寝殿造 3.1   『年中行事絵巻』の下級貴族の屋敷  2016.9.20 

下級貴族の寝殿造

寝殿造の実物は現存しない。実物が現存する寺院建築なら解体修理のときに調査出来るが、住宅建築はそうはいかない。古文書を紐解いても桧皮葺かそうでないかがたまにかかれるぐらいである。残る史料は平安時代後期から鎌倉時代にかけての絵巻物である。しかし絵巻物屋根が描かれることは少なく、下級貴族の寝殿造は描かれることは更に希である。
そうしたなかで、『年中行事絵巻』第18巻3 の屋敷は平安時代に描かれた唯一のの下級貴族の寝殿造である。下級貴族と云っても、それはこの荒れ果てた姿からの想像で最下級貴族ではないだろう。院近臣の大国受領ではない四位ぐらいか。絵巻なので具体的に誰の屋敷ということは無いだろうが、『年中行事絵巻』が描かれたと推定される1170年代後半は既に平家全盛の時代で、それ以前から貴族社会全体の収入は落ちl込み、中級以下ではこのように屋敷の修理もままならないケースは多々あったの だろう。この絵は当時普通に見られた世相の一コマと見てさしつかえないと思う。

下級貴族の寝殿造

絵巻の絵のパーツはある意味記号であり、例えば反りを付けた屋根はそれだけで「粗末な建物ではない」という意味である。かつ様々なシーンの合成であ る。この『年中行事絵巻』の貧乏貴族の屋敷はましな方なので復元図を書いてみたが『男衾三郎絵巻』の兄・吉見二郎の寝殿など、逆立ちしたって平面図は起こ せない。全く違う角度から見たシーンの合成である。従って絵師がその記号で何を伝えたいかを中心に考える必要があり、なかなか一筋縄ではいかない。

下級貴族とは書いたが、地下の侍(武士ではない)が童も含めれば四人もおり、立烏帽子を被った主人の年かっこからして諸大夫クラスでも四位ぐらいに見える。「安楽花」(やすらいはな)の踊りを主人とその家族が楽しそうに見ている図である。地下の侍も含めてその表情は実にほほえましい。

下級貴族の寝殿造

日本絵巻物集成『年中行事絵巻』(雄山閣 1931)から引用。

「安楽花」(やすらいはな)はやすらい祭にうたわれる歌で、絵巻には高雄寺の法華会に「京中の女童、詣でて、舞ひ奏づ、出立ちて行くを、桟敷ある家に呼び止めて、舞わせ見る。これを安楽花と名付けたり」とある。

屋根の種類

屋根は例の雲がかかって境目がよく見えないのだが、右側の庇の付き方から一体化はしていない。

下級貴族の寝殿造

下の写真は室生寺の金堂の縋破風である。切妻屋根の本体ではなくて、寄棟造の南面に孫庇を追加した例で、更に本体の屋根と追加した庇を厚手の檜皮葺で綺麗につなげておりそこが縋破風で反り返っている。

下級貴族の寝殿造

『年中行事絵巻』の下級貴族の寝殿の絵も、つなげてこそいないが、縋破風状態の本体屋根の反り返りを強調して描いている。下の図で云えば「Dマイナ1」か「Dマイナ2」のどちらかだろう。軒先まで檜皮葺なら「Dマイナ2」の可能性が高いように思う。

下級貴族の寝殿造

重しに石を載せているところから最初は板葺屋根かと思った。白くなっているところは雲だろうと。しかし軒先の線はしっかり書かれており、これは檜皮葺が剥がれて野地が見えている状態と見た方がよさそうである。下のような状態が更に進行したと。『年中行事絵巻』の模写の色が塗られていない段階であり、色が塗られていれば雲のような白ではなく、黒っぽい檜皮色に塗られただろう。

下級貴族の寝殿造

中門の屏代わりなのか、立て蔀が朽ち果ててほとんど枠だけになっているし、おまけに寝殿が倒れないように支え棒まで書かれ、簀子縁を支える束柱が一本傾いているなど、いかにも老朽化の極みのように描かれている。

しかし細部を見ると、元々はそれなりのクラスの屋敷だったように見える。築地屏に門は四足門(大臣・親王)ではないが棟門で、上土門や唐門よりも格が高い。板屋根が歯抜けになっていなければそこそこの門構えだ。屋根の軒に反りを強調して描いているところも、元々はそれなりの建物であることを伝えている。格子戸と東面の蔀(しとみ)の下の格子が黒く描かれているのは桟の部分が漆塗りなのだあろう。

理由はあとで述べるが門は東門。主人家族が見ている簀子縁は寝殿の東庇の縁だと思う。奥に短い建物の突き出しがあるがその向こうに侍廊があるのだろう。中門廊は無く、横連子窓(れんしまど)も描かれてはいない。

それでも「安楽花」(やすらいはな)の踊りを立烏帽子を被った主人とその家族が、幼子まで交えてみんな楽しそうに見ている。女子も小さい内は簾に隠れなくとも良いらしい。踊りを嬉しそうに見ている子供達をこれまた嬉しそうに見ている髭をはやした男がこの家の主人か。奥方が見えないと思ったら御簾の中から見ていた。それまでは南の庇で琴を弾いていたようだ。

