寝殿造 1.3.2 寝殿の室礼2・障子 2016.9.6 |
|
障子現在障子というと桟に和紙が貼られ、緩やかな光の差し込むものを云う。しかし寝殿造の時代の障子とは建具一般であり、現在の障子は当時は明障子と呼ばれ、それが確認されるのは平安時代も末期からである。明障子と明記されない限り、障子とは今の障子ではなく、襖のことである。母屋と庇の間にはこの障子(襖)が 空間の仕切りとして用いられる。「今の襖のこと」とは云ったが、より厳密に「今の襖のこと」を以下「遣戸障子」(やりどしょうじ)と云うことにする。実は障子は今の襖よりも範囲が広い。障子とは実はパネルのことなのである。 例えば内裏清涼殿にある「年中行事障子」は足の付いた衝立であるし、「賢聖障子」は紫宸殿の母屋と北庇との間に填められた間仕切りである。『建築大辞典』を見てみよう。「@平安時代に現れた障屏具の総称。〔そうじ〕ともいう」とある。『日本史広辞典』には「屋内の間と間の隔てに立てて人目を防ぐもの。もとは板戸、襖、明障子、衝立、屏風などの総称だが、現在は明障子をもっぱら指す」とある。 衝立や屏風は誰でも知っているので以下の説明では省く。 鳥居障子現在では障子や襖は建物ではなく建具だが、鴨居や敷居は建物の一部である。建具屋さんではなく、大工さんの仕事である。しかし寝殿造においては、鴨居や敷居も取り外し可能な建具の一部なのである。例としてこの絵を見て欲しい。鴨居から下を見て「今の襖と変わらないじゃないか」と思われるかもしれない。しかし鴨居の下の引戸だけでなく、鴨居の上まで含めて柱間(はしらま) の全部が障子なのである。 引き違いの遣戸障子を用いる場合には、障子を支持するための鴨居を内法長押(うちのりなげし)より一段低い位置に入れている。当時こうした形式の障子を神社の鳥居の形に似ていることから、鳥居障子と呼んだ。この呼び名からも障子とは今の襖一枚ではなく、枠まで含めた全部であることが解る。
ひとつ説明しておかないとピンとこないかもしれない。現在の和風住宅で長押(なげし)と言われるものが内法長押だが、現在の長押(なげし)は襖や障子などの鴨居と一体化し、ほぼ同じ高さにある。しかし平安時代を挟んで奈良時代から少なくとも鎌倉時代までは、内法長押(うちのりなげし:絵では黒い星形の釘隠しのある横柱)は今の和室の天井ぐらい、あるいはもっと高い位置にある。「寝殿の外壁1・蔀」のページで西明寺本堂の蔀(しとみ)の図面を紹介したが、この図面では柱の芯々で9.4尺(2.84m)。柱と柱の間は2.5mである。内法長押と下長押の間は8.1尺(2.4m)。建物によって若干変わりはするが、平均的なサイズである。 先の『類聚雑要抄』に壁代の長さが「九尺八寸也」とあったが、内法長押の高さが8.1尺なら二尺弱余り、ちょうど符合する。つまり内法長押は現在の和風住宅の鴨居(約6尺)より約二尺(60cm)高いことになる。だから日常生活にふさわしい遣戸障子、今でいう襖を収めるには、建物の一部である内法長押よりも下の位置に建具としての鴨居を取り付ける必要があった。小泉和子『図説日本インテリアの歴史』 p.40 には内法長押の下一尺ほどのところに鴨居を入れるとある。それでも襖は今より一尺あまり高かったことになるが。 当時は大工道具も未発達。カンナ(平鉋)もない時代なので、遣戸障子も今日から考えると実に武骨で大変重い建具であったはずである。滑りも良いとは思えない。今の襖なら指一本でも明けられるが、これらの絵にも遣戸障子を開けるための4〜50cmほどのひもが描かれている。どれだけ重いかそれだけでも解るだろう。上記図面で柱間は柱の寸法を引いても2.5m。我が家の襖二枚分の柱間を測ってみたら172cm。両脇に細い方立があるとしても、襖の幅は我が家の4割増しになる。その重い遣戸障子が今の住宅の天井近くまでの高さであったら女房達も開けるのに一苦労だったろう。鴨居を低くしたのはよく判る。川本重雄はこう云う。
