wik9 寝殿造の進化・変化 |
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寝殿造の進化・変化太田静六の正規寝殿造と形骸期『家屋雑考』ベースの寝殿造を学び、それを乗り越えて大きく研究を発展させたのが太田静六である。まずその太田静六の到達点をまとめておく。 平安初期における邸宅建築の総括太田静六は平安文化興隆期の延喜時代(901-923)、おおよそ醍醐天皇の頃には、いわゆる寝殿造は完成しており、これが天暦時代(947-957)から村上天皇(在位946-967)の頃に一段と隆盛を極めたとする。例えば天徳元年(958)12月の菅原文時が『意見封事三箇条』を上白して奢侈を禁じることを望請しているがその冒頭に、
とあるように、村上天皇の天暦年間ともなれば高堂連閣を起し、貴賎共に住居を立派にしたと(太田静六1987、p.144)。そこから平安初期の後半、村上天皇の頃に寝殿造の形式が完成して「極盛期」に入ったとし、その好例を藤原師輔(909〜960)の東一条院とする。東一条院では東西両対に北対、東西両門から西中門までが確認される(太田静六1987、p.145)。ほぼその頃に成立と思われる『宇津保物語』「藤原の君」に源正頼の屋敷がこう書かれる。
「西の大殿」「東の大殿」は西対・東対で、「北の御方」は北対である。太田静六にとっての寝殿造の完成形、つまり「正規寝殿造」とはこの『宇津保物語』にみえるような、寝殿を中心として左右に東西両対屋、背後に北対を持つというものである(太田静六1987、p.144)。
太田静六は、東西の対屋は東西棟ではなく南北棟であること(太田静六1987、序文)、東西の中門廊の先にあるのは片や泉殿、片や釣殿ではないことなどを指摘しはたが(太田静六1987、pp.147-148)、基本的には『家屋雑考』の寝殿造のイメージのままだと後に藤田勝也に評される(後述)(藤田勝也2012、p.89)。 なお、太田静六は「平安初期の後半に寝殿造の形式が完成して極盛期に入った」と表現するが、太田静六にとってもそれは寝殿造最盛期の始まりであって、本当の最盛期は次ぎの段階である。太田静六の云う時代区分は平安時代の区分であって寝殿造の時代区分ではない。 平安盛期における寝殿造の総括平安盛期とは冷泉天皇〈967年即位〉から後冷泉天皇(退位1068)に至る8代約百年間を指す。その平安盛期における寝殿造の主なものとして、『小右記』の著者として有名な右大臣藤原実資の小野宮第、関白藤原兼家の二条京極第と東三条殿、関白藤原兼通の堀河殿、関白藤原教通の二条院などもあるが、中でも藤原道長の第二期土御門殿と藤原頼通の第二期高陽院を代表とする(太田静六1987、p.307)。そして左右対称が崩れる最初の兆候ともいえる対屋についてこう述べる。
ただ最盛期の後半になると一部には早くも変形を生じたものも見えるとする。例えば第二期高陽院や藤原実資の小野宮第は東対を欠き、東三条殿では西対を欠く。第二期高陽院については『栄花物語』の長久4年(1043)12月1日の記述に、
天喜元年(1053)8月20日より後冷泉天皇が半年近く高陽院を里内裏としたときの記事にはこうある。
太田静六の研究の集大成ともいわれる『寝殿造の研究』出版(1987)の少し前に、川本重雄が「正規寝殿造」に否定的な論文を書き、話題になっていた
(後述)(川本重雄1982)(川本重雄1983)。それに対して太田静六は、寝殿造とはあくまで左右対象で背後に北対を持つものが
「正規寝殿造」という姿勢を堅持する。
太田静六にとっての寝殿造とは大規模寝殿造である。なお藤原実資の小野宮第については太田静六の見落としであって、東西に対があることが吉田早苗により確認されている(後述)。 平安末期における寝殿造平安末期になると土御門殿や高陽院以下の諸第の焼失により、東三条殿が旧制をそのままに伝える唯一の存在となり(太田静六1987、p.313)、新築・再建された寝殿造では東西に対屋を持つ「正規寝殿造」は殆ど姿を消してしまう。そして対代とか対代廊が現れる。堀河殿は比較的よく平安末期における標準的な規模を持ち、西対屋は正規の対屋形式ではあるが東対は対代廊となる。 太田静六復元の堀河殿。『建築史図集(日本編)』(1964)より このような一方を対屋、他方を対代ないし対代廊とする形が平安末期の一流寝殿造の標準形式であるとする(太田静六1987、p.520)。なお、対屋と対代ないし対代廊との正確な区別は明確ではなく、当時でも同じものを対屋と呼ぶことも、対代・対代廊と呼ぶこともあるとしている(太田静六 1987、p.521)。ただし、既に引用したとおり、平安盛期には対代・対代廊という言葉は現れていないので対代ないし対代廊形式は原則的には用いられ なかったと見ている(太田静六1987、p.145)。このように左右対称が崩れることを太田静六は「漢民族が好む左右対称形を破ろうとする日本人的性格の現れ」とする(太田静六1987、p.309)。また「日本人は元来が左右対称形を好まないので」和風化がますます進んだ結果(太田静六1987、 pp.519)とも云う。この傾向がいよいよ強くなることが太田静六にとっての平安盛期と平安末期の違いである (太田静六1987、pp.519)。 平家時代における貴族の邸宅平家時代も平安末期なのだが、太田静六は平家時代を分ける。この時期に史料に残る寝殿造で、第一に上げられることは規模が小さいことで、屋地の多くは四分の一町程度、寝殿も三間四面というような小規模邸宅が主流を占めるようになる。従って寝殿に塗簡などはとれなくなり、次第に日本住宅における座敷的な場となってきたとする(太田静六1987、p644)。 三間四面の寝殿に塗簡がとれない訳ではない。塗簡は東三条殿でも寝室としては使われず、その外に帳台、あるいは帳代、障子帳が置かれる。それは平家時代以前からの傾向である(寝殿の内装(室礼) 参照)。 関白基房や関白基通の五条東洞院第(旧権大納言邦綱第)など、七間四面庇の大寝殿を持つ大邸宅であったが、 旧権大納言藤原邦綱第は高倉天皇の里内裏に用いられた。邦綱は大きな屋敷をいくつも持ち、そのひとつの土御門東洞院殿は後白河院の院御所になったり、六条天皇、高倉天皇の 里内裏になったりである。藤原邦綱の様な院近臣中級貴族は、受領歴任によって財を蓄え、それで建てた屋敷を仕える院や女院に提供するのが院近臣の役割であ る。それが摂関家の所有になっても、摂関家もまた里内裏や院や女院に提供する屋敷を用意になければならない。「好んで」などというものではない。 にも拘わらず大寝殿造の方は両関白とも余り用いることなく、基房が好んで用いたのは僅か四分の一町の松殿第であり、基通にしても五条東、洞院第は殆ど使わず、同じく四分の一町程度の六条堀川殿で、共に寝殿は三間四聞と最小規模の邸宅であった。ほかの諸第も小規模なもので、東西対屋は無論のこと対屋どころか対代ないし対代廊すら失われてきた(太田静六1987、p645)。 寝殿が公的ないし儀礼の空間で、後世における座敷の源流をなすのに対し、二棟廊は私的空間の色彩が濃厚となり、そこに一種の新形式が成立するようになったと云う(太田静六1987、p645)。寝殿は三間四面庇が一般的となり、寝殿の一方から二棟廊と透渡殿とが延びて中門廊に連なり、中門廊には中門が開かれる。そしてその要因をこう述べる。
