鎌倉七口切通し 名越切通し (なごえ) |
コースの様子はこちら 処女地・名越の切通し 古くは、「難越し」と呼ばれるような難路であったため「なんごえ」が「なごえ(名越)」と呼ばれるようになったいわれがあるようです。 この名越のあたりに北条時政が屋敷を構えて監視していたと言う説も有りますが考え過ぎでしょう、北条時政が息子の義時に追放され伊豆に隠居したのが1205年、その頃の幕府で北条と並んで力が有ったのは三浦宗家よりも和田義盛です。その前は比企一族でしょう。またそうした鎌倉での権力闘争は鎌倉内での内ゲバであって、鎌倉対鎌倉外ではありません。 また北条が本当に権力を独占したのは評定衆が有名無実化した5代執権時頼以降の得宗家専制時代です。その前は「発言力が」強かったと言っても良いのでは? 特に時政の時代には発言力は強くても単独の軍事力(私兵)と言う点では上総介、三浦介、千葉介らに圧倒的に劣っていたはずです。上総介、三浦介、千葉介らは何代も前からの家子郎党が居ますが北条は時政以降です。元々伊豆の小豪族ですし。また幕府の国防長官(侍所別当)は死ぬまで和田義盛です。 その和田義盛が北条義時の挑発に乗って起こした和田合戦で義盛側は150人だったかな? 北条側はせいぜい300人てとこでしょう。和田合戦以降北条は相模の国の反北条勢力を一掃してそれら御家人の支配地を奪いますが(北鎌倉もそのときに)それまでは北条の家子郎党(私兵)は少なく、動員したのは相模の国の国衙の兵(相模守でしたから)、北条側についた御家人を合わせてです。このとき三浦宗家は和田義盛を裏切って北条側に内通しています。まあ分家のくせに本家よりでかい顔をしている和田義盛に苛立っていたんでしょうが。 宝治元年(1247年)の宝治合戦(三浦の乱)で北条氏は三浦宗家を滅ぼしましたが、そのとき三浦宗家はこの切通しの内側どころか鶴ヶ岡八幡の隣、将軍の幕府(大倉)との間に住んでいました。おまけに事態を察知した三浦泰村は一族500騎(人?)を鎌倉内の館に集めていますから対三浦軍事要塞のはずのここは何の役にも立ってはいません。実際に兵を動かした安達氏は甘縄の館に兵を集めそこから三浦邸に向かっています。 もうひとつ。三浦氏は確かに三浦半島が本拠地ですが、同時に平安末期から相模の国衙の在庁官人(世襲の介=県の助役)であり、旧国府の現在の平塚や伊勢原市あたりにまで領地を持ち、あるいは一族を配しています。 それらを合わせ考えると、この城壁のようにも見える遺構が対三浦氏用の防衛線と言うのは「城」と思いたいが為の口実のように思えてなりません。 とはいえ大切岸はまさに城壁。でも自然にこうだったのか人工的に作られたものなのかは実は全く解ってはいません。・・・と書いたら元郷土史家の卵(高校の時郷土史研究会だったらしい)ジェイ君が
だって。
なんて思ったのですが、ここの鎌倉側、衣張山とか浄明寺の方ではさんざん鎌倉石が切り出されて江戸方面の需要まで賄ったらしいですからもしかするとそうなのかもしれません。私が知っている石切場は北鎌倉のこれですね。それに切り出した石はどうやら船で運んでいるようです。また、耕地を広げる為にも斜面を切り崩し、また逗子の中心部(逗子駅南側・東側)は鎌倉時代までは沼浜と言われるよう海、または沼地でありそうしたところを埋め立てるのにもその土石が利用されたとも言われます。 鎌倉側から行くとちょうど洋館を過ぎたところで道が分かれており、直進(右側)すると法性寺の墓地へと降りる。このたあたり一帯は、お猿畠(おさるばたけ)
と呼ばれていてその墓地の外れからは大切岸の全貌を眺めることができ圧巻ですね。 7口の中でもっとも「城」に近いイメージをひしひしと感じるのがこの法性寺の墓地、あるいはもっと遠くの逗子側車道から眺めた光景です。あくまでも雰囲気としてですが。この大切岸を下から眺めていると鎌倉・逗子の歴史的文化遺産を世界遺産へ!! と言うのも印象だけからするともっともだと言う気にはなりますね。 このあたりは鎌倉城の防御施設!「名越切通し・大切岸」(併せて「まんだら堂跡」について) 「鎌倉恋便り」・三浦一族に備えた軍事拠点 「名越切通し」 や「心霊体験記ではない逗子お化けトンネル上部地域ハイキング」に詳しいです。しかし中には・・・・
心霊スポット? ここがそうかはともかく、この下の名越トンネルは「お化けトンネル」と言う名の方が知られている。実際自転車乗りでもそのトンネルを通るのを嫌がる人がけっこう多いです。 ところで
前述の通り却下! 吾妻鏡に出てきたのは1233年8月18日条に
とあるのが最初なんだそうです。工事したとはありません。 |