鎌倉七口切通し     巨福呂坂切通し

現在残る巨福呂坂切通しは

現在残る巨福呂坂口の切通し部分は無くなり、残っているのは巨福呂坂ではなくて坂口の東側、聖天坂だけです。まあ固いことを言えばですが。現在は巨福呂坂トンネルが通っていますが旧道の入口は鶴岡八幡宮の西の階段の下、今は車のお払いをするところから左に入る小路があります。

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角を曲がってすぐ先に「ことのは」と言う甘味屋さんがあって、こちらはなかなか・・・、と言う話題は今回のテーマではないので省略。

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それをまっすぐ行くと今は道としては使われていない横須賀水道トンネル、正式には「巨福呂坂送水管路ずい道」の出口があり、その右の急坂を登ると左側に「青梅聖天社」があります。

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それでここを聖天坂と言います。この写真は2月10日で梅が奇麗でした。

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しかし聖天様はインドはバラモン教の神様で、仏教に取りこまれて歓喜天となったのですが、なんか鳥居って変ですよねぇ。私も手を合わせるべきか、柏手を打つべきか、ちょっと悩みました。(笑)


その少し先にはここがかつては鎌倉から遠方への道であったことを物語る庚申塔や道祖神があります。現在ではこれが唯一の古道の証明でしょうか。

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その先は民家となり更にその先の峠部は、江戸時代には円応寺の山門の前を通って建長寺門前に至るはずですから、現在のトンネル(上は開いている)に切り取られてしまったんでしょう。ちなみに右の民家の左側はもう崖っぷちです。従ってこのまま先に進んでもやはり崖っぷちとなります。

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巨福呂坂の歴史をインターネットで検索すると

「仁治元 泰時 巨福呂坂」 で検索すると29件ヒット。もうひとつ「仁治元 泰時 亀ヶ谷坂」でGoogle検索すると12件がヒットしました。ん? 同じ年に両方とも作ったと? 
いろいろ検索してみたら、中にはこういうものが。

  • 執権北条泰時が建長2年(1250)頃に整備
  • 北条泰時が1250(建長2)年頃に整備 
  • 執権北条泰時が1250年頃に整備
  • 北条泰時が建長2年(1250 )に整備

これはいったい何でしょう? 前武州こと北条泰時は仁治三年(1242年)6月に60歳で他界しています。これが吾妻鏡の泰時1周忌の記述です。左親衛とは左近衛将監・北条時頼をのことでしょう。

『吾妻鏡』 仁治三年(1243年)6月15日 庚申 天霽
故前の武州禅室周関の御仏事、山内粟船御堂に於いてこれを修せらる。北條左親衛並びに武衛参り給う。遠江入道・前の右馬権の頭・武蔵の守以下人々群集す。曼陀羅供の儀なり。大阿闍梨信濃法印道禅、讃衆十二口と。この供、幽儀御在生の時殊に信心を抽んずと。

 

吾妻鏡では

前回の「亀ヶ谷坂切通し」でも書きましたが吾妻鏡にはそれと思われるものはここからです。

吾妻鏡 1240年(延應2年:改元:仁治1年)10月10日 
前の武州の御亭に於いて、山内の道路 を造らるべきの由その沙汰有り。安東籐内左衛門の尉これを奉行す。
同年10月19日 
大倉北斗堂地曳き初めの事、佐渡の前司・兵庫の頭等これを奉行すべしと。また前の武州の御沙汰として山内の道路 を造らる。これ嶮難の間、往還の煩い有るに依ってなり。

これはここ巨福呂坂切通しのことなんでしょうか。高柳先生は「鎌倉市史・総説編」p278でここであるとおっしゃっていますが。ここだとすると「これ嶮難の間、往還の煩い有るに依ってなり」から1240年以前からここに道があったのか、あるいは亀ヶ谷坂が1240年以前からあったがそれが「嶮難」だったからこっちに道を作ったともとれます。あくまでここだったらですが。

