奈良平安期の寺社     岩殿寺

奈良平安期の鎌倉(5) 岩殿寺(がんでんじ)

坂東三十三霊場の第二番札所 海雲山岩殿寺(岩殿観音)

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縁起によれば721年(養老5)に大和長谷寺の開基徳道上人が、岩窟にて十一面観音を感得。また熊野権現の化身である老翁に逢い、仏教興隆の鎮守として熊野権現を祀ったと。この熊野権現が観音堂のすぐ右手にあります。
数年のちに僧行基が訪れて十一面観音の石像を安置。そのため徳道と行基の二人を開山としています。本堂裏のに小さな石窟がありますがそれが寺号岩殿寺の由来とか。

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相州三浦郡久野谷郷(神奈川県逗子市久木)海前山岩殿寺(現在は海雲山となっている)の由来は皇統四十五代の聖武天皇の勅願による大和の国(奈良県)の長谷寺の開山本願徳道上人が、この地に下向されたときに始まる。
 それゆえ、当山は徳上、行基両上人の開基と言われている。また、大非殿前から南海を見渡せるので、山を海前(現代は海雲山)と名付け岩窟が自然の殿堂のようであったので、寺を岩殿寺と号したといわれる。
 正暦元年庚寅春三月十七日六十五代後白河法皇が来山され、ここを坂東三十三カ所第二番の霊場とお定めになった。なお、源頼朝が蛭ケ児島にいた頃、文覚上人の勧めで、当時の本尊を厚く信仰し、夢に現われてお告げを蒙ることがしばしばあったという。戦乱の折、敗色濃くなってからも、大非の冥助幾度も得て、立直れたというが、なかでも石橋山敗軍のときは、観世音が船人ととなって頼朝を房州洲崎に渡してたちまち十一面観世音の妙容をあらわして、三浦の方にとび去ったという。頼朝は御報恩のため御来印を下賜され、治世の間は毎月欠かさず参拝されたという。文治三年正月二十三日には頼朝公の姫が参詣。建久二年子の三月には三浦義澄同六兵衛義村参詣。建久三年巳兎の五月八日後白河法皇四十九日の御仏事のため百僧集まり参詣。この折に南堂を補修する。承元三年五月五日には右大将実朝将軍参詣。寛喜二年十一月十一日、大破せる伽藍再建のため、大僧正院家並び十二院の別当が日夜法要を修行され、そのとき、鎌倉殿の命に依り僧西願に勧進して堂宇を再建、三代盟主三七日昼夜祈念したことが「東鑑」にも記されている。
 しかし、その後もまた、ものかわり星うつりて七堂伽藍も荒廃し、寺院の面目もなかったものを東照神君(徳川家康)の御仁恵により境内ならびに田畑山林と御朱印を賜わり、その徳沢に潤い、且つ申し請けて寺領五石の御朱印を賜わったという。
(以上「東鑑」「三浦郡記」「相模風土記」および土地旧家覚之書による)

しかしびっりくりしたのは990年(正暦元年)に花山(かざん)法皇が参詣したといことです。それも自分が導師になって百僧法要供養。1174年(承安4)には後白河法皇が参詣。このとき坂東33ヶ所第2番札所に定めたとか。
花山法皇(天皇)ってちょっと知ってるんですよ。昔、京都に遊びに行ったときに安倍晴明に紹介されてね(嘘付け!)。ほんと言うと渋沢龍彦(*)が安倍晴明と花山天皇について書いた短編を読んだだけなんですが、まさか関東くんだりまでやってきたとは知らなかった。杉本寺でも登場しますが。安房まで行ったみたいです。生まれたのが968年ですから退位した4年後、22歳の時ですね。

  • 渋沢龍彦って私が知ったのは高校時代でマルキ・ド・サドの代表作品『美徳の不幸』や『悪徳の栄え』の翻訳者としてです。初版は発禁処分となり出版社の社長が起訴されました、と言うか発禁や罰金を不服として争ったんですが。出版社って哲学系のえらいお堅い小さな出版社でその裁判で被告側の弁護人として大江健三郎、遠藤周作など文芸界の錚々たるメンバーが証言台に立って争いそれがまた本になりました。私は大学1年の社会学のレポートでそれを題材に「猥褻感における社会性の考察」なんてのを書いて教授に「優」を貰いました。(笑)