没落貴族にしてはみんな表情が明るい。ついつい感情移入して、老朽屋敷を安く買いとり、これからリフォームでもしようかと考えている下級貴族と考えたくなる。そういった感情移入はともかく、この屋敷が老朽化する前の姿を考えてみよう。

寝殿の全景

この屋敷は東礼の家で、この寝殿は三間四面(桁行五間×梁行四間)のつもりだと思う。塗籠はあれば西側だろう。二棟廊も東対も中門廊も無いが侍所だけはあるようだ。手前の朽ちた立蔀が朽ちていなければ、東三条殿の中門廊の役割を果たし、寝殿南庭の内郭を視覚的に区切っていたと思 う。

東礼の家

この寝殿造は東礼の家で、絵巻はこの寝殿造を東南かから描いている。主人家族が踊りを見ているのは東庇の簀子縁である。そう見るのは次の5点からである。

  1. 屋根の棟の向き。
  2. 妻戸の向き。妻戸は普通建物の脇の面(通常東西)に付けから妻戸なのだ。
  3. そして裏に侍廊があることを思わせる門側に伸びる竪蔀。
  4. 門付けの芸人達が寝殿正面南庭で踊るとは思えない。
  5. 朽ちた竪蔀は外部の視線から私的な空間(内郭)を守るためである。
    これを竪蔀と見るのは、下が土居桁で、それに柱を立て、その上の横木は寝殿の角から突き出している。更にその上に竹のよく見る装飾がある。簀子縁の部分に暖簾を下ろせば寝殿正面のプライバシーはまもられる。竪蔀で守られているのは琴が置いてある方の面である。

以上から、描かれている門を東門とすると、全てが符合する。この屋敷が老朽化する前の姿を考えてみよう。絵巻なので画面、いや紙面には状景を伝えるに必要なとこだけを抽出している。なのでこの絵を描くにあたって絵師が思い描いた屋敷の方をである。絵師が思い描いたこの寝殿造は三間四面だと思う。おそらくこの絵のような寝殿造だったろう。

下級貴族の寝殿造

東三条殿のような最上級寝殿造の図面ばかり見ていると、「これが東門ならその正面は中門廊の先の中門のはずだろうと」と思いがちなのだが、下の絵巻を見て欲しい。『年中行事絵巻』よりも140〜150年後の『松崎天神縁起』絵巻での富める中流貴族播磨守有忠の屋敷、「寝殿の室礼(しつらえ)」にで紹介した部分の右側である。この絵の左下に開いた妻戸の端がある。

下級貴族の寝殿造

播磨守と云っても播磨の屋敷ではなく、京の屋敷である。官位は同じぐらいの諸大夫層でも貧乏貴族ではなく、諸大夫層の中では最も富める院政期の中流貴族の想定なので、桧皮葺の中門廊も中門もある。しかしこの中門廊は確かに漆喰の白壁や連子窓があるのだが、この桧皮葺の屋根よりもっと先である。しかしその根元はこのように白壁ではなく、蔀戸が釣ってある。奥二間には御簾が下りているが手前二間には御簾が見えない。そしてこのあと見ていく鎌倉時代後期の絵巻には『男衾三郎絵詞』でも『西行物語絵巻』でも同じ様に寝殿の門に面した側には蔀戸が描かれている。
『年中行事絵巻』にあるこの貧乏貴族の寝殿が書かれたのは平安時代末期であるので、すくなくとも平安時代末期には、中門廊による格式を絶対的に必要とした大臣クラスでもなければ、厳密に内と外を仕切る白壁は無かったのかもしれない。

侍廊

もうひとつこの二つの絵で共通するところがある。『松崎天神縁起』絵巻には侍所(廊と云うほど長くは書かれていないので)が書かれている。これを侍所と見る理由は、奥には侍所を象徴する朱の台盤を前に家司らしき者がいて、室内手前には任国の目代の代官が運上品の目録を報告しているように見えること。その外では大唐櫃から酒樽や大きな鯉やその他を中に運び込もうとしている。『粉河寺縁起』での長者の屋敷の出だしと同じシーンだ。絵巻でのこうしたシーンは富栄える家を表している。そ してそういう収入を管理するのも侍所の家司の仕事である。

もちろん『年中行事絵巻』の貧乏貴族は富栄える家ではないが、問題はこの侍所の前の立格子で ある。『年中行事絵巻』の貧乏貴族の家の侍三人が庭に座るその後ろに見える格子はこれではないか。絵巻では省略されるケースもあるが、侍廊の前には必ずと云ってよいほど立格子(蔀)の塀がある。その立格子の裏が侍所ならこの面は間違いなく東であり、東礼の寝殿造であの棟門は東門である。

