寝殿造 2.5   身分による屋敷の格式      2016.9.2

身分による屋敷の格式

以上寝殿造の主屋である寝殿、内郭と外郭それぞれの主な建物を見てきたが、しかしそれは堀河殿のような里内裏、東三条殿のような摂関家の屋敷であり、一握りのトップクラスのものである。寝殿造の時間(時代)ファクターでの相違はどの建築史の概説書にも書かれているが、階位のファクターでの相違には寝殿造の専門書でもなければあまり触れられない。

『続日本記』『小右記』

既にふれたが、「一町之家」が「如法」、くだけて云うと「お約束」であるのは院や公卿クラスの話である。
同じ『小右記』長元3年6月28日条にはこうも書かれる。

今年五月廿八日給左右京・弾正・検非違使等官符云、応禁制非参議四位以下造作一町舎宅事、右式(延喜左右京職式)条所存

方一町の屋敷を持てるのは三位以上、または四位参議以上であると昔から定められているのにないがしろにされているので改めて通達したということだろう。法的には「一町之家」を禁止されていた非参議四位以下に許された屋敷の広さは平安時代の文献には残っていないが、『続日本記』によると四位五位が1/2町以下、六位以下は1/4町以下であった。1/4町は方半町、60m四方の8戸主である(太田博太郎1989 p.94、藤田勝也2005 p.14)。

ただしその記述は平安京以前の条であり、平安時代初期には同様であっても、平安時代末の状況ではない。『小右記』長元3年6月28日条のようにその禁制が何度も告知されるということは、逆に守られてはいなかったということの現れでもある。受領の京宅は官物の倉庫の意味もあるが、一町規模の屋地をもつものが多かったようである。

10世紀 912年(延喜2)の『七条例解』(平安遺文 207号)に出てくる正六位上大海当氏の櫛筒小路の屋敷は4戸主であり、その敷地に母屋三間に四面庇、更に叉庇、小庇を持つ床張りの建物と、2宇(軒)の五間板屋、つまり板葺きの土間床の建物を持っている(藤田勝也2005 p.49,p.67)。五位が大量生産された平安時代末期から鎌倉時代初期の五位クラスの都市部での宅地感覚はこれぐらいではなかろうか。

8戸主の屋敷は鎌倉でも発掘されている。最上級ではないが上級の屋敷である(今小路西遺跡)。文献上で北条氏の屋敷を戸主で表したものは嘉元の乱直後の1305(嘉元3)年5月30日の「駿河守(宗方)跡小笠原谷地八戸主事、可為醍醐座主僧正坊管領・・・」(鎌倉遺文22226:前田家所蔵文書)がある。これとも関係するがやはり前田家所蔵文書(鎌倉遺文24063:1310(延慶3)年9月15日)に「名越善光寺入地〔陸戸主〕事、任越後守実時後家代成覚今年六月四日相伝状・・・」がある。(『鎌倉市史・総説編』p233)。

『朝野群載』には檜皮葺は五位以上

これも既にふれたが、『御堂関白記』 寛弘2年(1005)2月19日条には「一条院料召諸国檜皮」とあり、一条院に用いる檜皮を諸国から徴収している。檜皮はやはり高級建材ではあったのだろう。9〜10世紀においても上級貴族の寝殿の全てが檜皮葺であった訳ではない。
逆に貴族の屋敷には格式による制限があり、檜皮葺は五位以上でなければ用いてはならないことになっていた様である。11世紀頃に正六位下源相高(さねたか)はそれを破ったとして検非違使に家を壊されている(『日本記略』寛仁2年(1018))。もっとも『朝野群載』には、応和元年(961) 正六位上上海直延根後家・海恵奴子の家が「三間桧皮葺屋壱宇 / 三間車宿壱宇 / 門屋壱宇」と書かれている。平安時代の法は「再度禁止する」とあると「ああ、守られていなかったんだなぁ」と読むぐらいなので実態がどうだったのかはよく判らない。ただ、中下級の屋敷でも主屋を寝殿を名乗る場合には桧皮葺が多いように思える(3.5 家地関係史料にみえる小規模寝殿)。

関野 克 『日本住宅小史』 (1942)から

  • 天平三年九月左右京職の奏言を見ると、三位巴上の宅門しか大路に開く自由を有さなかった。
  • 『日本書紀』、持続天皇五年12月に「賜左右大臣宅地1四町。直廣貳以上二町。大参以下一町。勤以下至無位。随其口。其上戸ー町。中戸半町。下戸四分之一。王等亦准此」と。
  • 『績日本紀』天平六年九月の僚に「辛未班給難波京地。三位以上一町以下。五位以上半町以下。六位以下四分之一以下」(これは先にも出てきた)


