奈良平安期の寺社 杉本寺 |
|
奈良平安期の鎌倉の寺社(4) 杉本寺大蔵山 杉本寺( だいぞうざん すぎもとでら )・・・でも(さんぼんじ)とも。 霊験譚には
まあその解説はおいおい。 杉本寺は下から眺めるだけでもここはお客さんを案内するときの私の定番です。 くずてつさんの時は料金所(オイ!)を通過しました。 杉本寺の山門(仁王門)これは去年。 「よっこらしょ」っと。言っているのはうちの隠し子です。ったくもう、何ですかその「よっこらしょ」は、色気のない、お年頃なんだから少しは考えなさい! えっ? この山門は享保十年(1725)の建立だそうです。江戸時代中期ですね。本堂(観音堂)よりは少し新しいですがなかなか雰囲気があります。 ところでこの山門の仁王像は鎌倉時代の仏師運慶の作だそうです、少なくとも伝承では。
実はそうだと言う確証は無いですが、と言うか他の運慶の像を見ていると違うかもしれないと私も思いだしました。よその仁王さんと比べるとなかなか力強いと思うんですがね。で鎌倉市の文化財の目録を調べてみると・・・、それはまた後ほど。
貴女のお父様、以外と若かったよ。でも参ったな〜運慶だって言っちゃった。
"A^^; 俺もちゃんとインターネットで調べたんだけど・・・。インターネットって嘘ばっかだね! その山門の奧には苔むした石段が、でもここは登れません。危ないからか、あるいは苔むした状態を大切にしたいのか。後者であっても私は文句は言いませんね。 杉本寺開山は奈良時代?1560(永禄3)年書写の『杉本寺縁起』には、「天平六年(734年)僧行基が自刻の十一面観音を安置して開創」とあるそうです。「天平の甍」で知られる奈良時代の最盛期ですね。その最盛期の中心人物聖武(しょうむ)天皇の奥さん、光明皇后が兄で藤原北家の祖、房前(ふささき)に命じ、行基に開かせた鎌倉最古の寺と言うことになっています。もっとも逗子久木の岩殿寺(がんでんじ)の方が古いのですが。
なんて話もありますが、それでも岩殿寺より後だよな〜。 1560(永禄3)年(戦国時代信長が今川義元を桶狭間で打った頃ですね)に書写したその元の『杉本寺縁起』がいつのものだかは解りません。開山からその書写まで800年もありますが、まず鎌倉時代以降でしょう。と言うのは行基のあと
と言うことですが、後でまた触れますがその二体は平安末期にはまだ作られてはいないようですから。 光明皇后は、悲田院・施薬院などを作った方でボランティアと言うか社会福祉の第一人者ですね。「非人」の歴史を追っていくとその悲田院・施薬院に行き着くのですが、あの頃(もっと後でも)決して今のような差別の対象にはなっていませんでした。
杉本寺の観音堂さて、これが観音堂ですが、この観音堂は1687年に再建されたものですがそれにしても十分古いですね。五間四面の中世密教本堂形式というそうです。中は撮影禁止です。 杉本寺のご本尊・三体の十一面観音像ご本尊は3体。実は奧の奧、内陣の奥の防火設備の中にあって遠くからしか拝観できませんが、まあしょうがないでしょう。次の火事でもまたご自分で避難される保証は有りませんからね。おまけに撮影禁止なので変わりにこれを買いました。
ところで3本尊の最後、花山法皇の命により恵心僧都が十一面観音像を安置したしたときに板東第一番の札所と定められたと言う説もありますが・・、伝承です。花山法皇は岩殿寺にも登場しますが、西国の霊場めぐりに出かけてなかなか帰ってこなかった方でそこから三十三番札所の由来には担ぎ出されるんだと思います。まあこちらの伝承では本人が来たとまでは言っていないですが。 残る行基作と言う覆面観音は、ホントに行基の作なんでしょうか? 私は医王山長善寺(現辻薬師堂)で行基作の薬師如来像を平安仏と言われて以来人間不信に陥ってしまったのです。 しかしこればっかりは国立博物館と言えども厳密に調査をするわけには行きません。 行基自ら刻んだとされる十一面観音像が少なくとも鎌倉時代よりは前であることは確かなようですね。それが平安時代なのか奈良時代にまで遡るのかは解りませんが、鎌倉国宝館の同名のパンフレットのp52にこう書かれています。