藤田勝也の時代区分太田静六は戦前から寝殿造の研究に取り組み、『家屋雑考』ベースの寝殿造理解を乗り越えて研究を発展させたが、その太田静六の研究から出発した次ぎの世代は更に次の段階へと研究を進める。特に戦後、平城京や平安京の発掘が進み、寝殿造以前、あるいはその初期の遺構がいくつか明らかになる。その発掘成果を重視する一人が藤田勝也である。藤田勝也はその編著『日本建築史』(藤田勝也1999)で寝殿造の時代区分を、1.準備期、2 成立期、3 変質期、4 形骸期と分類する。 準備期寝殿造の準備期、あるいは成立前夜を藤原京の右京七条一坊、平城京左京三条二坊(長屋王邸跡)、平安京右京一条三坊九町(山城高校遺跡)、右京三条一坊六町(藤原良相邸)、平安京右京六条ー坊五町.(京都リサーチパーク遺跡)などとする。この準備期とは寝殿造の時代の前期ではなく、寝殿造以前という意味である。 このうち平安京の3例については、先の京都市埋蔵文化財研究所の「寝殿造成立前夜の貴族邸宅−右京の邸宅遺跡から」 というリーフレットが平面図をあげて簡潔に説明をしている。 成立期寝殿造の成立i時期は平安中期,摂関時代に相当する 10世紀中頃から11世紀初頭ごろまでと推定する。 10世紀中ごろからといううのはこの表に挙げたg)の藤原師輔・東一条第頃からということである。この時代は太田静六の云う「正規寝殿造」全盛期である。ただし藤田勝也はこの成立期について次のように書いている。引用文中の「寝殿造」を「正規寝殿造」に置き換えるとこの文の意図がよりはっきりする。
11世紀中頃再建の第五期東三条殿や、承暦4年 (1080)5月11日に白河天皇の里内裏 となった堀河殿などより前の大規模寝殿造で、柱単位の平面図が復元出来るようなものはひとつも無い。つまり堀河殿以前には対代でも対代廊でもない正規の対屋が左右に存在したことを証明する同時代史料は無い。堀口捨己が戦時中に語気強く否定しさった(後述)『家屋雑考』や、「本槐門図」などの江戸時代に「理想的な絵として観念的に描き出された素描」 (堀口捨己1943、p.32)しかない。藤田勝也は太田静六の「正規寝殿造」、つまり寝殿造の歴史には左右対称の時期があったという見方に関して2012年にはこう書く。
そこにある「評価」とは、太田静六に代表される先学の「評価」である。 変質期平安時代の院政期頃から鎌倉時代前期をさす。この時期に寝殿造が緩やかに、しかし際だった変化を示す。そしてこの時期は史料が増え、院御所や摂関邸はもとより一般公家邸から平家邸まで多くの事例が指図などにより復原されている。特に東三条殿(後述)は藤原氏の氏長者の本邸として様々な行事が行われ、その指図も沢山残る。そのため、復原図や儀式の様子が把握できる。 藤田勝也はその東三条殿について「寝殿造の代表例として間々紹介されるれこれが変質期に属すことは要注意」と云う(藤田勝也1999、p.132)。東三条殿も四期までなら時代的に「成立期」だが、復元模型などで一般に知られる長久4年(1043)再建以降の五期の、特に具体的な指図などの史料は12世紀、ここで云う「変質期」のものである。 承暦4年(1080)再建の堀河殿もこの「変質期」に属することになるが、まだ左右対称に近い。寝殿の北面に孫庇がある。寝殿の北東に二棟廊(渡廊)がある。敷地は南北に2町の堂々たる屋敷である。しかしそれでも左右対称ではない。西対は塗籠も孫庇も弘庇もあるが、東は梁間2間の東対代廊で、侍所廊も随身所もない。中門の位置も違い北を向いて開く。『中右記』の著者・藤原宗忠が「如法一町家」と呼んだものは太田静六の云うようにこの変質期に属する。 形骸期この時期について藤田勝也は次のように述べる。
そしてこれは「あくまで寝殿造からの視点にもとづくもの」で、中世はまた新たな住空間の創出,展開の時代であったとする(藤田勝也1999、p.132)。主殿造から書院造への流れのことである。しかし藤田は上記引用部分について後にこう保留している。
都市の成熟と里内裏藤田勝也は2005年の論文で平安京の変容を総括し、10世紀は左京への人口集中の開始期にあたり、上級貴族邸宅の都市性獲得の第一歩を踏み出した時期に相当するという(藤田勝也2005 、pp.29-30)。具体的には(1)右京の衰退、(2)左京の四条以北の過密化、(3)左京の東、次いで北への市街地拡大、(4)左京南北の地価の格差拡大があり、特に(1)(2)が重要という(藤田勝也2005、p.20)。上島享は平安遷都以来170年ものあいだ火災に無縁だった内裏が960年の焼亡以降、100年たらずの間に10回以上焼亡を繰り返すことから、これ以降の時代を「火災の時代」と呼ぶが(上島享2006、p.17)、その背景には「公事の夜儀化」と同時に左京北半分への人家密集、即ち火の元密集もある。 11世紀後半以降は平安京が一層の都市的進展を遂げる時期で、まず大路・小路という階級的秩序の崩壊がある。現在よく知られる大路・小路名は10世紀に遡るが、条坊呼称の消滅は12世紀頃である。そして官設の東市・西市に替わる商業街としての町の成立が見られた。大路・小路の耕地化、宅地化が定着するのも院政期、12世紀初頭という(藤田勝也2005、p.25)。この11世紀後半以降は寝殿造にとっては変質期に相当し、寝殿造は都市性獲得の大二段階を迎える(藤田勝也2005 、pp.29-30)。 藤田勝也は寝殿造への内裏の影響を重視する一人だが、内裏不在、つまり里内裏の時代も一期と二期に分けられる。 一期は10世紀後半から11世紀前半で、この間は内裏は被災するとただちに再建に取りかかられる。