確か今昔物語に花山天皇が夜中に突然退位して牛車でなんとかってお寺に移るとき、安倍晴明の屋敷の前を通って、そのとき真夜中なのに晴明の式神(*)が門を開けて外を窺い「お上の牛車が今門の前を通り過ぎました」と晴明に告げ、晴明がこれは何か有ったに違いないと急ぎ参内したとか。おっと違った、『大鏡』でした。ここに見つけました。(あとで古本屋で『大鏡』を買いましたが、『大鏡』ににある花山天皇の記述はこの一件がほとんどです。)

さて道兼公がこうして天皇を連れ出し東の方へと案内していったが安倍晴明の家の前を通るとき、晴明の声が中からして、大きく手を叩く音が聞こえる。
「帝が退位なさるとの天変があったが、もうすでに現実のものとなってしまったらしい。参内して奏上しよう。車の支度をせよ」
そう言っている声が聞こえる。その声を聞いたとき、天皇はあらためて感無量に思ったことだろう。
「とりあえず、式神が一人、内裏へ参れ」
晴明が命じると、目にみえないものが晴明の家の戸を開けて出てきたが、天皇の後ろ姿を見たのだろうか
「たったいま当の天皇が家の前を通り過ぎていきました」
と答える声がした・・・

そこから藤原氏の陰謀である花山天皇のあまりに急な退位に晴明も一枚噛んでいて、だからその事態を知っていたんじゃないか?  なんて話までささやかれます。安倍晴明は藤原兼家や息子道長にべったりだったと思われるので。もっとも花山法王とも親しいのですが。

式神って紙をチョキチョキ切って呪を掛けると出来上がり・・・・、ってのは火事のときにご本尊が自分で避難したってのと同じ様な話で、本当は人間です。非人・・・、と言っても今思われるものとは違いますが、忍者の下忍が一番解りやすいイメージかも。あとは頼朝が使った雑色。安倍晴明の奥さん(真葛?)が式神が同じ屋根の下に居るのを嫌がったのでしょうがなしに式神を一条戻り橋の下に住まわせたとか。河原者ですね。

花山法皇は確かに仏眼上人や性空上人の勧めで988年(永延2)から西国の霊場を巡礼、なかなか帰ってこなかった(そして西国の三十三ヶ所霊場を再興した)と言う話はありますが、一般に西国では平安時代末頃には観音巡礼が行われていたと言われています。
それに対して関東では源頼朝が東国にも観音霊場をつくるために各地の有力な豪族などに寺院を推挙させたと言います。そして三代将軍 源実朝にいたって、それらの寺院を札所にしたと言うのが坂東坂東三十三霊場霊場の成立と伝えられています。実際に三十三ヶ所霊場の3番目、安養院は北条政子が建てたと言われる鎌倉時代のものです。

しかし後白河法皇まで? 
1174年と言うと16歳の義経が鞍馬を出て奥州に下ったと言われる年ですが。 あっ、その年に厳島神社にも行ってる。いや、それは平清盛が連れて行ったんで解るんだけど、何で鎌倉に?

花山法皇が杉本寺で「ここを板東の最初の霊場にしよう」と言ったのならなんで岩殿寺で百僧法要供養をやったときに、「ほんでここが2番目!」と言わなかったんだろうか? 後白河法皇は「花山法皇が1番目を決めたんなら俺は2番目を決めるぞ、ここじゃ!」とでも言ったんだろうか? う〜ん、謎は深まります。・・・・、て、それ以前にほんとに二人ともここに来たの?
いや、来るわきゃないとは言わないけど、何か傍証が無いことには・・・・。(;^_^A アセアセ…

源頼朝とも縁が深く、毎年必ず参詣したとか。こちらは確実でしょうね。源頼朝はかなり信心深い、と言うかそれをも人身掌握、動員の手段のしようとしましたから「あのときに窮地を脱せられたのも岩殿観音のお導きだったに違いなし」ぐらいは言った(思った)かもしれません。そっから先は杉本寺の3本尊が自分で避難しちゃったのと同じですね。

『吾妻鏡』の方を見ましょう。「観世音が船人ととなって」なんてことは書いてありませんが、1192年(建久3)には三浦介義澄、その子左衛門義村を伴って参詣。おそらく三浦宗家にこの寺の面倒を見させたのでしょう。三浦宗家の縄張りですから。

