寝殿造 7.4.2       足利義満の屋敷       2016.11.29

足利義満

足利義満(1358-1408)は室町幕府第3代将軍として尊氏の次ぎに名高い。
正平22年/貞治6年(1367年)12月7日に父・義詮が死に、義満が10歳で第3代将軍となる。幕政は管領細川頼之他足利一門の守護大名が主導。つまり室町幕府は有力守護大名の連合体であった。その性格は応仁の乱に到るまで基本的に変わらない。

この室町幕府の性格が、対面や遊興の場としての会所の発生につながっていく。

義満は徐々にそれら有力守護大名を押さえ、康暦元年(1379)、管領・細川頼之と対立する斯波義将土岐頼康らに邸を包囲されれたり(康暦の政変)、分裂して争う土岐氏の内紛につけ込んで土岐氏を討伐(土岐康行の乱)したり、明徳2年(1391)11か国の守護を兼ねて「六分一殿」と称された有力守護大名・山名氏清を挑発して挙兵させ討伐(明徳の乱)するなどして将軍権力を強化してゆく。

その間に、屋敷を三条坊門殿より室町殿に移す。
以降三条坊門殿は下屋敷、室町殿は上屋敷と呼ばれる。

永徳3年(1383)には武家として初めて源氏長者となり、准三后の宣下を受け、公武の一体化を推し進める。
南朝勢力が全国的に衰微したため、持明院統大覚寺統両統迭立などの和平案を南朝の後亀山天皇に提示し、後亀山が保持していた三種の神器を北朝の後小松天皇に渡させて南北朝統一を実現させる(明徳の和約)。応永元年(1394)、将軍職を嫡男の足利義持に譲るが、実権は握り続け、従一位太政大臣にまで昇進する。

応永2年(1395)、九州探題として独自の権力を持っていた今川貞世を罷免。応永6年(1399)、西国の有力大名・大内義弘を挑発して討伐(応永の乱)し、西日本の対抗勢力を排除する。

その一方で明との正式な通交を始め、明は義満を日本国王に冊封した。同時に明の大統暦が日本国王に授与され、両国の国交が正式に樹立された。

応永4年(1397)北山殿を造営。この時代の文化は北山文化と呼ばれる。

死後に朝廷から「太上法皇」の称号を贈られるが、4代将軍となった子の義持はこれを辞退。以下に見て行く屋敷の主人はこうした波瀾万丈の人生を歩んでいた。

室町殿

足利家三代目の将軍足利義満ははじめ父義詮の三条坊門邸に居住していたが、永和4年(1378)に北小路室町に屋敷を建てた。この屋敷が花御所、或いは室町殿と呼ばれた。それがのちに室町将軍とか室町時代と言われるその「室町」である。

「室町」の屋敷は一条室町殿に出てきたがそのあたりである。そのあたりではあるが、そこではない。北小路以北、柳原以南、今出川以西、室町以東の四至内であり、一条能保以来の一条殿は一条大路の北、武者小路の南であるが、室町時代の室町殿は武者小路の北である。

この近辺の地は西園寺家の本所邸宅今出川殿を中心にその一族子孫が集住していたところである。北小路室町には西園寺実兼の第四子兼季を始祖とする菊亭家公経の第四子実藤を始祖とする室町家の邸が隣接して設けられていた。実藤より五代目の季顕のときに、その室町殿は足利義詮に売却されて別業(上山荘)が経営された。季顕はその後室町を名乗るのを遠慮し、四辻を名乗る。

またその隣は菊亭と呼ばれ、光明院崇光院の仙洞御所に使わる当時の上層邸宅のひとつであった。貞治6年(1367)義詮が死んだあと上山荘は崇光院に進上されたが、永和3年(1377)に附近より火を発して院御をはじめとして、菊亭・柳原日野邸なども焼失する。災後、院御所等が再建されずに放置されていた義詮所縁の地に、義満は屋敷を建て、永和4年(1378)3月に移徙している。このとき、元の室町殿だけでなく、その周囲の菊亭跡も新亭の宅地に含めてしまった。旧室町殿と旧菊亭は南北隣り合わせであったらしい。菊亭跡地の南殿、下亭または下宿所が永和4年(1378)3月に完成。その翌年の』康暦元年7月8日に旧室町殿跡の北殿・北御所が完成して義満はそちらに移る。

