寝殿造 7.4.1   室町時代の足利将軍御所     2016.11.30 

はじめに

個々の将軍御所はこのあと詳細にみることとして、最初に鎌倉時代との比較で傾向をラフにつかんでおこう。

足利将軍の初代尊氏と二代足利義詮は南北朝の争乱のさなかで京に安住することが出来ず、かろうじて尊氏の鷹司東洞院殿や義詮の三条坊門殿が知られるが、その詳細は明らかでなく、伝尊氏邸図や伝義詮邸図の信頼性は極めて低い。おそらく後世の想像図だろうと云われる。三代将軍足利義満の北山殿は有名だが、判明する平面図は寝殿と小御所に限られ、寝殿造の時代比較としては足利義教の室町殿まで待たなければならない。

足利義教の屋敷・「室町殿御亭大饗指図」

室町時代の寝殿造として常に紹介されるのが足利義教の屋敷、「室町殿御亭大饗指図」から起こした「室町殿寝殿図」である。

足利将軍御所の寝殿造

そして誰もが指摘するのが正応元年(1288)10月27日の近衛殿大饗指図との類似性である。もちろん財力の違いで殿舎の大きさは異なるが、位置関係は全く変わらない。黄色が任大臣大饗で会場に使われたエリアである。

足利将軍御所の寝殿造

しかし似ているのは正門から寝殿までの殿舎、正門を潜ると右に随身所と車宿、左に殿上(侍廊)があり、それぞれ立蔀で隠されていて正面に中門、中門の北には中門廊があり、車寄戸から入り、北に向かうと公卿座(二棟廊)があって、寝殿につながるという処までである。実はこれが大臣家以上での寝殿造の礼向きワンセットであり、鎌倉時代はおろか平安時代から変わらない。公家社会の儀式はその範囲の中で行われる。室町将軍も大臣として公家社会の上位の一員である。

もちろん違う処はある。鎌倉時代の近衛家と比べたら、財力では室町将軍の方がずっと上なので寝殿の大きさなどに違いはあるが、寝殿はこのあと見ることにしてそれ以外でである。まず、公卿座(二棟廊)の位置が寝殿西面の中央に接続している。これは寝殿の大きさの違いということもあり、寝殿西面の南から数えれば共に二間ではあるのだが、基本的に二棟廊は寝殿の北側に接続していた。

近衛家では既に無くなっているが、鎌倉時代でも院御所には透渡殿があった。例えば二条高倉殿である。常磐井殿の第二期弘安元年(1279)にはまだ透渡殿があった。対代もあったが。院御所だけでなく、九条家の一条室町殿にも透渡殿はあった。

足利将軍御所の寝殿造

しかし院御所以外では九条家の一条室町殿を例外として、透渡殿は段々消えてゆく。例えば西園寺家今出川殿である。院御所の常磐井殿でも三期以降は透渡殿が無い。それでも今出川殿のように透渡殿が無くなっても二棟廊は寝殿の北側に接続していた。それが鎌倉時代後期から室町時代にかけては二棟廊が真横にくる。透渡殿の記憶が薄れてきたのだろうか。 

次ぎに鎌倉時代まで「二棟廊」と呼ばれていたものが「公卿座」と呼ばれるようになる。鎌倉時代までの二棟廊は、例えば鎌倉将軍御所のように、親王将軍の出居になって時宗や貞時の元服会場となったり、正妻ではないが妻子の住まいになったりもする寝殿北側の延長だった。文献的な根拠は無いが、そうした家族の住まいは小御所に、出居は会所となったのではなかろうか。

不勉強なだけかもしれないが、平安時代に「公卿座」と呼ばれる場所はあっただろうか。鎌倉の内裏や院御所では祗候する公卿の控え室だが、大臣家の寝殿造で公卿座はあまり聞かないような。そして室町時代の寝殿造は将軍家しか判らず、そこでは公卿が祗候する場ではなく、来客の公卿の控え室として記録に残る。鎌倉時代にもそういう用例は読んだ気がするが。