3月23日 乙未
幕下岩殿観音堂に御参り。三浦の介・同左衛門の尉以下御共に候ず。大多和の三郎椀飯を献ると。

また1232年(貞永1)には

12月18日 癸巳
岩殿観音堂修理を加うの後、今日供養を遂ぐ。導師は三位僧都頼兼なり。滅門たるの由陰陽道難を加うと雖も、観音縁日に就いて、勧進聖人西願これを宥め用ゆと。


ここに泉鏡花夫妻がしばらく居たとか。

岩殿寺は泉鏡花ゆかりの地でもあり、泉鏡花と岩殿寺について洞外正教住職はこうおっしゃっているようです。 

泉鏡花と岩殿寺との関係は、先住老僧との出合いからはじまります。
 明治三十五年の夏、散策がてら来山された折、あまりにも疲れきった顔をされていたのを、老僧が心配し、庫院に迎い入れ、茶話のうちに、四年の年月、老僧との交友がはじまったわけです。 老僧は易学にこっていたので、鏡花も来訪の都度、老僧の易を楽しまれ、ことのほか老僧の漢詩の話に聞き入ったとのことです。
 この四年間の老僧との交友が、後年の鎮花文学のあの神秘な作品の基礎づくりになったことは、作品を読めばうなずけると思います。
 当初、不健康の原因となったのは、後年奥さんになられるすず夫人との師(尾崎紅葉)を裏切っての同棲生活にあったわけです。慢性の胃腸病に加えて強度のノイローゼに苦しんでいた鏡花でしたが、適度の散策と、老僧の情熱的な茶談に、健康を回復されたわけです。こうした報恩の心が、御夫妻をして、観音堂前に「鏡花の池」の寄進をおもいたたせたことでしょう。池づくりには、すず夫人の御努力が大変なもので、老僧の奥さま宛に送られた手紙のうちに、読みとられます。

鏡花は『春昼』の中で「此の山の裾にかけまして、ずっとあの菜種畠の辺、七堂伽藍建て連らなって居りましたそうで」と書いているそうですが、読んだはずなんですが忘れてしまいました。そもそも『春昼』ってどんなんだっけ? あった。でも鏡花をこんなインターネットのページで読んでも雰囲気出ないですね。やっぱり縦組で、漢字にはひらがなでルビがふっていないと。(笑)
あっ、『春昼』『春昼後刻』論なんてのまで。フキフキ "A^^;
読んだはずと言うのは28年前に岩波の「鏡花全集」(全29巻)で全部読んでいるはずなんですけど。
当時入院していてやることなくて一気に読んだんです。あっと、3〜4冊ぐらい欠けていたから8〜9割かな? 絶版になっていたんであっちの業界の友人に岩波の倉庫に残っているのを持ってきてもらいました。今見たら初版1刷が昭和17年、2刷が昭和50年ですね、この装丁は鏑木清方だったと思います。しかし全集で読むとタイトルなんて覚えちゃいないですね。何を読もうじゃなくて次のページってだけだから。

以前にひとりしずかさんと話していたら、三浦半島の秋谷に行ってみたいと言うので、「何で? 何にもないとこだよ、海だけで・・・」と言ったら、鏡花の縁の地で小説にも出てきたからと。そのあと鏡花でえらい盛り上がってしまいました。


こちらは利生堂(八角堂)で本尊は幸福十一面観音


そこから観音堂への石段。雰囲気がありますね。

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途中から見る鐘突堂です。そこへの回廊?がまた良い味を出しています。


こちらが観音堂です。

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沢山ぶら下がっているのは赤ちゃんのよだれかけのような?

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これが721年(養老5)に大和長谷寺の開基徳道上人が熊野権現の化身である老翁に逢い、仏教興隆の鎮守として祀ったと言う熊野権現ですね。
仏教興隆の鎮守にお社と言うのもなんか面白いですが、でも当時はごっちゃです。
鎌倉の鶴ヶ岡八幡だって鶴ヶ岡八幡宮寺だったんですから。

もっともその中でも熊野権現はまた特別だったようで杉本寺にも縁起は解りませんが熊野権現が祀られています。そこのところはこれから勉強します。


さて、この鐘突堂には残念ながら入れませんが、

見て下さい、この梁の先端。獅子でしょうか? これは見とれます。

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さて、山門を内側から。この山門、いつの時代か知りませんが、私はとても好きですね。

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その山門を閉じた姿

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順番が逆ですが、こちらが参道。おや? カッコイイ自転車が!(笑)