北御所・南御所の両者を含めて建築施設の内容を具体的に知る資料は無い。ただ寝殿・中門・透渡殿・対屋・釣殿などと、寝殿内に台盤所・常御所・夜御殿・女房局などの諸室があったらしい。寝殿は応永2年(1395)正月7日の義満任太政大臣拝賀の記録によると、南庇五ケ間を賓筵装束しているので桁行五間の寝殿と考えられる。奥行間数、屋内平面については不明である。

そのほか、

  • 詳細不明ながら、寝殿東に東向小御所が記録に見える。『建内記』(「大日本史料」第七編-1)応永3年10月15日条「良賢為御読書始、参室町殿〔略〕、、被召東向小御所、宰相中将御出座」とある。
  • 『空華日用工夫略集』に「指月」の肩額を掲げた禅室と「勝音閣」と呼称される殿が見える。
  • 将軍邸の会所が初めて記録に表れる。『兼宣公記』 応永9年正月8日条に「抑太元法於御会所被行之、阿閣梨光覚云々」とある。同日の別の記録には「於室町殿北御所勤修云々」とあるので、会所は北御所にあったようである。

北山殿

金閣寺、北山文化で有名なあの「北山」である。鎌倉時代の章で西園寺公経が元仁元年(1224) 12月以降に開いた山荘北山殿を見てきたが、鎌倉後半期における有名な郊外別業であった。場所は現在の金閣寺という説明が一番判りやすい。

西園寺氏は代々関東申次として朝廷と鎌倉幕府とを中継することで権勢を誇ったが、鎌倉北条氏滅亡により力は衰える。更に最後の関東申次であった権大納言西園寺公宗が謀反の疑いで処刑さるなどあり、北山殿の維持も困難になり荒廃してゆく。しかし、南北朝の戦乱で洛内の大規模な寝殿造がほとんど失われる中では、郊外にあった北山殿はかつての名残をまだ留めていたようである。足利義満は応永4年(1397)に 西園寺氏から北山殿を入手したらしい。同年4月16日に寝殿の立柱上棟があり、翌応永5年(1398)4月に一応の竣工をみたようで、その当初から南と北の両御所があったようである。

足利義満の北山殿・寝殿

普通、寝殿の北側は判って梁行間数ぐらいなのだが、この推定図には北側も書かれている。実はこの北側を道場とした仏事があったからである。先に「これでは任大臣大饗が出来ないではないか」と書いたが、実はこの北山殿の建設を始める前に既に太政大臣となり、更に辞任して出家していた。出家は形式的なもので実権は握っていたが。

足利将軍御所の寝殿造

足利義満の北山殿・寝殿


北山殿小寝殿

北御所には北小御所もあり、応永8年5月21日に如法経の仏事道場となっている。『兼宣公記』によれば、応永10年6月21日に小御所で義満息義円の著袴の儀式が行なわれた。小寝殿は指図も残り、そこから川上貢が復元したのがこの平面図である。公卿座の上、青い一間の東に一間が二つ伸びているが、これは仏事の為の仮設かもしれない。旧版の復元図にはこの部分は無かった。

足利将軍御所の寝殿造

南面の蔀は川上貢の推定である。『兼宣公記』の同じ日の装束記事に、南面中央三ケ間には明障子がたてられていたとあるという。外仕切建具に明障子のみということはあり得ず、この頃では未だ南面柱間に遣戸を使用する例はみあたらないので蔀をたてたものと川上貢は推測する。私もそうだろうと思う。

殿上(侍廊)

また北御所には応永9年に梁間三間桁行七間の東西棟の殿上(侍廊)があった。南に小庭があり、西と南を屏で仕切り、東を壁で仕切っている。屋内は北側一間と南二間と仕切ったらしく、南側の西面に妻戸があった(p.348-349 注10)。西礼の寝殿造なので寝殿の東側だろう。通常侍廊は梁間二間で、東西棟を一間ずつ南北に仕切るのが平安時代から鎌倉時代までの通例であったが、このあとの足利義教の室町殿でも北より南が広い。


初稿 2016.11.25