しかしその公家社会の儀式も寝殿では礼向きの庇、この場合は西礼であるので西庇と南庇であり、公家社会最大の儀式である任大臣大饗は正門からその南庇までの間で行われる。寝殿でも儀式の場は礼向きの庇と南庇、そして母屋であって、それはこれまで見てきた様々な仏事の道場にも現れている。例えば今出川殿での『門葉記』乾元2年(1303)閏4月の御産御祈修法の指図などである。そこまでは室町時代に到るまで変わらないが、しかし儀式ではなく日常の生活が営まれるエリアは大きく変わっている。それが寝殿では北側、ケ(褻)のスペースである。ケ(褻)のエリアなので仏事や儀式の指図にはなかなか描かれない。

足利義教の室町殿・寝殿

有職故実な南側

寝殿の間取りを見ると、平安時代と比べて建物の構造、屋根を支える構造が大きく変わっていることが読み取れる。確かに南半分は母屋・庇の構造だ、しかしそれは建物の構造、屋根を支える必要からではない。にもかかわらずそれが残っているのは、奈良時代から平安時代には大きな建物は母屋・庇の構造以外にはあり得なかった。その建物の中で培われた習慣が貴族社会の有職故実であり、儀式である。その儀式のために、ハレの場の南半分は母屋・庇の構造が残っていたのである。

 足利将軍御所の寝殿造

北側の進化

一方、有職故実な儀式には使われない北庇は、日常生活の場として変化しはじめる。というより、その変化は実は平安時代から始まっている。それが室礼の指図として残ったのが応保元年(1161年)12月。『山槐記』に二条天皇の中宮・藤原育子入内のときの飛香舎の室礼である。母屋と南庇に伝統的な帳と昼の御座が室礼てあるが、実際の生活の場はかつての塗籠の位置に障子帳と、南庇に昼の御座が常御所として設えてある。ただしそれはハードウエア、建物の構造としては、塗籠の位置の一部の壁が無くなった(指図ではそう見える)程度で、全ては障子帳も含めた室礼、ある意味ソフトウエアで済まされている。

鎌倉時代を経て、室町時代に到るとはっきりとした形を見せる。そのきっかけは建具の進歩だろう。実際の建物に普通に「寝殿」という言葉が使われたのは貞元3年 (978)山城国山田郷長解(平安遺文313)にある「三間四面寝殿一宇」。つまり10世紀後半である。文献初出が寛弘5年(1008年)の『源氏物語』 や同時代の日記などに遣戸障子が普通に出てくることから、寝殿造と遣戸障子はほぼ同時期に成立と見なせるが、しかし、かな文学や和歌がどれだけブームにな り浸透しようとも、公式文書は近世に到るまで漢文だったのと同じく、ハレの場、つまり儀式の室礼には遣戸障子は登場せずに、主にケの空間である寝殿の北側に使われていた。しかしその遣戸障子の発達、明障子(今の障子)の発明などによって、寝殿北側の様相を徐々に変えていく。

その現れのひとつは北庇と孫庇の一体化であり、それが鎌倉時代から進んでいたことは既に見た通りである。しかしそれはハードウエア、つまり建築の構造からすれば、孫庇と庇の間にあった下長押一段分の高さをなくすぐらいで、それほど大きなものではない。しかし室町時代の将軍御所の寝殿においてはそれが更に進み、この室町殿の寝殿に見るように、北庇は旧来の北庇に孫庇を加えた梁間二間ではなく、三間に増え、もはや北庇というより北半分という状態になっている。

表記法の変化

そしてもうひとつ。鎌倉時代までの北庇のスペース分割は可動性が高く、必要に応じていかようにも、という感じが強かった。つまりフレキシブルに仕切っても庇は庇、とでもいうような感じだったが、室町時代にはそれが固定化しはじめる。それがスペースの呼称にも現れる。上の平面図の北半分の呼称を見て欲しい。西から「六間」、「四間」、「九間」である。寝殿造で「間」は長さを表した。母屋は梁行二間がデフォルトで、例えば「三間四面」、「五間四面」の「三間」とかは母屋の桁行間数を表していた。「三間四面」と云えばそれだけで「ああ、小さい寝殿ね」。「五間四面」と云えば「大きい立派な寝殿」と話は通じたのである。。それに孫庇付と加えれば更に正確になる。ところがこの室町殿は違う。「九間」と云えば3×3、「六間」と云えば2×3、つまり面積、「坪」なのである。

