鎌倉七口切通し 亀ヶ谷坂切通し |
別名、亀返坂(急坂のため亀も引き返した、ひっくり返った)とも。江戸時代の俗説だとは思いますが、なんかユーモラスで良いですね。江戸時代初期の「玉舟和尚鎌倉記」では「亀ヶ井坂」です。
鎌倉市史(考古学編)には
最近気がついたのですが、考古学編は赤星先生ご自身が書かれていたのですね。鎌倉城史観の家元です。ただし考古学ではかなりの業績をあげた方らしいです。私は鎌倉に関してしか知りませんが。 しかし、赤星先生は如何なる根拠で鎌倉時代「現在のものは後世深く且つ広く改修したもので、当時は現在の切通の上の方を狭い切通路が通っていたもの。」とおっしゃったのでしょうか。それどころか、なぜここ亀ヶ谷坂口が鎌倉時代からあったと思われたのでしょうか。それについてこそ説明して頂きたかったですね。この位置に亀ケ谷坂が無かったのなら、侵入する敵もここへは来ないし、逆茂木を並べる必要もありません。 単に鎌倉時代にもあったのだろうと決めつけて、きっと当時はこんな風にと想像を巡らしておられるだけにも思えてしまいます。 亀ヶ谷坂切通しと中つ道鎌倉古道によると、この坂を越えるのが「中つ道」とか。北鎌倉・大船・日限地蔵・柏尾・東戸塚を経て大池公園へ。 もっともこの鎌倉古道(鎌倉道、鎌倉街道、鎌倉往還とも)の上つ道、中つ道、下つ道は研究者によって違う様です。 例えばゲンボー先生の「海の道・陸の道」にあるこの図では3つとも、あるいは少なくとも中道と下道は鎌倉の出口が同じで、東海道が初めは稲村道、後に極楽寺坂、上道が化粧坂、中道と下道が山内口(巨福呂坂 と亀ヶ谷坂)の様に見えます。地形的にはなんか納得できますね。 鎌倉街道で見た3道と鎌倉内から見た3道の違いでもありますね。(上道について) だだし、最近は上つ道、中つ道、下つ道は確たるものではない、鎌倉時代にはそうは認識されていなかった、また上つ道、中つ道、下つ道を鎌倉の口に対応させて考えることは的外れのような気もしてきました。 源頼朝の父義朝の亀ヶ谷の旧邸「亀ヶ谷」は現在の「扇ヶ谷」の古称です。吾妻鏡によると源頼朝の父義朝の「亀ヶ谷」の旧邸は現 寿福寺とか。 そこを起点に化粧坂、この亀ヶ谷坂、そして朝比奈坂のある六浦道が始まっています。平安時代の武士は地方においては在地領主ですが、中央から見たらシークレットサービスであり傭兵でもあり、また同時に流通・運輸の担い手です。特に中央に足場を持ち、地方に下った軍事貴族はおおむね交通の要所に館を持ちます。 六浦道は頼朝が鶴ヶ岡八幡を現在の場所に移したときにカックンと折れ曲り、かつ中心はここではなくて鶴岡八幡、あるいは大蔵御所(幕府)になりましたが。この頼朝の娘で木曽義仲の子義高の許嫁大姫を祭ったお堂に寿福寺から向かって右が亀ヶ谷坂。左に行くと化粧坂です。 ネット上での亀ヶ谷坂と巨福呂坂は?亀ヶ谷坂の歴史についてネット上ではどう言われているのかちょっとGoogleで検索してみました。「仁治元年(1240年)に3代執権北条泰時が整備」と、だいたいこうですね。実はこのページもそう書いていましたし。でも こんな記述がヒットしました。
これは何を根拠にしているのでしょうか? 歴史上の文献、学者の著書では読んだことが無いのですが。いったい何処のサイトだと思ったら鎌倉市でした。「鎌倉市史」にもそんなことは書いていなかったと思いますが。 吾妻鏡に見る山内の道路工事は何処を?今度は吾妻鏡の工事の記録を1240年を見てみましょう。