「鎌倉市史・考古編」の赤星先生も城郭各論p179で「仁治元年の切通し工事ははこの尾根に加えられた改修工事で、もとは切通しもなく尾根を越えていたものだったに違いない。」とおっしゃっていますが、その根拠は示されてはいません。そして「その嶮阻な路を切通して少し楽になった程度で、その嶮阻なことが鎌倉城防衛上の役にたっていたのであろう。」と。それ以上のことはおっしゃってはいません。

5代執権北条時頼が1250年(建長2年)に山内の道路を整備したと言う吾妻鏡の記事が以下です。

吾妻鏡 1250年(建長2年)6月3日 丁酉
山内並びに六浦等の道路 の事、先年輙く鎌倉に融通せしめんが為、険阻を直さるると雖も、当時また土石その閭巷(リョコウ)を埋むと。仍って故の如く沙汰を致すべきの由、今日仰せ下さると。

「山内並びに六浦等の道路」とあるその山内の道路が巨福呂坂と一般に思われています。ここで「先年輙く鎌倉に融通せしめんが為、険阻を直さるると雖も」とあるのが1240年に北条泰時が命じた工事と誰もが考えます。閭巷(リョコウ)って良く判らないのですが村里と言う意味? 要するに地震か台風かで山崩れが起こって道が通れなくなってしまったので修復工事をしたと。

両方合わせると、1240年以前から道はあったけどとても通りにくかったので1240年にちゃんとした道路を作ったが、それが山崩れでまともに通れなくなってしまったので1250年に修復工事をしたということになります。

それが此処巨福呂坂切通だとすると亀ヶ谷は? と言うあたりは「亀ヶ谷坂切通し」に。

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明治40年「歴史地理大観・かまくら」付録「鎌倉沿革図」

「巨福呂」と言う地名

「巨福呂」と言う地名ですが、鎌倉時代でも巨福呂谷、巨福礼谷、小袋谷のどれも同じに使います。昔の人の名も地名も声で聞いてあとで日記に記すのですからほとんど音からの当て字である場合が多いですね。今のように小袋谷一丁目何番何号などと言う町丁目の住所表示を行政が決めている訳ではないですから。江戸時代1674年の「徳川光圀歴覧記(鎌倉日記)」には「呂ハ路ニ作ルベキカ」と書いてあるようですが、違うでしょう。「小袋」が語源で、それを御目出度く字を当てたのが「巨福呂」ではないでしょうか。

「巨福呂」は確かに建長寺の山号は巨福山だし巨福呂坂トンネルと言う名前もあるし、建長寺近辺とイメージしやすいですが、しかし語源的には「フクロ(袋)、フクレ(膨れ)」は水に囲まれた袋状の地域、または低湿地なんだそうです。建長寺のあたりではとても低湿地とは言えません。

現在の小袋谷はずっと下流の、東海道線を越えて柏尾川と合流するあたりまでを言いますが、この時代には現在の山ノ内、そして大船の常楽寺、その背後の粟船山の南面までも含んでいます。

  • 当時の山ノ内は現在の鎌倉氏山ノ内、山崎、大船から横浜市栄区や戸塚区まで含んだ山内荘を指します。
  • 新編鎌倉志」は戦国時代小田原北条氏の頃かに巨福礼郷は「円覚寺西方を境に上(東)を山内、下(西)を市場村巨福呂谷に分かれた」と伝えています。これは書かれた時代と近いので、かなり程度信用できそうな。

そして鎌倉時代の文献には小袋谷(巨福呂坂谷)と小袋坂(巨福呂坂)と2つ出てきますが、これは巨福礼郷とその上の山合いの谷戸が巨福呂坂と考えると、現在の常楽寺あたりまで含んだ農耕地帯が巨福呂谷=小袋谷と、その巨福呂の中の巨福山建長寺、巨福呂坂切通しの関係が納得できます。