『海人藻芥』と『三内口決』

『群書類従』 第二十八輯に、屋敷についての有職故実を記した書に『海人藻芥』(あまのもくず)がある。『海人藻芥』は僧家の故実が中心だが、後半 部に「居所事」として大臣家、月卿雲客の公家、門跡・院家の寺家そして武家の別にそれぞれの家屋構成と仕様を略記している。書かれたのは奥書によれば応永 27年(1420)。南北朝の戦乱で鎌倉時代の京の寝殿造が壊滅した後、かつ公家の財力も鎌倉時代より更に低下した段階なのでこれまで見てきた寝殿造の トップクラスとは相当に様相が変わった段階である。
しかし有職故実は過去の事例をまとめたものなので平安・鎌倉時代の寝殿造をある程度は知ることが出来る。川上貢の『日本建築史論考』に「『海人藻芥』と『三内口決』の家作記事の検討」が収録されているので、それを元に内容を見てゆこう。

大臣・親王の邸宅では四足門をかまえ、上中門・殿上・公卿座・障子上・随身所が設けられ、 車宿の柱は丸柱につくること、これに対し、月卿雲客の邸宅では、上記の門と屋をたてることは許されず、寝殿には階隠を設けず、車宿の柱もまた方柱にするこ とに区別がたてられ、格式の高下の別にしたがい邸宅のかまえに法式のあったことを示している。(川上前掲書 p.339)

ここでの月卿雲客とは大臣を除いた公卿と殿上人(てんじょうびと)である。公卿の中でも大 臣とそれ以外では格が違う。一般に公卿・諸大夫・侍(武士のことではない)が大きなランクであるが、実際には親王と大臣、大臣以外の公卿、殿上人、殿上人 でない四位五位の諸大夫、六位の侍、その下が凡下・雑人(庶民)である。屋敷に関しては親王・大臣とそれ以外で屋敷の格が決められる。

  • 「大臣・親王の邸宅では四足門」というのは、平安時代からそうである。大臣任官が近いというのでそれまでの棟門から四足門に建て替えたりしている。
  • 「階隠」は「寝殿の外壁」で紹介した。このあとで里内裏、摂関家以外の寝殿造を見て行くが、そうした屋敷は絵巻物でも確かに寝殿に階隠は無い。
  • 「上中門」は「寝殿造の内郭・中門廊」で説明した。
  • 室町時代の「公卿座」とは平安時代から鎌倉時代の二棟廊である。ただし使われ方は時代とともに変化する。
  • 「殿上」はこのページで説明した「侍廊」。「障子上」はその「侍廊」の中門廊側の間である。ただし「殿上」を「侍廊」と云ってしまうと、公卿でも 「侍廊」を持てないのか、ということになってしまうが、そんなことはあり得ない。建物の位置は変わらなくとも「殿上」とは云わないという意味だろう。
  • 「随身所」は、「随身」自体の性格からして平安時代でも大臣クラスでなければ持たなかったかもしれない。

『海人藻芥』はそもそも「対」の消滅後であり、そこに書かれていることが、そのまま文字通り平安時代に当てはまるものではないが、しかしこれまで見てきた寝殿造は最上級のフルセットで、大半の寝殿造はそこまでではないことが見てとれる。

そもそも貴族の住まいは京にいくつぐらいあったのか。永承2年(1047)2月21日『造興福寺記』に藤原氏の氏長者藤原頼通が 藤原氏の氏寺である興福寺の修造の為にランクに応じた寄進を要請する名簿「藤氏諸大夫」が残っているが、そこには366名の記載がある。最初の35名が四位で、後の331名が五位のようだ(高橋喬『奥州藤原氏』p51)。位階があがるほど少なくなる。もちろん他に村上源氏とかその他の氏族もいるが、五位以上の貴族の半分以上は藤原氏だろう。地方に下っていて京に屋敷を持たない藤原氏と在京の藤原氏以外をほぼ同数と仮置きすれば、在京貴族は300〜400人 ぐらいいてもおかしくない。藤原頼通の時代に親王は天皇の子だから10人もいない。すると在京貴族の中で大臣・親王に院・女院を加えても5%以下だ と思う。
それ以外の貴族の屋敷、住まいについての情報はほとんどない。ただ藤原頼通の時代は律令制に基づく官人給与は事実上崩壊し、国司は守・介・掾・目ではなく、守一人の裁量に任され、中央官庁も官司請負制へ移行してゆくので、四位五位の諸大夫層の収入は運と実力次第だったろう。「障子帳と脇障子」に出てきた播磨守有忠のように裕福な者もいれば、『今昔物語集』巻26語17で関白邸内に部屋をもらって住み、正月大饗の残り物の芋がゆをすすり「芋粥を飽きる程飲んで見たい」という情けない五位殿(芥川龍之介『芋がゆ』のモデル)まで様々である。  

初稿 2016.2.28