前武州御亭は北を横大路、東を若宮大路、西を小町大路に囲まれた一角、大仏次郎茶亭のあたりです。前武州とは北条泰時のこと。「小袋坂」も「巨福呂坂」とも出てこずに「山内の道路」と書かれています。「吾妻鏡」の1241年には泰時の「山内巨福礼の別居」が出てきます。
前武州(北条泰時)が右幕下(右近衛大将頼朝:幕府は近衛大将の館)の現在の頼朝供養塔あたりにあった法華堂と、右京兆(泰時の父:右京大夫北条義時)の大倉薬師堂(現覚園寺)等に参拝したあと、山内巨福礼の別居(私は常楽寺近辺かと)に行き、日が暮れる前に小町亭に戻ってきたと。その道は前年に作った道路でしょう。
ここでも判ることは鎌倉中小町亭から北条得宗家の所領山内に行く「山内の道路」を、と言うだけで、これが現巨福呂坂トンネルの上の道かどうかは不明です。
「鎌倉市史(総説編)」困ったことに「鎌倉市史(総説編)」の高柳先生は「七口」の中で「亀ヶ谷坂」については何も言っていません。「山内の道路」=「巨福呂坂口」とされています。と言うことは私が知らないだけじゃなくて亀ヶ谷坂については本当に資料が無いのでしょう。また「山内の道路」=「巨福呂坂口」とされるのは建長寺の件があるからでしょう。建長寺と「巨福呂坂口」はワンセットであったに違いないという想像の世界にすぎないのではないかと。どうもそれが実体のような気がしてきました。 ただ、「鎌倉市史(総説編)」で高柳先生は「亀ヶ谷坂」について全く触れていない訳ではなく「武蔵大路」の項で「ついでに」述べておられます。
しばらくこれで悩んでいました。 「浄智寺横の道って何だ?」と。 本当に浄智寺横の道を行ったら源氏山ハイキングコースで葛原岡から化粧坂上に出るではないか。それとも今の亀ヶ谷坂までも道を「横」と言っているの? いやそれは「横」ではなくて「正面」でしょう。そこで地形図で調べてみると、おっ、ここは! ハイキングコースをちょっと外れるとほんの50mぐらい先に尾根の向こうの道があります。 そこで亀ヶ谷側から行ってみました。残念ながら道の突き当たりは民家(と言うか邸宅)になっていましたが、見上げると尾根の方にもうひとつ小さな門があります。亀ヶ谷側は自然な地形でこれならばたいした工事もせずに道になりそうです。高柳先生はこのルートのことを言っていらっしゃるのでしょう。 明治40年「鎌倉沿革図」そのあと注文しておいた明治40年の2版「歴史地理大観・かまくら」大森金五郎著が送られてきたのですが、その付録に明治時代の「鎌倉沿革図」が付いているではないですか。この地図だけでも元は取れたと喜びいさんで舐めるように眺めていたのですが・・・、ありました道が。横須賀線の左側です。 実際にその場所には切通しが実際にその場所に行ってみました。ここには小さな切通しがあります。鎌倉図書館で発掘調査報告書を調べたのですがここを調査したことがあるようです。 ちょうど下の写真で私が立っているあたりでしょうか。その発掘調査ではとても鎌倉時代までは遡れないようで、これが鎌倉時代初期の旧亀ヶ谷坂と言い切る証拠はありません。 その切通しのほんのちょっと先にはまた下に降りる道があります。 私が亀ヶ谷側から民家の上に見たのがこの門です。ちなみにさっきの切通しの先も斜面が深く切り落とされて先には勧めません。おそらく明治時代まではあの切通しが北鎌倉と亀ヶ谷を結ぶ道で、その後、この土地が人手に渡って、家を建てるために斜面を切り落としたのではないでしょうか。鎌倉ではそれこそ鎌倉時代からそうしています。 