あっちゃー!ここには平安時代末期と。一次情報がどこなのかは解りませんが、鎌倉市の文化財に指定されているようですからそちらにあるのかもしれません。こちらのサイトの参考文献は『鎌倉市史』社寺編と鶴岡静夫『関東古代寺院の研究』(弘文堂) だそうです。こうして明記して頂けるととても助かりますね。また鎌倉図書館に行かなくちゃ。
ちなみに証菩提寺は鎌倉初期のお寺で阿弥陀三尊はよそからもってきたものです。白山神社毘沙門天像と言うのは全然しりませんでした。白山神社ってどこだ? あっ、あそこか、鎌倉時代の山内荘です。この毘沙門天は、頼朝が鞍馬寺から請来したと伝えられています。しかし神社に毘沙門天? 白山権現はここ杉本寺にも出てきます。仏教と関わりが深そうですがまだ調べていません。 ともかく鎌倉市の文化財ってことで調べてみましょう。 851年に慈覚の十一面観音像鎌倉時代はキープしました。 985年(寛和2)恵心の十一面観音像鎌倉時代 734年(天平6)行基の十一面観音像問題はこれです! ありゃ、やっぱり平安時代。 「三体の中で最も素朴な像である。面相は浅い目鼻立ちのせいもあって、あまりはっきりしない。」 えっ! 覆面を取っちゃったんでしょうか? しかし困ったな〜、頼朝以前は証明されたんですが、鎌倉の「天平の甍」が風前の灯火です。実はこの先1年ぐらいのこのサイトのあらすじは大体出来ていたんですが、証拠のひとつが。(^_^;) えっ、先生の教えはそうじゃないだろうって? そこが「ちょっとだけ」たる由縁で御座いますよ。 杉本寺に運慶は?運慶の作と言われるものは先ほどの山門の仁王像の他にこちら観音堂の中にもあります。
運慶の作と言う伝承の仏像は沢山有りますが、それは運慶の名が今ではこの時代で一番知られているからですね。でも教科書にだって運慶・快慶とセットで出てたのに伝承は運慶ばっかりですね。変なの! それで逆に運慶の側から調べてみると、こうです。相模国で確実とされているのは逗子からバスで大楠山の方に行く途中の浄楽寺の三体だけですね。当時は今ほどスーパーヒーローじゃありませんし、仏師は当時同じぐらい名のしれた仏師は沢山居たでしょう。どっちかと言うと非主流派です。それに慶派は運慶だけじゃありませんし。・・・それ以前に、そもそも鎌倉時代なんだろうか? で鎌倉市の文化財の目録を調べてみると、ありゃ。(^_^;)
要するに全滅。まあ一体は「鎌倉時代かも」ってのが有りますから1%ぐらいは可能性を残しているんですが。(;^_^A アセアセ… 杉本寺の運慶は持っていかれた?ところでこんなものを見つけました。
いや、比企の乱と言うか、北条時政が急襲したときは双方そんなに大軍ではなく比企一族は何の用意もなく武者も確か十数名であっと言う間にやられています。そんな杉本寺に火の粉が飛ぶような距離でもないし。政子は父時政に自分の孫が殺されようとしているんだからそれどころでは無いでしょう。その後頼家が時政に殺されたときもえらい嘆き悲しんだそうですし。