二期は11世紀後半からで、内裏不在が日常化する(藤田勝也2005 、pp.27-29)。例えば960年の最初の内裏焼亡以来1082年まで14回の内裏焼亡があるが、1001年の焼亡までは2年以内に新造内裏への遷幸(移徙)が行われている。 ところが寛弘2年(1005)の内裏焼亡のときは、内裏再建は1年強で終わっているにも関わらず里内裏から戻らず、寛弘5年(1008)の5〜6月頃に一旦新造内裏に入ったが、1年も経たぬ翌年4月以前にまた里内裏の一条院に戻っており、内裏が再建されしだいそちらに戻るという慣例がくずれる(橋本義彦1987、pp.21-22)。永承3年(1048)11月の焼亡後、内裏は再建されたが、未使用のまま天喜6年(1058)2月に焼亡した(上島享2006、p.16)(橋本義彦1987、p.23)。1058年の焼亡後の新造内裏への遷幸(移徙)は1071年、実に13年後である(上島享2006、p.16)。鳥羽天皇は僅か5歳で即位したが、大嘗会など儀式があるときのみ内裏に遷幸(移徙)し、常住の御所は里内裏だった。太田博太郎は9世紀から12世紀までの内裏の使用期間をこうまとめた。
太田博太郎は「内裏のようにつくりなして、内(内裏)いでくるまではおはしまさせんと急がせ給いなりけり」という堀河殿(栄花物語・上、p.75)を始め、枇杷殿、高陽院など、里内裏にするために内裏のように作った例も多く、寝殿造は里内裏がその発展の一因となったことは否めないと云い(太田博太郎1962、p.191)、橋本義彦もこう書く。
今日知られる比較的詳細な復元図の描ける寝殿造は、平安時代においてもそういた後期の時代のものである。なお、内裏は安貞元年(1227)の焼失を最後に再建されることは無くなった。 川本重雄・儀式の歴史的変遷寝殿造は儀式用の邸宅寝殿造の庭というと、池・釣殿・中島・植栽などの雅趣に富んだ庭園をイメージしてしまうが、実際には拝礼などの庭儀を行うための空間を中心として庭は作らていると川本重雄は云う(川本重雄2012、p.3)。寝殿の南面が開放的であるのは建具を開け放てば、寝殿造の内部空間は外に向かって側めて開放的的な空間となり、庭儀を行う南庭と連続したひとつの空間になる(川本重雄2012、p.5)。 太田静六は寝殿造が開放的であるのは日本の夏の蒸し暑い風土との関係で説明しているが(太田静六1987、p.23)、ここまで開放的な建物は同じ様に蒸し暑い諸外国にもなく、日本でも内裏と貴族住宅だけである。現に『年中行事絵巻』に出てくる京の町屋や、様々な絵巻に描かれる地方の農家なども壁と窓に囲まれた家である。遺構では日本最古と推定される民家の一つ箱木千年家も閉鎖的な建物である。 そして川本重雄はその祖型を大宰府都府楼正殿平面と春日神社着到殿の近似性にもとめ、それと『年中行事絵巻』に描かれる東三条殿での正月大饗との共通項、つまり庭と一体となった宴・儀式を強調する(川本重雄2012、p.12)。そして鳥居障子を例にあげながらこう書く。
接客空間の変化川本重雄は1987年の『古代文化-特集/寝殿造研究の現状と課題』(第39巻11号)に「寝殿造の歴史像」という論文を発表した(川本重雄1987、pp.39-50)。そこではまず山城高校遺跡(平安京右京一条三坊九町遺跡)について触れ、中国の影響をより強く受けているはずの平安初期の遺跡が左右非対称であったことを指摘する。配置は一見シンメトリーなのだが、東西の脇殿(対屋)の大きさは後に対代とか対代廊と呼ばれた形で、かつ左右対称ではない。桁行は全て五間だが梁間は西が三間、東は二間である。そのことから左右対称を「正規寝殿造」とし、それが崩れる過程、寝殿造の非対称化の過程を変質、衰退と見る従来の寝殿造観(川本重雄はそれを「一元的寝殿造観」または「形態史的歴史観」と呼ぶ)は成り立たないのではないかとする。 既に紹介したように太田静六は大陸風左右対称の三合院・四合院を祖型とする貴族邸宅があって、それに神泉苑のような池が加わったものが最初の国風化で「正規寝殿造」。それが崩れる過程、寝殿造の非対称化の過程を変質とし、その原因は「漢民族が好む左右対称形を破ろうとする日本人的性格の現れ」(太田静六1987、p.309)。また「日本人は元来が左右対称形を好まないので」和風化はますます進んだ結果(太田静六1987、pp.519)と云う。 しかし山城高校遺跡に限らず、これまでの発掘調査からは、
太田静六が平安時代末とした左右対称を破る国風化は平安時代初期の貴族邸宅において既に始まっていたか、ないしは内裏と官衙以外、日本には定着しなかった、というこ
とになる。川本重雄は「左右対称から非対称へという図式は寝殿造の歴史全体を語る指標となりえない(川本重雄1987、p.40)」として、文化人類学者・石毛直道の「人間の住居と動物の住居のちがいのひとつは、人間の住居は客を招じいれる設備でもある(石毛直道1971、p.5、その意味はp.240-246、pp.256-271)」。という指摘を引用しつつこう書く。
そして寝殿造の変化をムード的な「国風化」「日本人気質の表れ」などからではなく、「接客」の変化から考察する。貴族社会での「接客」は公式なものとしては「大饗」「臨時客」などの儀式にあらわれる。そしてそれらを分析しながら、「接客」での「もてなす場」、「もてなす相手」の変化に、社会構造の変化を読み取ろうとする。 正月大饗(律令時代)最初に比較を行ったのは『九条殿記』天慶8年(945)正月5日条の右大臣藤原実頼が小野宮で開いた正月大饗の記録と、平安時代末の仁平2年(1152)正月26日に,左大臣藤原頼長が東三条殿で聞いた正月大饗である。 藤原頼長の頃には通常の正月は、大饗に変わって臨時客が開かれるようになっていたが、大臣になった次の正月だけは正月大饗を主催した。 まず招待客とその席を見ると、天慶8年(945)の小野宮での正月大饗では、主賓たる尊者(通常他の大臣)・大納言・中納言・参議が寝殿・母屋。弁・少納言が寝殿・西庇、外記・史が西対・東庇。史生が池の中島の幌舎である。 大臣から史生までかなりの位階の差はあるが、全て太政官である。親王と一世源氏の席はあるが現役の太政官以外は官位が高くとも招かれてはいない。毎年正月大饗が開かれていた頃だからこれが本来の姿である(川本重雄1987、p.43)。 それに対して平安時代末の仁平2年(1152)の場合は、主賓たる尊者(通常他の大臣)・大納言・中納言・参議が寝殿・母屋、弁・少納言が寝殿・西庇までは変わらない。