なお、復元図では南に延びる竪蔀が二間、三間と同じ様に続いているように描いたが、これは織戸中門であったかもしれない。つまり二間目ぐらいが開戸になっていたと。

三間四面の寝殿

三間四面と読んだ理由を以下に説明する。

桁行

絵巻では桁行は三間に描かれているが、これは絵巻的省略だと思う。三間しか描かないのはそれだけで南面の三態が描けたからだろう。五間を一間ずつ説明する。

  1. 東端の一間目、庇の部分は遣戸だと思う。格子になっているので舞良戸(まいらど)ではなく、蔀を戸にしたようである。開口部に簾が巻き上げられている。
  2. 絵巻の東から二間目は蔀をつり上げ簾も巻き上げている。
  3. 同じ状態を一間増やした。
  4. 絵巻の東から三間目は簾が下り、その内側に几帳が見える。これがずれて四間目になる。
  5. 西端に東端の庇の部分と同じように遣戸一間を追加した。これで桁行五間である。

門が東にある東礼の家だから塗籠はあったとすれば西だろう。平安時代末なので無かったかもしれない。四間目に御簾が下りているのだから、西端の遣戸の開口部にも簾を下ろしてみた。できあがりは我ながら寝殿にありそうなパターンとなった。

梁行

さて、問題は見えない北側に庇があるのかどうかである。庇が四面全てなければいけない訳ではない。後で「3.5家地関係史料にみえる小規模寝殿」 にでてくるが、『平安『平安遺文』70の承和8年(841)「石川宗益家地売券」に「三間桧皮葺板敷屋一間(軒?)庇在三面」。『平安遺文』118、 119の斎衡2年(855)「秦永成地相博券文」に「三間桧皮葺板敷屋壱宇 庇三面於己損」、『九条家文書』の大治3年(1128)「平資基屋地去渡状」に「壱宇五間二面寝殿」などあり、庇が四面全てなければいけない訳ではない。三間三面だってあり得る。しかし主人家族が踊りを見ている簀子は座っている処 だけでも三間に見える。さらにその奥に縁が続いている。もう少し詳しく説明しよう。

  1. 南端一間目は妻戸が開いて簾が下り、その簾の中から女房(多分奥方)と頭の白い老婆(主人か奥方の母か)が踊りを見ている。その前には幼い女の子(多分)が。
  2. 次の一間は蔀を全て外したのか、中学生ぐらいの男の子が下長押(しもなげし)に腰掛け、その右には簀子には裳着(もぎ:男の元服に相当)を済ませた小学生ぐらいの女の子。
  3. 次の一間にはこの家の主らしき髭を生やした男とそれよりは若い男が二人。太郎と次郎か。ここを三間目と判断する理由は主人の後ろの黒い枠である。 蔀(格子)の下だけ残して上を外したように見えるが、軒下に釣り上げられているつもりだろう。格子模様は一部だけ書かれて省略されている。その上には内に垂らした御簾が見える。その左手前に柱が見える。通常蔀(格子)は日中は上半分を軒下に釣り上げ、下半分は取り外すが、下半分を取り外していない状態が、時代は室町に下るが『洛中郊外図屏風』の細川管領邸の外門に向いた面に描かれている。その絵での出入り口は上開け蔀と同じ東面でそれより南に位置する妻戸二種と片扉である。その源流は平安時代末にはこのような下級寝殿に始まっていたのかもしれない。
  4. さらにその奥に縁と蔀(格子)が続いている。その南から三間目の位置の東側には竪蔀(立蔀、格子の非固定の屏)が描かれている。下は土居桁である。一間ぐらいで北に折れ曲がっているが、この折り曲がった位置は絵のレイアウト上の問題だろう。一間にこだわる必要はない。この竪蔀の向こうに侍廊があったか、あるいは描かれていない処で東に折れて東門前の中庭を囲っていたか。他の絵巻を参考にすればどちらもあり得る。いずれにせよこの寝殿の梁行は四間以上、おそらく四間のイメージである。

結論

以上から、この寝殿はやはり三間四面(桁行五間×梁行四間)のつもりだと思う。二棟廊も東対も中門廊も無いが侍所だけはある。そこに詰めていただろ う侍(武士ではない)四人(内一人は元服前の童)は地下(地面)に座って踊りを見ている。手前の朽ちた立蔀が朽ちていなければ、東三条殿の中門廊の役割を果た し、寝殿南庭の内郭を視覚的に区切っていたと思う。

【余談】
こういう絵巻は拡大鏡で見るなりスキャンするなりで細部を見ると面白い。目尻を下げて子供達を嬉しそうに見ているこの家の主人のほほえましい親バカ顔。踊る女芸人がなかなか可愛い顔だとか。現存するものは模写だが、オリジナルが有るにせよこの絵師はなかなかの者である。今、崩れた築地塀から中の踊り を覗いている二人を見つけた。上の画像では云われなければ判らないかもしれない。
後白河法皇は人間的には嫌いなのだが、こういう絵画を残してくれたことにはとても感謝する。町屋の研究だって『年中行事絵巻』に描かれたものの解釈でケン ケンガクカク。それがなければ始まらないのだから。原本が無ければ今残る写本も無かった。その功績には文化勲章をあげても良いかもしれない。


初稿 2015.10.31