本日のお散歩2004  処女地・名越の切通し  11.28PM

と言うことで午後はm-kojimaさんが入り口を突っついた だけの処女地!名越の切通しの探索へ向かったのでありました。処女地って、お前が行ったこと無かっただけだろうって? う〜ん、そうとも言う。

これが切通しの鎌倉側の入り口です。こういうものがあることが古道の証明な訳で御座います。あとは古いお寺の山門のあるところですね。


あちゃ〜、のっけから担ぎかい。ジェイくんこれって逆コースの方が良かったんでないの? ジェイくんは「ちょいと登れば乗れますよ」 と。

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なんか暗いですが、実はデジカメの露出設定ダイヤルが動いちゃってて、
何とかここまで補正。(;^_^A アセアセ…


これが普通の露光状態。で、ちょいと登ったら確かになかなか良い感じです。マウンテンバイカーにはさほど面白い処とは思えませんが、旧道派にはたまらないでしょう。
これを読んでジタンダ踏んで悔しがるm-kojimaさんの顔が目に浮かびます。がはははは (^O^)/

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なんじゃこりゃ? 観音様でも祭ってあったのでしょうか。

こちら「とほとほ道中記・鎌倉の古道」によると、鎌倉時代後期から室町時代のものなんだそうです。2009.2.11追記


途中で切通しを外れてハイランドの公園へ。なかなか良い眺めでした。

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と、そこから竹寺や華頂宮邸ある浄明寺地区宅間ガ谷に抜ける巡礼古道があるはずだと言うのでその探索に。おお、庚申塔が! と言うのでパチパチ。でもこのあと至る所に。
「確かにこれは古道だね、でも何で巡礼古道なんだろう?」 「報国寺じゃないですかね」 「報国寺は巡礼の対象じゃないじゃろ〜」 「あるとすれば杉本寺か?」 と思ったら大当たりでした。

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先がどういう状況か解らないので自転車を置いて徒歩で。
「これ、十分乗れるじゃない、自転車持ってくればよかったね」 「取ってきます?」
「もうここまで来ちゃったらそのまま行こうか」


途中に、金剛屈地蔵尊が、お顔はほとんど風化していましたがそこに説明書きが。源頼朝入府以前からあった鎌倉最古の霊場といわれる板東三十三番霊場第一番札所・杉本寺から逗子久木の第二番札所・岩殿寺(名越の切通しの下)へ参詣する古道だそうです。

で、降り立ったところは華頂宮邸、もとい、我が賄い侯爵邸と報国寺の中間ぐらい。
「これ、逆コースでも十分行けますよ」 「んだね、つまんね〜舗装路使ってハイランドに登るよりよっぽど良いね〜」 「いや、それとこれとは別の話でしょ。」 "A^^;
どっちがジェイくんでどっちがわしかって? んなもん聞かんでも解るっしょ。(笑)


元来た道を戻り、再び名越の切通しへ向かいます。


どっちも古道ですが、切通しは鎌倉時代、巡礼古道は江戸時代だと思います。大体鎌倉時代に巡礼なんてやってなかったと思うよ。仏教なんてインテリ・上流階級しか知らなかったからね。時宗も日蓮衆も浸透しだしたのは鎌倉末期以降でしょう。

と思うんだけど・・・・


再び名越の切通しに戻り、中断していた探索を再開。


おお〜なかなか、大仏坂切通しもこんな感じでした。


が、残念ながら一番の防衛線、馬1頭がそろりそろりとやっと通れるほとんど岩の透き間な切通しは先日の台風22号の影響か補修工事中でした。・・・と思ったら台風なんかよりずっと昔からやっていたそうです。

何をやってるんだろうと見てみると、岩の割れ目にコンクリートで補強を。あれぐらいであれば景観を損ねることは無いでしょう。

おまけ

ところでこの名越の切通しは三浦氏に対する備えであったとか、一般には言われることが多いようです。
確かにこの先には三浦氏しかいませんし、三浦氏は鎌倉時代に一度亡ぼされました。が、三浦氏は和田、梶原、比企、畠山と言った有力御家人が北条氏にやられる中で割と後の方まで生き残って、宗家が滅ぼされたのは元寇のときの執権北条時宗のおとっつあんで明月院に隠居した確か5代執権時頼のとき。おまけに時頼はそれに消極的でした。仕掛けたのは安達氏です(ということに『吾妻鏡』ではなっています、ホントかねぇ)。
そう考えると戦略上の重要防衛ライン言うより、仮に軍事的意味があったとしてもそれは近隣豪族にして有力御家人の三浦氏の軍勢が鎌倉に駆けつけるための軍事道路と考えた方が当たっているんじゃないでしょうか。それよりも、今の形が鎌倉時代からのものと言う証拠はどこにもありません。詳細は「名越切通し」を。

とか、まあそんなことを考えながらこの古道を通るのはなかなか楽しいものです。そお言えば巡礼古道の出発点、杉本寺は発端は奈良時代まで遡ると寺伝にはあるそうですが、まあそのあたりは杉本寺の方で。