ただ親王と一世源氏は室礼としてはその席は用意されているが、列席はしていない。外記・史は西対・東庇ではなく西北渡廊になっている。 ただしこれは東三条殿に西対が無いからで、時代的な変化ではない。 史生が池の中島の幌舎というのは同じである。つまり正月大饗とは太政官の長が太政官府の部下を招く饗宴であることには平安中期も平安末期も変わらない。 しかしひとつだけ大きく違うところがある。平安時代末の仁平2年(1152)の場合、殿上人座とか諸大夫の座が設けられていることである。これは貴族社会の変化とみて良いが、ただしその席は外記・史などより遠くに、南庭が見えない場所に隔離され、それによって大饗の有職故実を維持している(川本重雄1987、p.43)。 臨時客(摂関時代)大饗においても貴族社会の構造の変化が若干見られたが、それがもっとはっきりと判るのは、かつての正月大饗の代わりに開催されるようになった臨時客である。 正月大饗は摂関期以降は新たに大臣となった者が、その次の年の正月に開くだけになる。つまり数年に一度10数年に一度である。 そこでの招待客は大臣を含む公卿と殿上人であり、大饗のような太政官の官人ではない。 もちろん公卿は太政官の「かみ」と「すけ」であるが。 その会場は対に移る。 川本重雄は大饗を律令制下の饗宴、臨時客など対屋で行われるものを摂関時代の饗宴としている。律令官制に基づく序列から公卿・殿上人・諸大夫の三階層の序列に変化した理由を川本重雄は佐藤進一が『日本の中世国家』(佐藤進一1983)で述べた「官司請負制」に求める(川本重雄1987、p.45)。これは律令国家体制から王朝国家体制への変化を象徴する極めて大きな貴族社会の、そして在地までも含めた社会そのものの変容である。 その摂関時代の饗宴が対屋を会場としたのは「寝殿が律令時代の接客空間として官位の秩序によって穆着し、新しい秩序を受容できなかった(川本重雄1987、p.46)」からで、「対屋こそが貴族住宅の中核になった(川本重雄1987、p.46)」とする。 そのような儀式饗宴会場としての対屋は東西どちらでも良いということではない。寝殿造には「ハレ」(晴)と「ケ」(褻)、「西礼の家」と「東礼の家」というものがある。実はこれだけで既に左右対称ではない。例えば西を大路、東を小路で挟まれた屋敷では、通常は西の大路側に正門を開く。大臣家であれば西に四脚門、東に棟門となり、これが「西礼の家」である。儀式饗宴会場としての対屋は「西礼の家」であれば寝殿の西側である。川本重雄はこう書く。
山城高校遺跡のような梁行の小さい東西の脇殿が、太田静六の「正規寝殿造」のイメージのような、角度以外は寝殿と変わらないような規模にまで発展したのはおよそ藤原兼家・藤原道長の頃である。藤原兼家は、東三条殿の西対を内裏の清涼殿風に設えて非難を受けたが(大鏡、p.167)、「内裏の清涼殿風に」とは梁行五間ぐらいに西対を建てたのだろうとする。同時にそれは寝殿の脇役であった脇殿が、新しい儀式空間である「対」と、そうでない脇殿、つまり「対代」や「対代廊」への分化した時期でもあったとする。内裏で云えば清涼殿と綾綺殿のようなものだ。そして平安盛期における「正規寝殿造」の代表とされる寛仁2年(1018)の第二期土御門殿の段階から、寝殿造は左右非対称であったのではないかとする(川本重雄1983)。 つまり先に引用した太田静六が「平安末期に多くみられるような対代ないし対代廊形式は、原則的には未だ用いられなかった(太田静六1987、p.145)」とした点は、「対」は未だ寝殿の脇役としての脇殿であり、新しい儀式空間である「対」とそうでない「対」つまり「対代」との差別化が生まれていなかったのだろうとする。 なお、臨時客を対で行ったのは最盛期の話であって、儀式用とも云われるような大規模寝殿造が消えてゆく過程においては摂関家と云えども日常住まう屋敷には対代廊しかなく、正月の臨時客を寝殿で開くこともあった。(川本重雄2012、pp.129-131)(後述) 院政期摂関時代から院政期に入ると国政も貴族の人事権も摂関家から「治天の君」たる院に代わり、貴族社会自体がまた大きく変わる。川本重雄はこう書く。
殿上廊とはそれまで侍廊と呼ばれていたものである。院に近侍する者は殿上人なので、侍廊は殿上廊と呼ばれる。九条兼実の『玉葉』に承安2年(1172)の議定に関する記事がある。
「殿上」「院殿上」とあるのが殿上廊のこと。「上達部座」とは「公卿座」であり、この頃以降鎌倉時代の内裏や院御所でも良く使われる。法住寺殿が後白河法皇の院御所であり、寝殿の他に東小寝殿、北対、西寝殿まである大規模寝殿造であるが、正門側にも関わらず九条兼実は「対」ではなく「対代」と呼んでいる。対代とは云っても、『兵範記』(兵範記、仁安3年8月4日条)、及び川本重雄の復元図(川本重雄2012、p.215)によれば、梁行四間、桁行は十間、太田静六の復元図(太田静六1987、p.592)でも梁行四間、桁行七間もある巨大な建物である。なおこの九条兼実が「対代」と呼んだ建物は『年中行事絵巻』「朝観行幸」に描かれており、そのひとつには「西対」と記入がある(年中行事絵巻、p.7下段、p.11上段)。太田静六が「同じものを対屋と呼ぶことも、対代・対代廊と呼ぶこともある(太田静六1987、p.521)」という実例である。 従来は、対代は対の縮小化で、更にそれすら消滅することを、寝殿造の小規模化・衰退とされてきたが、川本重雄はむしろ対屋と殿上廊の役割の転換と考えるべきだとする。つまり、摂関時代の対屋中心の接客文化は、院政期の政治・社会との間に矛盾を引き起こして衰微し、代わって殿上廊中心の新しい接客文化が発展したとする(川本重雄1987、p.47)。 なお先の『玉葉』承安2年(1172)12月2日条は殿上廊での議定の記事であるが、「朝観行幸」などのおりの公卿達への饗応の場にも使われる。ただ殿上廊には使いにくい処があった。上皇の座が無いのである。従って饗応は公卿達だけ、「禄」を受け取るのは殿上廊から寝殿前の南庭に出なければならない。ならば寝殿なり対代なりでやれば良いではないかと思うが、それらは大饗や臨時客の有職故実で固まっていて使えない。実は寝殿の簀子や南庭で「禄」を受け取るのも律令的な社会秩序、有職故実が復活してくる。川本重雄はそれを解決する方法が弘御所であろうとする(川本重雄1987、p.48)。 