川本先生は「儀式」言い過ぎ。我が家はともかく、少し昔の旧家だってある意味儀式用空間を持ってたんだし、東三条殿は寝殿造の平均像じゃないでしょ。とちゃちゃ入れしたくもなるが、おっしゃりたいことは解らなくもない。 でも、遣戸障子が一般化する前、まだ空間の仕切りが壁代というカーテンだった頃の様式である壁無し建築様式にとっては新参者の遣戸障子の都合を織り込むのに時間がかかったという見方も出来る。 小泉和子『図説日本インテリアの歴史』 pp.40-41 には「鳥居障子はその後寝殿造の内部空間が縮小されていったため、内法長押の下に直接鴨居がつけられるようになる」 とあるが本当だろうか。内部空間が縮小とは鎌倉時代の寝殿造だと思うが、先の『類聚雑要抄』の室礼は最大級の東三条殿のものである。その壁代の長さが「九尺八寸也」とあった。そこから計算する内法長押の高さと、鎌倉時代の寝殿造の技術で建てられた先の西明寺の図面にある内法長押の高さはほぼ同じだと思うが。私が『類聚雑要抄』を読み間違えているのだろうか。内部空間が縮小は主に柱間寸法だと思うが、寺院の金堂・講堂、官衙・内裏などを別格として、邸宅では10尺から10尺弱というのは奈良時代から鎌倉時代まで変わらないように見える。 寝殿造よりも後の時代に内法長押の位置がさがってきたのではないだろうか。鳥居障子は壁代ベースの寝殿造に後付けで遣戸障子を用いるための工夫だったが、壁代が駆逐され、遣戸障子で室内を仕切ることが当たり前になって、それに合わせて内法長押の位置が変更されたのではないか。その頃には長押(なげし)はもはや構造材では無くなっていただろうし。 押障子長押(なげし)までの柱間(はしらま) 全部が建具ということがもっとはっきりと判るのが下の絵である。現在鴨居の上は塗壁か塗壁もどきの塗装だが、上の絵においては鴨居の上、内法長押までのスペースは今の襖の造りとたいして変わらないパネルである。
右下を見て欲しい。遣戸障子、今でいう襖の部分は柱間の全部ではなく一部である。そしてそれを一部に含むこの壁は、その全体がはめ込みパネルのように見える。1枚のパネルの嵌め込み壁は押障子という。つまり建物ではなくて建具なのだ。建具の木地の部分はたいてい黒漆で塗られる。だからこれらの絵巻で鴨居は黒なのだ。固定壁ではない障子は大工さんの仕事ではない。室礼(しつらえ)の一部であり、今なら建具屋さん、内装屋さんの縄張りである。季節や行事に合わせて設置したり取り外したりしていたのだろう。 軟錦(ぜんきん)また二つの絵ともに私がパネルだと云った部分には遣戸障子と同様に軟錦(ぜんきん)が張られている。軟錦とは御簾や几帳に縁取りや装飾として使用された帯状の絹裂地のことである。模様は違うが御簾に縦についている帯と同じである。この壁のように見えるものに遣戸障子が無くて1枚のパネルだったとしても障子なのである。 『類聚雑要抄』にある室礼12世紀前半の『類聚雑要抄』巻第二にこのような図がある。寝殿母屋と南庇にかけての室礼(しつらえ)で、おそらくこの右(東)、棟分戸の中が塗籠なのだろう。「帳」とあるのが帳台(後述)で母屋に置かれている。その南正面の庇に御座がしつらえられている。 これは東三条殿だろうから母屋は六間、内塗籠が二間で、残る四間(梁行二間)とその南の庇(梁行一間)が主人のスペースとして一体化して使われている。母屋と南の庇の間には隔ては無い。庇の南面、簀子縁側には几帳が置かれる。もちろんそこには蔀(しとみ)があるが昼間は開放され、御簾が下がっているか巻き上げられているかだが、それは当たり前なので書かれていない。 残る三面は押障子と鳥居障子で仕切っている。北の庇との間は押障子と鳥居障子はほぼ交互に使われている。内裏の紫宸殿なら賢聖障子が填められている処だ。はめ殺しの賢聖障子にも数カ所戸が付いているが、ここでは鳥居障子がその役目を果たしている。先に述べたように鳥居障子の開口部は遣戸障子、要するに襖になっている。 母屋に置かれた「帳」の東(右)は塗籠で棟分戸と書かれているが塗籠の妻戸(つまど)が閉じられているのだろう。「帳」の西(左)ははめ殺しの押障子で通り抜けは出来ない。内裏の紫宸殿では、この位置には唯一に漆喰の白壁がある。