鎌倉七口切通し総集編 | ||
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鎌倉七口の初見は江戸時代初期の1624-1647年頃に刊行された「玉舟和尚鎌倉記」です。その後1659年の「金兼藁」、1674年の「徳川光圀歴覧記(鎌倉日記)」、その徳川(水戸)光圀が命じて編纂させた1685年の「新編鎌倉志」、だいぶ時代は下がった江戸時代末は1829年の「鎌倉攬勝考」(らんしょうこう)、そして1841年の「新編相模風土記稿」に同じような記述があります。鎌倉時代にはその呼び名はありません。 このシリーズは、鎌倉時代の切通しはどうだったんだろうとの観点からまとめたものです。 また、固い話は抜きに、今はどんなとこ?って写真や、「本日のお散歩」へのリンクはこの下をご覧下さい。 亀ヶ谷坂切通しいつも私が北鎌倉から鎌倉に入る道です。2004年の台風22号による崖崩れで人間まで通行止めになっていましたが正月には通れるようになっていました。下の画像はその崖崩れでえぐり取られた跡です。 化粧坂切通しこの坂は鎌倉から北鎌倉に帰るときに良く使います。理由? 巨福呂坂トンネルは車が多い。銭洗い弁天の前の激坂を登るぐらいなら、亀ヶ谷坂切通しを鎌倉側から登るぐらいならここを担いで上がった方が良い。「あ〜、俺はやっぱり山岳サイクリストだったんだな〜」と昔を思い出して感無量になれる。(笑)
北鎌倉側の瓜ケ谷には市指定遺跡の矢倉群があります。 巨福呂坂切通し今は峠部は民家となり更にその先は消失している。江戸時代には円応寺の山門の前を通っていたはずだから、現在のトンネルに切り取られてしまったんでしょう。今は庚申塔、道祖神などが古道の証明として残っているのみです。 巨福呂坂切通しの歴史はこちら 大仏坂切通しここは如何にも古道と言う趣が有って好きなところです。自転車で行っても走れるところなどろくにありませんが、でも私はアプローチが自転車なのでそのまま担いで行きました。 極楽寺坂切通し鎌倉初期には有りませんでした。頼朝の鎌倉入り直後の政子の鎌倉入りも、ずっと後の6代将軍に迎えられた宗尊親王もみんな稲村ヶ崎の海岸ぺりを歩いていたのかもしれません。 名越切通し(なごえきりどおし)古くは、「難越し」と呼ばれるような難路であったため「なんごえ」が「なごえ(名越)」と呼ばれるようになったいわれがあるようです。 名越切通しの歴史はこちら 朝比奈切通し(番外) 釈迦堂切通し釈迦堂切通しの歴史はこちらこれまでのオフとかポタとか
鎌倉七口切通し全般に参考になるサイト
謝辞:吾妻鏡は こちらのサイトを参考にしました。とても助かっています。ありがとうございます。 | ||
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