川本重雄によれば、寝殿造は「正規寝殿造」として花開いたあと、段々に変質・衰退してくのではなく、そこに住む者の社会関係の変容に合わせて生きていたのであり、寝殿造の歴史、そして住宅の歴史を形づくってきた最大の要因は、家族・居住ではなくて、社会つまり接客・儀式という点にあるということを最後に強調している(川本重雄、1987、p.49)。 飯淵康一の寝殿造の変遷川本重雄は当時寝殿造の第一人者と目されていた太田静六を意識してその論を展開したが、飯淵康一はその川本重雄の主張に反論し、建築学会でも討論を行っている。川本重雄に関して紹介した『古代文化』は1987年の「寝殿造研究の現状と課題」と題た特集で、稲垣栄三が「寝殿造研究の展望」を書き、先の川本重雄と、論戦相手の飯淵康一がそれぞれの論点をまとめたものである。飯淵康一はまず太田静六と川本重雄の論点を以下のように要約する。 まず太田静六の説は寝殿造は平安初期から盛期にかけ左右対称的型式を保っていたが、平安末期にかけて次第に東西のうち一方の対屋が、さらには残された側の対屋も失われる過程としたと要約する。いわゆる衰退論である。 川本重雄の主張は、一方が対屋、他方が対代(廊)と記されることから左右非対称型の住宅であったこと。しかも時代を遡って道長時代でも同様の構成が見られるから、このような型式はむしろ寝殿造の典型(完成)像である。そして、左右非対称化の要因を貴族社会の儀式の変化に求め、それが新しい儀式饗宴会場となった対屋の規模の拡大化に結びつくものとした、と要約する(飯淵康一1987、p.28)。 それに対して飯淵康一は、寝殿造の初期から『中右記』にある「如法一町家」に至る過程が具体的に捉えられていない、換言すれば、東西両対屋の規模が示きれずにきたことが混乱の最大の原因とする(飯淵康一1987、p.29) 東西両対屋の梁行規模に着目すると、発生期と完成期とでは対屋の孫庇の有無という点で大きく異っているが、寝殿造はその間も、つまり『中右記』にある「如法一町家」の段階でもほぼ左右対称型を保ってきたこと。孫庇が独自に儀式空間として用いられる例は極めて稀で、孫庇の発生要因として儀式をとり上げる積極的理由は見出せない。従って儀式的必要性により規模が変化したと考えるよりは、儀式空間は住宅規模及びその時の状況に従い柔軟に展開されてきたとみるべきであると結ぶ(飯淵康一1987、p.34)。 それに対して川本重雄は「対屋の規模からみた寝殿造の変遷について"に対する討論(川本重雄1984)」で、飯淵論文の東西対の規模推定方法問題、特に飯淵が左右対象であるとした「如法一町家」三条烏丸殿については、その東対代の母屋梁行が二問あるのに対し、西対代廊のそれは一間で、両者には形態上大きな差があり、とうてい左右対称とはいえないと反論し、その論争は1988年まで続いている(川本重雄1988)。先の「対屋」のまとめは、ここに紹介した1982年以来1988年までの数年にわたる川本重雄と飯淵康一の議論の中で発展したものである。 左右対称性と「如法一町屋」寝殿造の左右対称性については、前述の議論以前から論点となっている。 関野克川本重雄と飯淵康一の論争のはるか昔、『日本住宅小史』(1942)の中で関野克は次のように述べる。
「標準寝殿造の配置」という言葉は使うが、それは「大陸的配置のもつ超現実性に憧憶」「形式主義」であって、それが本来の寝殿造というようなニュアンスは無い。関野克の『日本住宅小史』での寝殿造は大化の改新以降鎌倉時代までの「公家住宅」の変化の過程であって、平安末期の変化も、太田静六の云うような衰退ではなく、大陸的配置に憧憶を懐き、無批判的に取入れるていた平安時代公家の住宅も漸く形式主義から 離脱しつつあった(関野克1942、p.73)と評価する。 堀口捨己堀口捨己は昭和18年、第二次大戦中に提出した学位論文の中でこう指摘する(堀口捨己1943、pp.29-32)。 平安時代後期の御物聖徳太子絵伝の中に現われる宮殿は平安時代の宮殿の姿で表わされていると考えられるが、そ の中には一つとして左右相称のものはない。宇治平等院鳳風堂の扉絵にも平安時代の住宅があるが、この中にも『家屋雑考』のようなものは出てこない。閑院内裏図として大規模な左右対称の里内裏の図が伝えられているが、これらが一つの理想的な宮殿の絵となって、寝殿造りの絵も出来てきたのではないか。『家屋雑考』の中に寝殿造古図として載せている平面図や、「九条家本槐門」(槐門:かいもんとは大臣家の意)として伝 えられる左右対称な図は、いずれも理想的な絵として観念的に描き出された素描であろうととしてこう書く。
そして規模の小さな、寝殿だけのような屋敷は特殊なものとなり、鎌倉時代の武家の邸宅は寝殿造りの中に入らないことになってしまう。そのために武家造りのような一つの様式を別に考え出さざるをえないような結果となった。こ れは家屋雑考の寝殿造りの定義が当を得てないために起ったのであって、何もそのまま踏襲する必要はないとして、寝殿造の定義についてこう書いている。
そしてその共通な性質を13点あげる。その一部をあげると次のようなものである。
その他は(7)部屋の間取りは比較的簡単で、間仕切は固定しない場合もある。(9)板敷で、所々に置畳。(13)庇の外に賛子〈縁)、などである。左右対称がないばかりか池も釣殿もない(堀口捨己1943、pp.33-35)。ただし堀口捨己には書院造との比較が主眼で、奈良時代の唐風建築や、町屋、農家との違いを示す項目は無い。強いて云えば(13)の賛子〈縁)ぐらいか。当時の町屋、農家にこれはない。 太田博太郎『中右記』の「如法一町屋」を寝殿造の特徴として最初に取り上げたのは太田博太郎である。太田は前述の堀口捨己の論を引用して紹介しながら、たしかに一般的に、ある様式の定義をするとすれば、堀口捨己の云うように、その様式に属すると思われる一群の建物のなかから、共通的な特色を抜き出して列挙するよりしかたがないとする。ただし、もし当時の寝殿造の理想形なり、基本形が、かなり広くの人に認められていたとしたらどうだろうという(太田博太郎1972、p.96)。そしてその「当時の寝殿造の理想形なり、基本形」として取り上げたのが藤原宗忠の『中右記』である。白河法皇に仕えた藤原宗忠の『中右記』1104年(長治1)11月28日条にこうある。