面白いのは南の庇で、両側を鳥居障子で仕切ってある。塗籠以外には壁が無いという寝殿も、決してだだっ広いオープンスペースではなく、実際にはこうして仕切られている。 これは日常の室礼(しつらえ)である。はめ殺しの押障子とか書いたが、それは通常であって固定されている訳ではない。必要があれば取り去ってしまう。大臣が開く正月大饗(だいきょう)のときにはこのように室礼が変わる。 このときには、屋敷全体とまでは云わないが、庭まで含めたかなりの部分が晩餐会の会場となる。書院造以降でも確かに似たようなことはやる。昔の旧家は座敷の襖を取り払い、数部屋をつなげて宴会場にした。それを想定しての間取りである。ただし、そこでは取り払うのは襖に障子ぐらいだが、寝殿造では先に見たような鴨居や敷居まで含めて外してしまえるのである。場合によっては床まで外してしまう。 正月大饗は寝殿造は儀式のためのものと言われる重要な要素であるが、しかし大臣は貴族の中の最上位、三人ぐらいである。かつ大臣全員がそれを行う訳ではない。摂関家の大臣一人だけがそれを行い、その他の大臣は尊者という主賓となってお呼ばれする。 障子はパネルもう一度云う。障子はパネルである。 『建築大辞典』に戻ると、障屏具(しょうびょうぐ)に「可動式装置」とあるが、「取り外し可能」の意味だと思っておけば良い。パネルなんだからそれを柱の間にはめこんで固定間仕切り(押障子)にしたり、足を付けて衝立にしたり、桟の上を走らせて遣戸障子、つまり今で云う襖のようにもする。屏風もまた木枠に布や紙を貼ったパネルで ある。 ただし先の『枕草子絵巻』は推定鎌倉時代の13世紀末とされるので、そこに描かれた室礼は清少納言が生きた平安時代中期の寝殿の室礼とは言えない。遣戸障子、つまり今で云う襖(ふすま)が確認されるのは平安時代末と云われる。 副障子(そえしょうじ)副障子とは壁に添える装飾用のパネルのことだが、絵巻には時折、腰の高さの低い副障子が描かれ、それが常居所(じょういじょう:主人の居間)を表す記号だったりする。絵巻での初出は平安時代(12世紀前半)の『源氏物語絵巻』「宿木」段の清涼殿朝餉間(あさがれいのま)だろうと太田博太郎は云う。12世紀半ば過ぎの『病草子』「不眠症の女」にも副障子(そえしょうじ)は描かれている。 『源氏物語絵巻』「宿木」段の清涼殿朝餉間(あさがれいのま)。三省堂辞書サイトの「絵巻で見る 平安時代の暮らし」がこのシーンの名称を詳しく解説している。 『病草子』「不眠症の女」 下は『法然上人絵伝』の一コマであるが、奥の壁に、遣戸障子と同じ様に周囲に軟錦(ぜんきん)が貼られ、絵の描いてある腰高のパネルが見えるが、それが副障子(そえしょうじ)である。その前の畳みに座るのがこの家の主人とその母、妻に妹というところか。かなり裕福な家らしく、障子には絵が描かれ、隣(左)の奥の部屋には漆塗の二階棚に蒔絵の手箱や火取母(香炉)、書籍等が描かれている。
こちらも同じ『春日権現記』であるが、裕福さは上の二つの屋敷ほどではない。障子に軟錦(ぜんきん)は貼られているが絵は描かれていない。それでも鎧に弓箭を携えた武士が夜間に簀子縁で宿直をするほどの身分ではある。居間と寝室が分かれてはいないらしく、副障子(そえしょうじ)の前で主人夫婦が寝ている。手前に女が畳みの上に直に寝ているが女房(侍女)だろう。おそらく主人夫妻が母屋で、女房(侍女)が臥しているのは庇の間。その間には遣戸障子があるはずだが、絵巻的省略である。 なお、ネットで「副障子」を検索すると上位には以下のようなサイトが出てくる。
特に 3.と 4.は語尾以外全く同じなので、同じライターが文章を担当したのか、あるいは原本となる書籍があるのかもしれない。いずれにしても本稿で云う「押障子」と同一視している記事ばかりである。一方「押障子」で検索すると、三省堂辞書サイトの「絵巻で見る 平安時代の暮らし」が、押障子と副障子を区別して説明している。現時点では建具についての私の参考文献は小泉和子の二冊だけなので、本稿ではそれに従い、両者を分けて説明する。 初稿 2015.10.31 |
|