新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集[第8冊] p75
源頼清
源仲宗
(筑後守、蔵人従四位下)。1094年8月17日、子惟清の白河上皇呪詛で周防国(讃岐)に流罪 白河院の寵愛を受けた祇園女御
(ぎおんのにょうご) の元夫?
宮人:(祇園女御)....
生没年不詳 .<別号:白河殿・東御方>
1093 この頃、白河上皇に出仕するか 1105 祇園社東南角に阿弥陀堂を建立する 1106 鳥羽殿の御堂にて五部大乗経の講説を行う(7月) 1129 白河法皇崩御 *姓氏不詳。宣旨を受けた女御ではなく、白河殿とも称されました。藤原顕季(白河法皇の乳母子、院の近臣)の縁者で、三河守源惟清の妻かといわれます。また蔵人源仲宗の妻とも、祇園西大門の小家の水汲女ともいう。はじめ下級官女か。
祇園社の東南に阿弥陀堂を建てており、里邸はその辺りにあったと伝えられます。子女はもうけず、法皇の猶子であった藤原璋子を養育したという。晩年は仁和寺内の威徳寺に暮しました。
平清盛の母は祇園女御とも、祇園女御の妹とも伝わるが、伝承の域をでない。
【祇園女御(ぎおんのにょうご)】
生没年不詳。
平安後期の女房。東御方・白河殿とも称されるが、実名は未詳。『吾妻鏡』では源仲宗の妻と伝えている。源仲宗は清和源氏、頼信の孫、父は源頼清。蔵人従四位下仲宗がこれにあたる。 東山の麓、祇園社の傍らに館を構えていたことから宣旨が下ったわけではなくとも、「祇園女御」と称された。白河院の寵愛を背景に待賢門院璋子(しょうし)の養母となり、宮廷社会に影響力を持った。 ある時、白河院がさる事件を機に平忠盛の思慮深さを愛で、この女性を忠盛に賜った。 その時女御は懐妊しており、月満ちて産まれたその子が清盛であった。ゆえに清盛は白河院の落胤であるという話が『平家物語』巻6「祇園女御」に出てくるが、実際に忠盛が賜ったのは祇園女御の妹の方で、祇園女御は養母という立場であったらしいが、清盛の落胤説については、“近江胡宮神社文書”、“中右記”(藤原宗忠の日記)等の幾つかの資料が存在している。
「増補點註國史略」 土御門天皇
頼家,昏愚。政を聽く能は不。是に於て,新に問注所(鎌倉政治堂の名)を作り,三善善信を以て執事と爲す。其の他,大江廣元・三浦義澄・八田知家・和田義盛・梶原景時・比企能員藤九郎盛長等,皆な其の政を與り聞く。(頼家,小笠原彌太郎・比企三郎・比企彌四郎・中野五郎等の小人を親近す。益々愚に且つ淫。景盛の妻,國色有るを聞くに,數々,手書を賜い,私に之に通んと欲す。會(タマタマ),參河に賊有り。郡邑を横行す。因て景盛に命じ之を討す。其の亡(ルス)を時とし,遂に之を奪う。景時,賊を誅し,而して還るに及で讃し曰く。「怨望,謀判す」と。頼家,怒て4近侍及び廣元等と之を議す。廣元が曰く。「昔,某の帝,源仲宗の妻を奪う。女御某。是れ也。後,仲宗を隠岐に竄す。況や景盛,先君に仕て,恩に浴する海深。然るに一婦の爲めに主を怨む。宜く早く誅すべし。乃ち彌太郎に命じ,兵に將とし,其の館を圍む。政子,之を聞て,曰く。「汝,若し渠(カレ)を殺す。請う。先づ余を殺せ」と。頼家,乃ち止む。而して政子,訓導,備(ツブ)さに至る。猶,悛(アラタ)め不。又た嘗て百日の蹴鞠を作し,紀内行景を京より召し以て之が師と爲し,日夜之を事とす。
吾妻鏡 正治元年・八月十九日
萬人莫不恐怖。廣元朝臣云、如此事、非無先規。△鳥羽院御寵、祇薗女御者、源仲宗妻也。而召仙洞之後、被配流仲宗於隱岐國・・・
源惟清
[父、源仲宗]寛治8年(1094)8/17、白河上皇呪詛で伊豆大島流罪
源盛清(みなもとのもりきよ)
[父、源仲宗]寛治8年(1094)8/17、兄弟惟清の白河上皇呪詛で信濃更級郡村上郷に流罪 参考:平家・人物辞典
源顕清(あききよ)
[父、源仲宗]寛治8年(1094)8/17、兄弟惟清の白河上皇呪詛で越前国に流罪
源惟清(みなもとのこれきよ) [父、源仲宗]寛治8年(1094)8/17、白河上皇呪詛で伊豆大島流罪
源重成(みなもとのしげなり,佐渡式部大夫,八島) [八島冠者(佐渡源太)重実3男。母、勾当大夫宗成娘]満政流。美濃源氏 天承元年(1131)には大炊助。永治2年(1142)1/23、兵部少丞。保元元年(1156)7月、保元の乱で後白河天皇方。12/21、従五位下式部丞。平治元年(1159)12月、平治の乱で源義朝の身代りで自害。
源仲清(みなもとのなかきよ) [父、源仲宗]寛治8年(1094)8/17、兄弟惟清の白河上皇呪詛で阿波国に流罪
源仲宗(みなもとのなかむね) [父、源頼清]筑後守。寛治8年(1094)8/17、子惟清の白河上皇呪詛で周防国(讃岐)に流罪
源満仲(みなもとのみつなか,満慶,多田新発意) [父、六孫王源経基。母、橘繁藤(古)娘or武蔵守藤原敦有娘]延喜12年(912,13)誕生。天徳4年(960)検非違使として平将門の子を追補。左馬権助。安和2年(969)源連・橘繁延の皇太子守平親王廃立を密告→安和の変。左馬権頭。春宮帯刀舎人。摂津守。伊予守。武蔵介・守。美濃守。信濃守。下野守。陸奥守。上総介。常陸介。東宮亮。正四位下。寛和2年(986)出家。長徳3年(997)没 多田源氏祖
源盛清(みなもとのもりきよ) [父、源仲宗]寛治8年(1094)8/17、兄弟惟清の白河上皇呪詛で信濃更級郡村上郷に流罪
村上為国
[父、源顕清。養父、源盛清]信濃源氏。更級郡村上郷住人 保元元年(1156)保元の乱で崇徳上皇方で参戦。妻が後白河天皇寵臣藤原通憲娘で赦免に。寿永2年(1183)源義仲軍で入京後、信濃へ一旦帰国。一ノ谷で源氏大手軍に 人物辞典
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