さてその小袋谷(巨福呂谷)の中の小袋坂(巨福呂坂)と言われるのはどのあたりからなのか。と言うのはこの時期の鎌倉の境界を語る上で重要な2つの文献に小袋坂が出てくるからです。

四角四境祭と巨福呂坂

亀ヶ谷と巨福呂坂、この2つの口について、インターネット上でとても正確なのは こちらのサイトです。とても詳しく調べておられて私も参考にさせていただいています。

巨福呂坂の名が始めて吾妻鏡に見られたのは、嘉禎元年(1235)十二月二十日の条で、次のように述べられている。
四代将軍藤原頼経が疱瘡の病にかかったので、病気治癒のご祈とうを御所の南庭にて行う。夕方に及んでより四角四境祭(陰陽道の災いを除く儀式。鎌倉幕府では、幕府の四隅でまつるのを四角祭。鎌倉の境界外部で行うのを四境祭という。:鎌倉事典)を行うとあり、この条の文中に四境として当時の鎌倉の境界に当たる巨福呂坂 ・小坪・六浦・片瀬の地名が書かれている。

その後の仁治元年(1240)十月十日に北条泰時の屋敷において、山ノ内に道路建設に関し沙汰があり、安東藤内左衛門尉(光成)が担当する事が決められた。

同じ月の十九日に北条泰時の沙汰として、山ノ内の道路建設が決定される。これは山ノ内が険難であるので往来に難儀する事からである。このように巨福呂坂建設の由来が具体的に吾妻鏡に記録されている。
それから十年後の建長二年(1250)六月三日に、巨福呂 坂及び朝夷奈の切通が落石などにより大分痛んだので改修工事をするように指示があった、と述べられている。

四角四境祭の説明はその通りで、この当時「鎌倉中」の範囲はどうだったのか、などと言うときに良く出てきます。また上記サイトで紹介された1235年の11年前にも行われています。

吾妻鏡 1224年 (貞応3年、11月20日 改元 元仁元年)12月26日
この間疫癘流布す。武州殊に驚かしめ給うの処、四角四境の鬼気祭を行わる。対治すべきの由、陰陽権の助国道これを申し行う。所謂四境は、東六浦・南小壺・西稲村・北山内と。

そして1235年の記載は

吾妻鏡 1235年 (9月19日 改元 嘉禎元年) 12月20日
御不例の御祈りの為、御所の南庭に於いて七座の泰山府君祭を行わる。忠尚・親職・晴賢・資俊・廣資・国継・泰秀等これを奉仕す。黄昏に及び四角四境祭を行わる。御所の艮角(陰陽大允晴茂)、巽角(図書の助晴秀)、坤角(右京権の亮経昌)、乾角(雅楽の助清貞)、小袋坂 (雅楽大夫泰房)、小壺(近江大夫親貞)、六浦(陰陽少允以平)、固瀬河(縫殿の助文方)。

先のサイトでは「小袋坂」に「巨福呂坂」の字を当てていますがこれは「巨福呂坂切通し」のページだったので判りやすく統一したのでしょう。どちらの字も使います。またこの記述の中では「山内」=「小袋坂」と考えてよいでしょう。ここではエリアではなく「四境祭」が行われた場所、「点」ですので。

泰山府君祭の泰山府君(たいざんぶく)は中国は道教の冥府の神で生死をつかさどります。陰陽道に伝わり安部清明が有名です。
四角四境祭(しかくしかいさい)は京都にあっては宮城の四隅に巣くう厄病を祓う祭祀と、都の四境の厄病を祓う祭祀が合併されたもので天皇個人を鬼神の災厄から守るという陰陽道の祭祀でしたがここでは四代将軍藤原頼経ですね。

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山ノ内の鎮守八雲神社。右の道路のように見えるのは北鎌倉駅上りホームです。