更に云うなら、柱間寸法が実は判らない。平面図の作図は柱間一丈、約3m均一のつもりで描いているが、そうではない処もありそうである。平安時代も、同じ屋敷内でも実は柱間寸法は均一では無かったが、しかし平面図の作図では均一と見なしてもさして支障は無かった。ところが室町殿の公卿座の梁行柱間寸法は母屋の柱間寸法より広いようで、公卿座東の作合は寝殿北西の六間と半扉ひとつ分接しているようである。私はEXCELのセル単位で作図しているため上記の平面図ではそこに苦労した。義教の室町殿から更に時代が下がり、部屋に畳みを敷き詰めるのが標準になってくると、「一間(ひとま)」は現在の「一間(いっけん)」つまり6尺から6尺半に近づいてくる。そうなるともう書院造の時代への助走段階だが、この室町殿はかろうじてその前段階と云える。

架構の変化

初期の寝殿造は平面図からハードウエア、建築の構造が簡単に読めたが、それが読めなくなってきている。突然ハードウエアなどという言葉を使いだしたが簡単に補足しておこう。この平面図からは屋根を支える構造が旧来の寝殿造の、母屋と庇の側柱(かわばしら)と入側柱(いりかわばしら)の柱列で屋根を支えるという構造では無くなってきているということだ。それがどういう構造だったのかは判らない。なにしろこの時代に限らず、寝殿造はひとつとして残ってはいないのだから。


足利義満の北山殿・寝殿

当然ながら、そうした変化は急に現れるものではなく、鎌倉時代後期の寝殿にも徐々に現れ始めていた。『公衡公記』「御産愚記第四」延慶4年(1311)2月23日条から起こした常盤井殿・第4期のこの図である。

足利将軍御所の寝殿造

そしてその常盤井殿・第4期と足利義教の室町殿・寝殿を繋ぐものに足利義満の北山殿・寝殿がある。

足利将軍御所の寝殿造

足利義満の北山殿・寝殿

ただこの平面図にどいうも首を傾げる点がある。いや川上貢の復元図を信用しない訳ではなくて、南側が有職故実な母屋・庇の構造になっていないということだ。母屋南面の入側柱が無い。それとも南庇が無い? この推定復元図の原史料は『門葉記』にある二つの仏事の指図である。『門葉記』だと柱の省略はあるかもしれないが、しかし屋根を支える柱列の構造としては不自然さは無い。旧儀ではないが、新儀としてはむしろ素直である。屋根の小屋組もなんとなく想像出来る。そこではなくて、これでは任大臣大饗が出来ないではないかというのが私の疑問である。北山殿は郊外の山荘で、公式な屋敷は室町に持ち、更にこの北山には北殿と南殿があるので、ここで旧儀な儀式を考慮する必要は無かったのかもしれない。

まあ、柱があってもどうせ御簾を巻き上げて屏風を立て廻すのだからやれないことは無いが。

北山殿小寝殿

北山殿には他に小寝殿の指図も残り、そこから川上貢が復元したのがこの平面図である。公卿座の上、青い一間の東に一間が二つ伸びているが、これは仏事の為の仮設かもしれない。旧版の復元図にはこの部分は無かった。

足利将軍御所の寝殿造

先の北山殿寝殿の平面図と見比べると、同じにおいがする。小寝殿なのだからいよいよ旧儀な儀式を考慮する必要は無いのだろう。あくまで印象ベースだが、この小御所の平面図からは、後の時代の書院造の匂いさえしてくる。主殿造とはファジーな過渡期を示す用語に過ぎないし、これはこの屋敷の主殿ではないが、建築様式としては主殿造と云っても怒られないような気がする。

初稿 2016.11.25