寝殿造 7.1.5  足利義政の屋敷と寝殿造の消滅  2016.12.5

烏丸殿

嘉吉元年(1441)6月24日の嘉吉の乱義教が殺されたとき、その子・義勝はまだ8歳だった。翌年7代将軍となるが、嘉吉3年(1443年)7月21日に10歳(満9歳)で死去。そのため母方の日野資任の許で養育されていた同母弟の義政が8歳で後継となり、文安6年(1449)に14歳で元服して4月29日に将軍宣下を受ける。しかし義政は父の室町殿には住まなかった。室町殿には種々の怪異が発生するとの理由で義政の母や姉妹は室町殿を出て義政の住む日野資任の烏丸殿に合流してしまい、烏丸殿が将軍御所となってしまった。しかし日野資任の屋敷は将軍御所として充分の体をそなえていなかったらしく、室町殿より寝殿を始め建物を移建している。七間寝殿をはじめ公卿座・殿上・中門廊・中門の構成は前出の義持・義教の御所のそれらとほぼ一致する。室町殿より移建されたものでれば当然といえば当然であるが。

この時期に判明することは、持仏堂中に書院が設けられていたことである。この書院とは書院造の書院とは違い、書院造の書院にもあるが僧房などに見られた付書院。つまり部屋の一部の採光の為の窓と作り付けの机である。そして書籍が置かれていた。北面に書院があり、書棚や附書院或いは押板が作り付けになったのちの、東山殿東求堂(とうぐどう)に類似した体裁をもっ建築が、既に東山殿に先行して烏丸殿に存在していたらしい。

文安6年(1449)の公武・諸門跡の拝賀対面は公卿座で行なわれており、当時この御所には会所が完成していなかった。会所は寝殿に8ヶ月おくれて完成するが、公家行事を優先する移築・あるいは建設が行われていたようである。義政は烏丸殿におよそ16年住む。

室町殿

義満の室町殿は、義教の室町殿と同じ上御所の地である。義政は長禄2年(1458) 11月27日、23歳のときに上御所(室町殿)新造を諸大名に命た。そして長禄3年(1459)11月には表向諸殿は完成し、長禄4年(1450)12月には表奥共一応完成する。御所の景観は京都・東福寺の禅僧・雲泉太極が書き記した『碧山目録』にこうある。

丞相甲第之制也、廊廡重複、楼殿騰涌、稍入其内、則殆如遊於迷楼之九曲、不知所向矣、土木之工尽此焉、侍郎目、天子上皇各在某殿、惟避凶賊集於闕庭也・・・

まったく当時の禅僧は文章も日本語ではなく中国語で書くので難しい字ばかり出てくる。教養の見せびらかし? 「廡」は「軒・庇」、「稍」は「やや」、「焉」は「いずくんぞ」で「どうして・・・か」の意味。読めない文字を「文字パレット」や「手書き文字入力」で探すのにえらい苦労する。手に負えないので川上貢に要約してもらおう。つまりは、多くの殿舎が渡殿や廊下で結ばれ、南庭は山水の境地に亭がたち、舟を浮かべ、奇花珍石を植え或いは水鳥をはなつなど土木の工ここに尽きるといわれるほど豪華な内容をもつものであったらしい。(p.392)

これらの殿舎は新築ではなく、元々室町殿にあったものを烏丸殿に移築し、それをまた室町殿に戻したらしいので、その構成は少なくとも礼向きは義教の段階のこの平面とほとんど変わらなかったと思われる。

応仁の乱の間、この室町殿に天皇が避難し、仮皇居にあてられたが、文明8年(1476)11月22日に焼失する。従って、室町将軍の寝殿造はこの室町殿を最後とする。室町殿が焼失したあと移住した小川殿には、4年後の文明12年(1481)時点でも「御所未無寝殿」と言われ て、常御所が寝殿の代替屋を兼ねていた。その後の北山殿は有名ではあるが、寝殿は計画はされたがついに建造されることは無かった。

公卿の屋敷・寝殿造の消滅

寝殿造の最後は事実上その文明8年(1476)11月の室町殿の焼失によって終焉を迎えたと考えておいて良いだろう。文明8年(1476)とは応仁の乱終息の前年である。その応仁の乱で京はほぼ灰燼と化し、南北朝以降も僅かには残っていただろう公卿の寝殿造もほとんど焼失する。室町時代の寝殿造を将軍邸に見てきたが、本来上級寝殿造の担い手であったはずの摂関家などの上級貴族の屋敷はどうだったのだろうか。それにはまず貴族の財源を見ておく必要がある。

平安鎌倉期の国衙領

そもそも、平安時代中期に藤原道長頼通親子が贅を尽 くした屋敷をいくつも建てられたのは荘園の収入故ではない。国司・受領の人事権をもち、家司を大国の受領に任命、あるいは家司以外の国司・受領でも重任を願って屋敷の作事に奉仕したためである。院政期にはその国司・受領の人事権は院が握り、院司を大国の国司・受領とし、その成功(じょうごう)のために大国の国司・受領は院の屋敷の作事に奉仕し、また豪華な方一町家を建設し、必要があれは院御所として献上できる体制を整えた。