現在山ノ内の鎮守である八雲神社はその四角四境の鬼気祭を行った地に村人が祗園八坂の神霊を勧請し、村の安寧を祈ったのが始まりとか。でも出典が「相模風土記」なのでどこまで信じてよいのやら、ちょっと不安が残るところではありますが。

亀ヶ谷切通しの処でも書いた通り、現在山ノ内の鎮守である八雲神社はその四角四境の鬼気祭を行った地に村人が祗園八坂の神霊を勧請し、村の安寧を祈ったのが始まりと伝えられています。伝承ですから100%信じる訳にもいかないのですが、とりあえず仮置きしておいても良いでしょう。

「一遍上人聖絵」での巨福呂坂

もうひとつ、この巨福呂坂(小袋坂)は「一遍上人聖絵」に出てきます。

一遍上人と言えば念仏仏教の時宗を開いた人ですが、1282年に一遍上人一行は鎌倉に入ることで今後の布教の成否を試そうとしたんだそうです。当日に「今日は太守(北条時宗のこと)山内へいで給う事あり、この道よりは悪しかるべき」と言われていたにも関わらずです。

聖宣曰く、鎌倉入りの作法にて、化益の有無を定べし、利益たゆべき(かなわなければ?)ならば、是を最後と思うべき由、時宗に示して3月1日、小袋坂より入り給うに・・

しかし北条時宗一行によって制止され果たさず。しかし鎌倉の外なら良いとのことで近くの山で念仏踊りをやっていたら鎌倉中から人が集まったとのことです。その「近くの山」とは何処だろうと探したところ近所に時宗遊行寺(ゆぎょうじ)派の光照寺と言うお寺が。もしやと思い調べてみたら一遍上人の「法難霊場」と伝えられているそうです。もっともこちらの光照寺がいつできたものか資料が無いので判りませんが判りませんが、「法難霊場」は此処、と言うよりこの(北鎌倉)あたりと言うことでしょう。

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山内路の釘貫は?

先に述べたように巨福呂郷(小袋谷)とその上の山合いの谷戸の道を小袋坂と考えても、北鎌倉駅の西800mぐらい、右折すると踏切を越えて大船警察から鎌倉女子大へ向かう小袋交差点あたりから東に現在の巨福呂坂トンネルまでとかなり長い間が考えられます。

その道筋には境界と言う観点でゲートウエイ(釘貫役所)の柵を設けるとしたらそこから内側が瓜が谷から化粧坂上への道、円覚寺、北条時頼の私邸山内西亭、北条時宗の私邸である山内亭、そして亀ヶ谷坂切通し、建長寺、巨福呂坂の峠となる北鎌倉駅西側の十王橋のあたりが考えやすいですね。馬場和雄氏も『中世都市鎌倉の実像と境界』の中の「中世都市鎌倉成立前史」p99でその説を取られています。そしてちょうどその位置は四角四境祭が行われた場所との言い伝えがある八雲神社とも一致します。ごていねいにそこには安部清明の石碑が。もちろん後世のもので十王堂橋あたりからこちらに移したらしいですが、四角四境祭=陰陽道=安部清明と伝承の曰く因縁もプラス要素に。

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あるいは北鎌倉から鎌倉駅側の踏切、北条時宗の私邸である山内亭のあたりでしょうか? 確かにこのあたりから本当に「坂」らしくなりますが。

四角四境祭が行われたのも、一遍上人が行く手を阻まれた柵も建長寺の前であった、などという痕跡があったのなら、吾妻鏡の1240年(延應2年:改元:仁治1年)10月10日に書かれている「山内の道路」は絶対に巨福呂坂切通しを通ったのだ、と言うことになるのですが。見てのとおり、そうななりません。 

巨福山建長寺と心平寺地蔵堂

今度は1240年巨福呂坂切通説に立って証拠を考えてみましょう。

1250年に「山内の道路」の補修工事を命じた北条時頼は時宗の父親で1253年に建長寺をたてた人す。その建長寺の創建は1253年です。これがそれを伝える吾妻鏡の記述。