しかし赤星先生は「鎌倉市史(考古学編)」で、化粧坂北の葛原岡大堀割について「即ち北方からの侵入者にたいし防衛する施設である」とおっしゃっているのですが、その侵入者は来たとしたら葛原岡大堀割など行かずにここから鎌倉中に雪崩込んでしまうのではないでしょうか。いずれにせよ現在の亀ヶ谷切通しの地形と比べれば、はるかに道にしやすい場所とは言えます。 とはいえそれはあくまで地形からの推測、後世の痕跡からの推測に過ぎません。確実なのは北条泰時の別業が常楽寺近辺にあったと想像されること、その常楽寺近辺から鎌倉中に至る山内道を1240年頃に整備したことだけでそれが山を越えたのが何処であったのかについては残念ながら何も解りません。それで高柳先生は亀ヶ谷についてほとんど論じられなかったのでしょう。尊敬します。
亀ヶ谷坂が古くからと推定できる記録?亀ヶ谷坂が古くからあったと推定できる記録はと言うと唯一これでしょうか。吾妻鏡の1202年の12月にこういう記事があります。
落馬すると言うのだから険しいところで、となると亀ヶ谷坂切通しの道はこのときからあったのか? と言うことになりますが、しかし切通しの難所で「旧井に落ち入る」は無いでしょう。それとも旧井の意味が違う? また化粧坂を通って帰ってきても亀ヶ谷は通ります。なんとも言えません。言えるのは山内荘からの帰り道は巨福呂坂口ではなかったと言うことです。 だいぶ経って気がついたのですが、知康がこんなところに出てくるとは。後白河法皇の下北面の一人で左衛門尉、『平家物語』には鼓判官として登場します。2007.11.16 あとはこれですね。
気和飛坂(化粧坂)山上と別に亀谷辻が出ていて、それが文永2年(1265)3月5日には記述譲は「気和飛坂山上」も「亀谷辻」も無くなり「武蔵大路下」となります。その「武蔵大路下」がおそらく亀谷辻であろうと言うことです。亀谷辻に気和飛坂(化粧坂)山上とは別に小町屋が出来ているということは気和飛坂(化粧坂)山上とは別のルートで商品が鎌倉中に入ってきていると考えるのが自然でしょう。そうすると該当するのは亀ヶ谷坂切通しとなります。それが現在我々が目にする位置の坂かどうかはともかく。 文永2年(1265)には武蔵大路から入ってきた商品も亀ヶ谷坂切通しから入ってきた商品もすべて亀谷辻=武蔵大路下で商われるようになった、つまり亀ヶ谷坂切通しからの商品がかなり多くなった、人の出入りが多くなってきたと。状況証拠にしか過ぎませんが。 またこれは調査報告書でしか見たことはありませんが、それより後の鎌倉後期には、この切通しの亀ヶ谷側の途中に坂中山正円寺(勝縁寺)と言うお寺があり、坂中観音堂と呼ばれたお寺の存在が、永仁4年(1296年)に4月16日の大火についての「随聞私記」の記載で確認されるようです。 宗派も開山の時期も解りませんが。その位置はちょうど下の写真の正面、左側に岩をくりぬいたマンションの門があるのですが、その中あたりと思われます。となると、鎌倉時代後半には確かにこの道筋はあったと言うことになりますね。「坂中」で符合しますから。もっとも「随聞私記」を直に見た訳でもないので断定は出来ないのですが。
しかしこうして見るとインターネット上に書かれている情報ってその多くは実にいい加減ですね。 老婆心ながら、私のサイトに書いてあることもうかつに信用しない方がよいです。ヒントにして御自分で検証してみてください。そして違っていたらメールで教えてください。トップページにメールアドレスがありますので。自分で見つけた間違いだってこれまで沢山ありましたから見つけていない間違いも沢山残っていると思います。 2007.02.17追記 |