なおここは元藤原基忠の屋敷であった大炊御門(おおいのみかど)北東洞院西で、白河上皇御所となり、のちに1112年(天永3)まで鳥羽天皇の内裏となる。その後、その東隣の大炊御門北東洞院東が鳥羽天皇の里内裏となる。 ただし「件御所如法一町之家也」に特別な意味付与をしたのはあくまで太田博太郎であって藤原宗忠ではない。下線部分を読み下すとこうなる。「くだんの御所は、法(のり)の如く、一町の家なり」、意訳は「この御所は律令の定めた最上級の屋敷、方一町、つまり120m四方の屋敷である(諸大夫如きにまで許された1/2町とか1/4町ではない)」となる。建てているのは伊与守源国明だが、源国明邸としてではなく院御所として建設している。源国明邸なら「寝殿造の規模」で触れたように、『小右記』長元3年6月28日条にあるように「不法」であるが、院御所や里内裏ならば、方一町の屋敷は当然そうであるべき「法」である。 如法一町家を左右対称としたのは院近臣である藤原基隆の三条烏丸第の評である。
読み下すと「是は播磨守基隆朝臣の作る所なり、法(のり)の如く一町の家、左右に対・中門などを相備えるなり」、意訳は「これは院のために播謄守基隆が建てたものである。律令の定めた最上級の屋敷、方一町、つまり120m四方の屋敷である(諸大夫如きにまで許された1/2町とか1/4町ではない)。左右に対と中門などを備えている」となる。普通にその屋敷を描写しているだけである。それに実は西対は対代廊であった。なお、播磨守藤原基隆はこのとき正四位下で昇殿を許された殿上人・院近臣ながら位階では未だ諸大夫である。前述の通り播謄守基隆邸なら「不法」である。 もっともこの時代にはそういう不法は沢山あるが。 太田博太郎はこれを、『中右記』には「東西の対、東西中門を有する如法一町家」という言葉があって、東西対と東西中門を有するのが定まりであったとか(太田博太郎1962、p.192)、方一町が寝殿造りの基本で、東西の対、東西の中門が法の如き一町の作り(太田博太郎1972、pp.96-97)と書いているが相当な意訳である。ただ、太田博太郎は、寝殿造の解りやすい説明の仕方として『中右記』の「如法一町屋」を取り上げているのであって、寝殿造の定義としてではない。
太田博太郎の発想は、これを基本形として説明するのが一番分りやすくはないだろうかというものである。「方一町」にも「左右対称」にもそれほど強く執着している訳ではない。藤原宗忠が「件御所如法一町之家也」と何ヶ所かで賞賛した屋敷は、厳密には「左右対称」では無かったことは川本重雄により指摘されているが、太田博太郎も「多少の矛盾」が生じることはきちんと意識している。 「左右対称」に最も拘っていた太田静六も
と、「如法一町之家」は「左右対称」の「正規寝殿造」ではないとしている。太田静六が「左右対称」に拘るのは院政期ではなく摂関期である。 稲垣栄三稲垣栄三は神社建築史の方で有名だが、稲垣栄三著作集(全7巻)の内に寝殿造についての論考を3巻の冒頭に38ページ残している。その中の「生活空間としての寝殿造」において稲垣は、11世紀初頭、藤原氏が全盛期をむかえたころの寝殿造で、平面図を復原できるものは一つもないが、標準形は左右対称の配置であったろうとする(稲垣栄三2007、pp.27-28)。しかし稲垣の云う左右対称の配置は太田静六の「正規寝殿造」とはだいぶ違い、こう書く。
寝殿造には東西に対を完備するという形で厳密な左右対称を維持しなければならない理由は見いだしがたく、もっとも理解しやすい解釈は、そこにモニユメンタルな性格を与えようとしたからではないかとする(稲垣栄三2007、p.28)。公家の邸宅は単なる日常的な居住のほかに、平安中期ごろからは儀式場としての役割を要求されるようになり、寝殿を中心とする配置の形式は、内裏における紫震殿を中心とした一郭をモデルとして成立したのであろうという推定も、儀式を中間項とすることによっていっそう強い可能性を帯びてくるという(稲垣栄三2007、p.29)。 儀式が形を決めたとは言いがたいが(稲垣栄三2007、p.30)、日常生活にはほとんど不必要といってよい透渡殿や中門廊などをなぜ付加したかは、儀式の遂行に不可欠という事があってはじめて納得できる。だから東三条殿のように対の一方を欠いたとしても、透渡殿に西の透殿、東の中門廊が庭の左右の視角を仕切ってい
れば、標準形のもっていた意図を貫くことができたのではないか。行事の際に必要な広場としての庭とを、一つの限定された空間として囲うために、中門廊や透廊が左右に延びる必要があったのではないかとする(稲垣栄三2007、p.32)。藤田勝也もこの説に同調している。
十三世紀の寝殿造の多くはすでに左右対称ではなくなっているが、それは左右対称の理念が崩れたのではなく、建物と庭とが一体となったところに展開した貴族の優雅な生活が崩壊したのであると書く。(稲垣栄三2007、p.33)。 吉田早苗の小野宮第(純嫡取婚期の対)吉田早苗の問題意識建築史家ではなく歴史学者なのだが、吉田早苗(当時、東大史料編纂所所員、後教授)は藤原実資の小野宮第についての考察を発表した。その問題意識は次の部分に要約されている。
寝殿造に関わる史料は通常「ハレ」の儀式を中心としてしか残らないという史料的制約がある。そのため寝殿の平面に関しても母屋から南側は良く残るが、北側はほとんど判らない。希に出産に関わる室礼、移徙に関わる室礼の指図、例えば『類衆雑要抄』に引く永久3年(1115)7月21日の関白藤原忠実が東三条殿に移徒したときの室礼 それに対して吉田早苗は藤原実資の『小右記』を詳細に調べることによって別の視点を提示した。藤原実資は平安中期(957〜1046)に生きた最上流の公卿の一人であり、摂関家の九条流とは流れが異なってはいたが富有で有能の聞こえも高く、右大臣として道長、頼通を支えた当時の代表的な貴族である。その小野宮第は当時から名第として評判が高かった。そして『小右記』という詳細な日記を残している。吉田早苗はその『小右記』を丹念に調べた。 屋地の構成・屋敷の構成小野宮の本第は大炊御門南・烏丸西の方一町で、その四方の通りをはさんで東西南北の土地も保有していた(吉田早苗1987、pp.222-223)。それぞれが方一町なら藤原実資は五町の屋地を保有していたことになるが、少なくとも南と東は新邸の候補地となっているので方一町かと思われる。西と北が半町でも合計すると四町は持っていたことになる。北宅は実資の甥で養子の藤原資平に譲られ、西宅は「侍従宅」とあり、吉田早苗はこの「侍従」はやはり実資の甥の藤原経任ではないかとする(吉田早苗1977、pp.236-238)。そして東町には実資の従者達が住んでいる。 屋敷の構成は寝殿と東西の対屋、そして北対、南東に念誦堂である。