えらい詳細なんですが、志々塚般若寺(どこだか知らないけど下総国?あっ下総国相馬郡 うちの田舎じゃない)と運慶の縁についての伝承でしょうか? いつの頃から言い伝えられた伝承かは解りませんが、運慶との縁に杉本寺を持ち出したところは注目されます。そのとき持って行っちゃったから鎌倉には運慶が無くなっちゃったのかも。返せー! 杉本寺にあった絵文字の般若心経面白かったのがこれ! 字の読めない農民に般若心経を憶えさせる為にお経が絵になっています。 杉本寺の五輪塔群と石仏地蔵菩薩本堂右側、このページ最初の画像で手前に無縁の五輪塔群がありますが、その五輪塔群の隣、下の画像ではお地蔵さんの右端に風化の甚しい凝灰岩製の石仏地蔵菩薩像がありますが、これは平安末期・三浦義明の長男でこの地に館を構えた杉本太郎義宗の守本尊と伝えられます。伝承ですが。と言うか古いものがあったのでこんなに古いのは杉本太郎義宗のころか?って話だと思いますが。 これと同じようなものを私はここから岩殿寺への巡礼古道で見ました。これです。あれも本当に鎌倉時代なのかな〜? ちなみにあちらは去年書いたページなんであとでちょいと修正しないと。(;^_^A アセアセ…
杉本寺にある熊野権現・白山権現観音堂の右奧には熊野権現と白山権現を祭ったお社があります。上の画像右の厨子は何だか知らないんですが。そしてそのお社の後ろ、の矢倉には・・・ ところで、岩殿寺にせよこの杉本寺にせよ、何で観音堂のすぐ傍にに熊野権現が祭られているのかと言うことはまた日を改めて。 杉本寺の奧、杉本城跡お寺の左手と言うか後ろの山が杉本城ですがこれは鎌倉時代より後の南北朝時代のものです。杉本太郎義宗とは杉本に館を構える三浦の太郎(長男)義宗と言う意味ですがその館が杉本城と言う訳ではありません。例え山城にせよ我々が考える「城」のイメージはあの当時(平安末期)には無いと思います。秋田城(あきたのじょう)とか言葉は有りましたが意味が違います。 この城は鎌倉幕府滅亡(1333)後の南北朝初期1337)に、足利一族の斯波家長が築いたものと思われますが(様々な説あり)斯波家長は奥州から南朝救援の為に鎌倉に攻め入った北畠顕家の大軍に攻め落とされています。その時の遺構だと思います。当時のことですから小さい山城で石垣などはありません。平場程度の小さな曲輪跡(くるわ)が本丸、二の丸、三の丸と言うように残っています。
と書いてあるサイトもあります。これはそうかもしれませんね。 杉本寺の霊験譚と吾妻鏡さて冒頭の霊験譚の
ですが、『吾妻鏡』文治五(1189)年にこういう記述があります。ここには三体とはとは書いてありませんね。
ところがそれが民間伝承では三体になったばかりか、三体の観音様は自分で歩いたのか、空を飛んだのかこういうことになってしまいます。フキフキ "A^^;
こちらのサイトには
と有りますが、それは1771年明和八年沙門亮盛師の『坂東三十三所観音霊場記』かなんかじゃないですか? 『吾妻鏡』には上に有る通りそんなことは書いてありません。 『吾妻鏡』の建久二年(1191)の条に「累年風霜侵し、甍破れ軒傾けり、殊に御燐愍有って修理を為す」とあるそうで、頼朝は寺のの再興につくし修理料として准布二百端の奉加を行い、前立本尊も納めているそうです。そこに「運慶の」とでも書いてあれば有力な根拠になるのですが、そこに書いてなければ後世の創作と言う線が強くなります。せめて何月ぐらいまでは書いてくれないかな〜、私は見つけられませんでした。 杉本寺・下馬観音の言い伝えさて冒頭の霊験譚のもうひとつのお話ですが。行基作と伝える最も古い木造十一面観音立像は別名覆面観音、あるいは下馬観音とよばれています。 おわりところでどうやらこの一行、杉本城跡の方にでも行ってたんでしょうか? 閉められてしまったみたい。 しかしこのノリのいいボケツコミ、漫才トリオはいったいどちら様なんでしょう? 手に持っているお土産が豊島屋の鳩サブレ? おお、境内レストランの石釜で焼いたパンてとこが通ですな〜。(笑) 他の季節は寺社index・杉本寺をご覧ください。 |
|