事は出前ということになる。この当時、蕎麦屋が自転車でカツ丼を運ぶなどということはない。それにガレージ(車宿)は? 院家なのでメイド(女房)は何人もいないだろうが、執事役や下男役の侍僧は何人もいたはずだ。そうした者の住む雑舎が上土門と小門を結ぶ線より北にあったのだろう。図に現れないのは、おそらく当時の町屋程度の雑舎だったからではなかろうか。 鎌倉佐々目遺身院「永仁元年(1323)胤助伝法灌頂記」(金沢文庫)にある鎌倉佐々目遺身院の指図から起こした平面図である。もはや屋根を支える柱の母屋・庇の構造を読み取ることは出来ない。これはもう小屋組(屋根の架構)が平面図から分離したと見るしかない。しかしこれをどう位置づけたら良いのか全く解らない。
初稿 2016.12.10 |
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