平家各流
平高望と初期の嫡流
高望王(平高望)
葛原親王関連年表 平高望関連史跡 平高望の子息について 概略表
平氏は桓武天皇より出ず。天皇の夫人多治比莫宗(たじひまむね)、四子を生む。長を葛原親王(くずはら)と曰う。幼にして才名あり。長じて謙謹、書史を読むを好み、古今の成敗を観て、以って自ら鑑む。四品に叙し、式部卿に任ぜらる。子を高見、孫を高望(たかもち)という。高望に姓を平氏と賜い、上総介に拝す。子孫世々武臣たり。 高望四子あり。国香(くにか)・良将(よしまさ)良兼(よしかね)・良文(よしふみ)、並びに東国の守、介、或いは鎮守府将軍に任ぜらる。国香の子を貞盛という。材武ありて善く射る。左馬允となる。 日本外史巻1平氏
平良将
[平高望3男or次男] 下総国豊田郷、鎮守府将軍・従四位下
平家人物辞典
平良孫
[平高望4男] 従五位下 ・上総介・鎮守府将軍 (平国香
[平高望嫡男] (子:貞盛、繁盛、兼任) 常陸国真壁郡石田。常陸大掾。鎮守府将軍 良望から国香に改名。承平5年(935)源護・平良兼とともに平将門と争い、自殺。
平家人物辞典
平貞盛
国香-貞盛 (子:維将、維敏、維衡、維叙)
天慶勲功者 将門の乱まで右馬允。承平5年(935)父平国香敗戦自殺で京から帰国。平良兼と共に平将門と戦うが当初は敗戦。天慶元年(938)常陸大掾任官・平将門追討宣旨。天慶2年(939)2/14、藤原秀郷と共に平将門を追討。 従五位下右馬助。鎮守不将軍。丹波守。陸奥守。従四位下
平家人物辞典
平兼任
国香-兼任
下野守(尊卑分脈)
平維敏
国香-貞盛−維敏
- 982年以前 衛門尉 982年 検非違使尉に推薦(『小右記』天元5年2月4.5.7日条)
- 990頃、肥前守
- 994没 「中世東国武士団の研究」:野口実
平維叙
貞盛−維叙−(子:貞叙、永成)
- 973年(天延1)以前は前兵衛尉
- 973年(天延1) 右衛門少尉 (『親信卿記』 天延元年4月17日条)
- 996 年 陸奥国の前守
『栄華物語』(第五巻「浦々のわかれ」「内には、陣に陸奥国の前守維叙、左衛門尉維時、備前前司頼光、周防前司頼親などいう人々、皆これ満仲貞盛が子孫なり。おのおの兵士ども、数しらず多くさぶらう。」(藤原伊周・隆家が失脚した長徳の変(996)の時)
- 999常陸介在任
- 1005検非違使任
- 1012上野介在任 「中世東国武士団の研究」:野口実
今昔物語
巻十九第三十二 陸奥の国の神守、平維叙に恩を報ずる
平貞叙
貞盛−維叙−貞叙 正五位上・越中守(尊卑分脈)
平永成
貞盛−維叙−永成 中務少輔 従五位下 鎮守不将軍 (尊卑分脈)
平維衡
貞盛−維衡 (伊勢平氏の祖) ・974左衛門尉在任・998伊勢で致頼と合戦・1006伊勢守→上野介・1020常陸介 1028郎従が伊勢で濫妨 「中世東国武士団の研究」:野口実
貞盛四子あり。季の維衡最も勇なり。平致頼、源頼信、藤原保昌と名を斉しくし、四天王と称す。下野守に任ず。後私に致頼と闘い、謫されて淡路に徒る。貞盛、又従子惟茂を養う。又勇敢維衡に亜ぐ。日本外史巻1平氏
平維将
貞盛−維将−維時−直方−維方
973年(天延1) 右衛門少尉から左衛門少尉へ(『親信卿記』 天延元年4月17日条)
筑前肥後守 常陸介 桓武平氏(高望流) 「尊卑分脈」では大夫尉、筑前肥後守、常陸介 従五位上 「続群書類従」にある「北条系図」では 従四位下 上総介 参考:「都市鎌倉の武士たち」
平維時
貞盛−維将−維時−直方−維方
肥前守 上総介 桓武平氏(高望流) 「尊卑分脈」では上総介、肥前守
従四位下 参考:「都市鎌倉の武士たち」
- 988(永延2) 右兵衛尉在任 (『小右記』永延2年閏5月9日条)
- 994(正暦5)年3月6日 盗賊を捜索するため、平維時・源満政・源頼親・同頼信ら「武勇人」として召される。 日本紀略
- 996年(長徳2) 左衛門尉 (『小右記』長徳2年10月11日条)
- 996 『栄華物語』(第五巻「浦々のわかれ」「内には、陣に陸奥国の前守維叙、左衛門尉維時、備前前司頼光、周防前司頼親などいう人々、皆これ満仲貞盛が子孫なり。おのおの兵士ども、数しらず多くさぶらう。」(藤原伊周・隆家が失脚した長徳の変(996)の時)
- 1016常陸介在任
- 1029上総介叙任 「中世東国武士団の研究」:野口実
平直方
貞盛−維将−維時−直方−維方。北条氏の祖? 検非違使右衛門少尉。長元元年(1028)平忠常の乱の追討使に。長元3年(1030)功無く召還。上総介(?)上野介
平家人物辞典 「尊卑分脈」では大夫尉 上総介 従五位上
能登守 上野介 桓武平氏(高望流)
平維方
貞盛−維将−維時−直方−維方 「尊卑分脈」では上総介 従五位上 「続群書類従」にある「北条系図」では 従5位上 能登守 「都市鎌倉の武士たち」
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