『吾妻鏡』 1253年(建長5年 癸丑)

11月25日 庚子 霰降る。辰の刻以後小雨灑ぐ
建長寺供養なり。丈六の地蔵菩薩を以て中尊と為す。また同像千体を安置す。相州殊に精誠を凝らせしめ給う。去る建長三年十一月八日事始め有り。すでに造畢の間、今日梵席を展ぶ。願文の草は前の大内記茂範朝臣、清書は相州、導師は宋朝の僧道隆禅師。また一日の内五部大乗経を写し供養せらる。この作善の旨趣は、上は皇帝万歳・将軍家及び重臣の千秋・天下太平を祈り、下は三代の上将・二位家並びに御一門の過去数輩の没後を訪い御うと。

大工事なんだから当然その工事の為にも道路を整備するだろうと。道路工事と建長寺の建設が開始が1250年、それから約3年半で建長寺完成。う〜ん、ちょうど符合するではないですか。

またその建長寺の地はそれ以前には地獄谷であったと言われています。何度も書いてきたように地獄谷と言うのは埋葬地(野晒しも含む)で、鎌倉中から外に通じる道の境界の外側です。そして境界であるからには大きい小さいは別にして日常的な道があったと言うことになります。

  • 別に刑場を地獄谷と言った訳ではありません。刑場もまた鎌倉から外への境界が使われたと言うだけで、そこに埋葬された、または単に捨てられた死者の何百分の1でしょう。

また北条時頼が1253年に建長寺を完成させる前から、おそらく1250年に「山内の道路」を補修・整備する以前からそこには伽羅陀山心平寺がありました。そして建長寺の工事を始めるときには地蔵堂(だけ?)が残っていたと建長寺の寺伝が伝えているようです。 「残っていた」と言うからには心平寺が建てられてからたったの数年とか10年とか言うことはちょっと考えにくいですね。無住の寺だったとしてもです。

まあ、山内側から谷戸の一番の奥の突き当たりだからだから寺を建てたんだとも考えられますが、ここでは1240年巨福呂坂切通説に立って証拠を探すというのが目的ですから、地獄谷(埋葬地)=境界=道があった可能性と言う方を押さえておきましょう。

疑念その1 市・町屋

しかし、ここまで証拠を揃えてみてもどうもすっきりしない点があるのです。実はそれが「1240年巨福呂坂切通説は違うかもしれないぞ?それどころか本当に鎌倉時代からあったのだろうか?」と思いだした動機なのですが。
と言うのは、そこが鎌倉中との主要な境界になるなら何でここには市・町屋が立たなかったんだろうと。

  • 例えば名越坂、そこから逗子、三浦半島の物産が運ばれてきたら、それを売るのは大町、米町となります。もちろん和賀江湾(島)からの海路の物産も大町、米町に集まったのでしょう。
  • 稲村口、極楽寺坂、そしてローカルには深沢切通し(大仏切通し)、そして海からのものは甘縄一体の市場、もしかして魚町?があります。高柳先生は魚町は甘縄近辺と考えた方がよかろうと「朽木文書」の元徳2年平顕盛の譲状を根拠におっしゃっています。(「鎌倉市史・総説編」p276)
  • 化粧坂は坂上に町屋がありました。のちに坂下に統合されるようですが。亀ヶ谷坂から入る物資は亀ヶ谷辻がその市場になります。武蔵国や相模の西、および北(山内)からのものの市場でしょう。
  • 六浦から朝比奈切通しを経て入ってくるものは大倉辻があります。

市が無い、つまり物資はここを通らない、それって道として機能していないということにはなりませんか?
高柳先生はそれは峠を越えたらすぐに鶴岡八幡宮寺だから町屋を作る場所が無かったんだろうとおっしゃいますが、どうもひっかかります。