太田静六は念誦堂とは別に配置図にも小御堂を書き(太田静六1987、p.216)、吉田早苗も1977年に『日本歴史』350号に発表そたときには南西の小堂も想定していたが、1987年に『平安京の邸第』に再録されたときには「付記」で修正している。活字本の『小右記』に「西山小堂」とある箇所を古写本(宮内庁書陵部所蔵伏見宮本)によって確認したところ、「面山小堂西并北方有池」であり、翻刻の誤りで「小堂」とは念誦堂のことだったとする(吉田早苗1977、pp.243-244)(古文書では面と西は非常に解りにくい。写本でも写し間違いとしか思えないものがある。)。小野宮第は庭が優れていることで有名で、中島のある大きな池もあるが、釣殿や泉殿は無い。池の畔の三間四面の念誦堂がその代わりに用いられることはあるが、その念誦堂は廊では繋がってはいない。 小野宮第の儀式小野宮第で行なわれた儀式を見ると、公的なもので賀茂祭使の出立及び還立。右大臣に任ぜられたことによる治安元年(1021)7月25日の任大臣大饗、上表、勧学院歩、翌年の正月大饗など。これらは大臣になったときのワンセットである。実資は太政大臣になっていないのでこの一回だけである。摂関家ではないので臨時客は行われていないようである。 それ以外は一族の子弟のための儀式の場を提供したもので、公式のものとしては、治安3年(1023)4月の藤原資房(実資の養子・藤原資平の子)の賀茂祭使出立・還立とその饗、長元8年(1035)4月のやはり賀茂祭使の儀式などがあげられる。私的な儀式は長和2年(1013)正月の藤原資高(実資の甥・養子)の元服、寛仁3年(1019)10月の実資の甥・藤原経通の一男である藤原経仲の元服、同経通の二男で実資の養子・藤原経季 、経通の三男・藤原経平の著袴、万寿元年(1024)12月の娘・千古の着裳などである。『小右記』は約50年近い日記だが、儀式は非常に少ない。小野宮第は西に四脚門 を持つ西礼の家なので、これらは全て西対で行われている。寛仁3年(1019)10月の実資の甥・藤原経通の子・藤原経仲の元服の前日の記事に「頭弁(経通)来談明日元服事、従昨令掃西対懸簾」とあり、前日に掃除させたり御簾を懸けたりしているなど、日常的に使用しているとは思えないとする。 ところで太田静六が『寝殿造の研究』に書いたことと相違して東対も存在している。万寿元年(1024)12月の愛娘・千古の着裳の前年から東対を直させ、東廊(対に附属する廊)を新築し、家司を定め、着裳の直後に新作の東廊を千古の侍所にしている。千古の着裳に続く結婚を考え、東対と付属する部分を別に独立した生活を営めるように整えたのであろうという。万寿元年の着裳の際に屯食を遣わした所として「大(台)盤所二具〔一具東方〕」が出てくる。台盤所が別にあるということは東対の独立性が既に確立されていたということになる。そして長元2年(1029)11月、千古が藤原道長の孫・藤原兼頼と結婚した後は、二人で東対に住み兼頼は小野宮中納言と号した。 吉田早苗論文の評価吉田早苗は、摂関家の邸宅においては儀式のもつ意味は大きいかもしれないが、一般の貴族の住宅では儀式は摂関家ほどではなく、通常考えられているよりもケ(褻)の生活が住居に与える影響が大きいのではないかとする。それを紹介して稲垣栄三はこう評価する。
なお、引用冒頭の「必ずしも十分な史料的裏付けをもつものとはいいがたい」吉田早苗の見解とは、同論文の「まとめ」の後半で高群逸枝の『招婿婚の研究』をベースとしながら、娘に婿を取り、娘夫婦の居所とすべきケ(褻)の空間としての対の重要性に注目し、二組以上の夫婦が独立し て生活するためには、対や寝殿に家政機関としての廊が付属して独立した単位を構成し、それらが渡殿で結ばれるという形態がふさわしいあり方だったのではな いか。そして対の消滅は白河院政期から承久の乱の頃まには「経営所婿取婚」という形態に変化してゆくことにあるのではないかとした点である。 川本重雄は飯淵康一への反論という形でだが、高群逸枝の『招婿婚の研究』(高群逸枝1953)での見解はそれを批判的に継承する形で様々な論が展開されており、『招婿婚の研究』段階に留まることの問題を指摘している(川本重雄1987、pp.48-49)。 川上貢のハレとケ(褻)川本重雄が文化人類学者・石毛直道の「人間の住居は客を招じいれる設備(石毛直道1971、pp.5)」という言葉を紹介しつつ、接客方法や接客空間の変化を論じたことは先に述べたが、その「客を招じいれる」ということを川上貢は「ハレとケ」という概念に置き換える。人間が住居のなかで生活を営む場合、そして長い歴史的背景の下に展開される場合には、住いの中に何らかの規範が存在したと考えられ、それがハレとケの生活概念であろうとする。
石毛直道は人間の住居と動物の住居の違いを機能項目で現すと炊事、家産管理、接客、隔離(石毛直道1971、p.246)であるとも云うが、接客と隔離はワンセットである。隔離された空間に招き入れられることが接客だが、その外部の客から家族、あるいは私生活を隔離することも同時に行われる。ハレとケの相対的概念は言い換えるなら接客と隔離である。そして川上貢もハレとケの二分化は住居構成の基本分化であるという(川上貢1967、p.7)。 接客と隔離は太古の昔からあっただろうが、それがハレ(晴)とケ(褻)という言葉で屋敷の構成や行事に使われるのは平安時代末期からで、鎌倉時代になるとその用例が更に多くなる。例えば『吾妻鏡』建長4年(1252)4月3日条に将軍御所の「御格子上下事」の定めがみられる。
「於晴向者」とあるのはおそらく寝殿の南面で、日の出とともに左右無く格子(蔀)を上げるが、おそらく寝殿の北庇であろう「御寝所近近」は近侍の殿上人(少納言クラスの関東伺候廷臣)の指示に従えと、将軍御所が晴向と御寝所とに大別されている。御寝所は将軍の寝所を含む私的居住の場であり晴向に対照的なケ(褻)の場である。なお、この記事は後嵯峨天皇第一皇子で当時まだ11歳(満なら9歳)の宗尊親王を将軍として鎌倉に迎えたときのものである。 主に平安時代末期からであるが、そのケ(褻)の場を里内裏では褻御所、あるいは常御所とも呼んでいた。その場所は保元2年(1157)の東三条殿では寝殿東北の御車寄廊(通常なら二棟廊と呼ばれる位置)に、翌3年の字治小松殿では寝殿東北の子午廊(前同)に設けられたという例もあるが、一般には寝殿北面が宛てられる例が多い(川上貢1967、p.8)。 ここまでの例は主に南北の別だが、更に進んで次にはハレとケの別は東西にも用いれるようになる。平安末期だが中山忠親の日記『山槐記』にこういう一文がある。