平安鎌倉期の大規模荘園

院政期に国司・受領の人事権を失い、財力に陰りの出た摂関家は忠実の代に一族の女院などに分散されていた屋敷や荘園を自らの元に一本化し家政を維持する。一方で院も八条院領など女院領や、長講堂領など御願寺領の形をとって大規模荘園を立荘し、国衙領から自分の個人資産の切取・集積を始める。摂関家領は保元の乱による忠実、頼長親子の失脚により、頼長領が後白河のものになり、残る摂関家領は関白・藤原忠通の子・基実の若死にで妻方実家の平清盛に事実上横領され、平家の滅亡でそれが戻ったものの今度は摂関家自体が四分五裂し五摂家に。

国衙の消滅

そしてそれまで大寝殿造建設の財源だった国衙領からの国司・受領の利益、そして知行国からの収入と成功(じょうごう)は、鎌倉時代の地頭の進出により実入りは減りはしたものの、亀山殿の創立が『皇代記』建長7年(1255)10月27日条に「件御所両三年之間大炊御門大納言実雄賜讃岐国造進歟。頗天下経営云々」と書かれるように、鎌倉時代にはまだ十分な利益はあったらしい。しかしそれも、このあたりのまとまった研究があるのかどうかは知らないが、南北朝期にほとんど消滅したのだろう。

荘園の消滅

荘園を持っていても「下地中分」で収入は平安時代の半減。あるいは地頭の一円知行で その荘園からの収入が途絶えるなど、平安時代は元より、鎌倉時代よりも更に収入が減る。

室町期の公卿の屋敷

これまでに見てきた室町時代の寝殿は内裏とか室町将軍など、当時の最上級であって、公卿の屋敷はというと、応仁の乱を待つまでもなく、こういう状態であった。

  • 貞和4年(1348)中納言甘露寺藤長の邸は「中門も公卿座も不候」と言われ、
  • 応安元年( 1368)新中納言実綱の邸には中門を欠き、甚だ不具と言われる。
  • 永享7年(1435)関白二条持基(かと)の二条殿に寝殿が無くて将軍御所の小御所をもらいうけて寝殿に改作。
  • また嘉吉三年(1443)裏辻邸も寝殿が無くて、ただ廊だけ、つまり梁行一間か二間の建物だけだったということか。
  • 同じ嘉吉3年(1443)に、三条実量邸 の寝殿は「本式に非ず」と言われ、番衆所・車宿・中門廊を具えていたが、寝殿には高欄が無かった。「高欄が無いぐらい何だ、平安時代にだってそういう寝殿は沢山あったぞ」と思うが、三条実量の父は右大臣。本人も後には左大臣である。大臣家で寝殿に高欄が無いのは平安時代感覚ではあり得ない。更に殿上・公卿座を欠いていた。つまり二棟廊や侍廊まで無かったと。『年中行事絵巻』の下級貴族の屋敷みたいな感じ?

応仁の乱期の公卿の屋敷

寝殿造消滅の一番大きな、そして直接の原因は応仁の乱である。ここで寝殿造は滅びたとみても良いと思う。10年以上の京の戦乱で京の屋敷群は灰燼と化した。焼け出され、あるいは疎開した公卿達の住まいが『新訂・日本中世住宅の研究』のpp.539-540 にある。少しだけ上げると

  • 一条殿、「相国寺西、畠山陣屋二十五坪」 (『尋尊大僧正記』文明10年3月8日)
          南都仏地院の突起を除いて54坪だから25坪はその半分以下。
          本当に疎開先の仮住まいである。
  • 二条殿、「押小路烏丸西、小屋一宇新造移徒」(『宣胤卿記』文明21年12月24目、文明13年正月4日)
  • 九条殿、「非御旧跡、寺也」 (『宣胤卿記』文明13年正月4日)
  • 近衛殿、「僕、進藤長泰宿所借住」  (『長輿宿禰記』文明21年3月26日)
          進藤長泰なる者は近衛家の家僕らしい。 
          「新造移徒、カリ屋体也」 (『後知足院房嗣記』文明16年4月23日)
  • 四条殿、「隆量卿、濃州より上洛、借屋居住」 (『宣胤卿記』文明13年5月11日)

という有様である。乱の後、すぐさま屋敷を再建出来た例外は足利義政の正室・日野富子の 甥、日野政資邸ぐらいらしい。そんな借屋住で、有職故実な年中行事が出来る訳もなく、前のような屋敷を再建する財力は無く、かつ、10年前後仮住まいを続 けた結果、寝殿造で無いことにもなれてしまったのだろうか。「小屋一宇」とか「カリ屋体」から脱出し、ようやく屋敷を再建出来たとしても、非本式寝殿や常御所を主殿とした例がほとんどだろう。


初稿 2016.12.03