疑念その2 青梅聖天社

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以下は仮に吾妻鏡に言う山内道路が亀ヶ谷切通しであったとしたら、現在、いやトンネルのできる前の巨福呂坂切通し、つまり江戸時代には確実に存在した鶴岡八幡宮から円応寺門前を通ったと言う道は何だったんだろうかと言う推理です。仮説として鎌倉時代を否定してみただけでそうだと思っている訳ではありませんが。しかしこの疑念を打ち消す材料が見つかりません。

鶴岡八幡宮は今でこそ神社ですが、作られたときから明治の初めまであそこは鶴岡八幡宮寺です。そして普通のお寺なら塔頭に相当する「坊」が鎌倉時代には鶴岡八幡宮寺の西側に25坊ありました。(後に「院」となりますが)

その中で東谷、北谷、西谷、南谷とエリアがあるようなのですが、谷の数が合いません。本来の巨福呂坂の八幡側、つまり聖天坂を入れても東谷と北谷を一緒にしなければならないような。そこでGoogle Mapの航空写真で見てみましたが、「北」を中央と解釈すればなんとかと言うところ。

それでも旧巨福呂坂にある青梅聖天社は「新編相模国風土記稿」には鶴岡八幡宮供僧坊の内の最勝院が管理をしていたとあります。最勝院は鎌倉時代の25坊が衰退して7院となったあと、徳川幕府が復興した5院のひとつです。そして祭られていた聖天様、正しくは歓喜天(現在鎌倉国宝館)は南北朝時代のものとか。

  • 衰退した中で青梅聖天社だけがなぜ残ったかと言うと、聖天様、つまり歓喜天は庶民の信仰がとても厚かったと言うことともうひとつ、怒らせるととても怖い「天」なんです。それにしても歓喜天は神道ではなくて仏教によってもたらされたものなんですが、何で神社なんでしょう? まあそれを言い出すと八幡神だって八幡大菩薩なんですが。

となると25坊のひとつが此処にあり、そして衰退して青梅聖天社だけが残りそれを江戸時代に復興した最勝院がお守りしたとか。最勝院が江戸時代にどこに再建されたのかは知りませんが、その前身である静慮坊は西谷・南谷です。その南谷がこの聖天坂だとしたら? ここは鶴岡八幡宮寺の境内です。

そして峠を越えればもうすぐに建長寺です。もしかしたら鶴岡八幡宮寺の坊と建長寺を結ぶだけのものであったんじゃないでしょうか。

北条泰時が山内路を整備させたとなると、その行き先は今の常楽寺。時頼、時宗が通うのは現在の明月院の入口あたりの山内亭です。泰時は化粧坂からでもよいし、時頼、時宗はそれではちょっとばかり遠回りにはなるけど、亀ヶ谷坂でも十分です。

江戸時代の工事記録は

庚申塔や道祖神で私が年代が判ったものは宝暦6年?(1756年)、江戸時代中期ですね。

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巨福呂坂切通しの工事については江戸時代には資料があります。「鎌倉の地名辞典」によると、

  • 1708年(元禄16年)の大地震で108mに渡って倒壊
  • 1788年建長寺宝泉庵主印宗が建てた道造供養塔に「約220mの坂道を350人の助力を得て深さ60cm掘り下」とあるそうです。私には読めませんでしたが。
  • 1851年には鶴岡八幡宮寺の岩瀬一学が峰の高さを約3m掘り下げる普請を建長寺に申し入れ許可
  • 1872年(明治5年)の道普請には明月院が金50円を出費、おそらく円覚寺その他も工事費用を出したのだろうと

現在のトンネルが出来る前の巨福呂坂切通しがどのようであったのかは判りませんが、次は現地調査とまいりましょう。発掘調査では円応寺の東側、隊道の脇に2段になった切岸があり、この下に15世紀頃までには岩盤を削平した平場が存在していたようです。

2007.2.15追記


次は旧巨福呂坂切通しの痕跡