ここでの「晴門」とは正門、内大臣なのでおそらく四脚門 のことである。鎌倉時代前期だが、西国寺公経の一条室町殿を『明月記』は当初「以西為晴」(西をもって晴となす)としたが、その後に改造して今度は「為東晴」(東を晴となす)としたと記す。 東西についてはハレは「礼」とも呼ばれることもある。鎌倉時代後期の『花園天皇震記』に、文保元年(1317)に新造完成し遷幸の行なわれた二条富小路内裏について、
とあり、晴と同義語として「東礼」とか「西礼」が使われ、同一文中に「西晴」も使われる。 川上貢によると、藤原資房の『春記』長暦4年(1040) 10月22日条に、内大臣藤原教通の二条邸が里内裏に使用されたときに「以東為礼」(東をもって礼となす)と記されており、それが礼・晴向記載の史料上の初見とされる。しかし『中右記』や『小右記』には晴向の記載はみあたらない。従って邸宅の東西何れかの側を晴向と設定する手法は長暦4年にさかのぼる頃には存在していたといえるが、強く意識するようになったのは『山塊記』や『玉葉』の時代、つまり平安末期以降であろうとする(川上貢1967、p.10)。 ただし、寝殿の構造や室礼からは『中右記』や『小右記』の時代にも正門(晴門)の向きが強く意識されている。例えば塗籠である。平安時代末期には塗籠はあまり使われなくなったので平安時代中期の遺構と云われることもあるが、その塗籠は必ず正門(晴門)の反対側、東三条殿のように西礼であれば、寝殿母屋の東側に位置する(川上貢1967、p.11、p.13)。そして道長の時代以降開催回数の減る、寝殿母屋を主会場とする正月大饗においても、尊者(主賓)の席はその塗籠の前、正門(晴門)の反対側で、以下の席次も東三条殿では塗籠の側を上位とする。これは寝殿の南庇を主会場とする任大臣大饗でも変わらない。そして「対」と「対代」が区別される『中右記』の時代においても、「対代」でない「対」は正門(晴門)の側である。 そして、東西で云えば、正門(晴門)から塗籠の手前までがハレの空間。塗籠から先がケ(褻)の空間になる。川上貢の研究の主眼は、南北ではれば北、東西であれば正門(晴門)の反対側であるそのケ(褻)の空間の鎌倉時代以降の変化を克明に解き明かし、後の書院造に繋がっていく過程を明らかにすることにある(川上貢1967、p.4、)。 東三条殿の特殊事情東三条殿復元図。ただしこの図は太田静六案である。 東三条殿の歴史は古く、藤原良房(804〜872)の時代から摂関家の邸宅であったと記す後世の史料もある。『日本紀略』仁和4年(888) 正月17日条には、良房の甥で猶子の藤原基経(836〜891)の屋敷として「東京三条第」が見える。さらにその子藤原忠平(880〜949)の日記『貞信公記』の中に彼の邸宅として東三条殿の名が見える。しかし平安初期には基経や藤原忠平の屋敷としては堀河院や小一条殿の方が、儀式の面でも生活の面でも重用されていた。その孫藤原兼家の代に『大鏡』にも登場する。
兼家が永延元年(987)7月21日に完成した東三条殿の西対を内裏の清涼殿風に設えて顰蹙を買ったと。この頃には西対があったらしい。その後東三条院とその養女明子(失脚した源高明の末娘)を経て藤原道長、その子藤原頼通の所有となるが、道長も頼通もここに住むことはほとんど無く、主に東宮御所、中宮御所、里内裏として用いられる(川本重雄2012、pp.126-129)。 寝殿造の時代の平安京は火災が多く、内裏でさえ平均10年で焼失という状態で、現に東三条殿も第4期などは第3期の焼失のあと万寿2年(1025)12月より再建が始まったものが完成間近の長元4年(1032)4月に再度焼失という具合であった。それに対して最後の第5期東三条殿は、長久4年(1043)に藤原頼通が後朱雀天皇の御所(里内裏)として再建(川本重雄2012、p.45)したもので、平安時代の寝殿造の中でもっとも同時代史料に溢れる屋敷となり、その儀式の指図も沢山残り、平面図や復元模型で良く知られるものである。太田静六の云う平安盛期の建造物であり、同時代の他の大規模寝殿造はほとんど焼失していく中で、仁安元年(1165)の焼失までの約120年間火災に遭わずに存続した。 頼通の子の藤原師実の代でも師実自身は三条殿に住み、東三条殿に住むことはあまりなかったが、任大臣大饗や正月大饗のような寝殿中心の儀式にはここ東三条殿を使うようになる。しかし師実やその子藤原師通の代には大饗には東三条殿を使っても、臨時客など寝殿以外を主会場とする儀式は日常住んでいる三条殿とか、師通の場合は二条殿の対屋とか小寝殿を用いた(川本重雄2012、pp.126-129)。 承徳3年(1099)6月の師通の急死後、藤氏長者の座はまだ21歳であった藤原忠実が継いだが、東三条殿は師実の正妻で、忠実の後見である源麗子が所有していたと思われている(川本重雄2012、p.130)。源麗子の死の翌年、永久3年(1115)7月20日に「関白右大臣殿(忠実)移御東三条」と移徒の儀をもって東三条殿に移ったことが『類緊雑要抄』に記されている(「類聚雑要抄」、p.539)。 その間忠実はに三条亭や大炊京極亭といった中級貴族の邸宅に借家住まいだったが、大饗などはやはり東三条殿で行っている。その後忠実は永久5年7月2日、初めて自らの手で造営した屋敷・鴨院に移徒する。鴨院の殿舎には寝殿、湯屋、対代(西対代廊)、北対、出居廊、内府宿所、諸門の名が見える(『殿暦』永久5年6月25日条)。以降臨時客や賀茂詣の儀などがその鴨院で行われているが、臨時客の場合には対代廊だけでは儀式の場として小さかったようで寝殿を使っている。師実の邸宅の対や師通の二条殿の東小寝殿が持っていた対での儀式空間を鴨院は寝殿と西対代廊の二つでかろうじて作り出していたということになる(川本重雄2012、pp.129-131)。 東三条殿で大饗ばかりか臨時客まで開かれるようになるのは、その子藤原忠通と、その弟の藤原頼長の頃からである。その忠通が住んだ五条坊門第や近衛殿はいずれも小さなものであったらしく、永治2年(1141)に近衛殿に改修を加え、東対代廊なども備えた規模に整備している。しかし康治2年(1143)1月の臨時客が寝殿で行われ、同年8月の「上表」が東対代廊で行われたことから、これもまた忠実の鴨院と同じように寝殿と東対代廊の二つの殿舎によって、対中心型の儀式の場が作り出されていたことがわかる(川本重雄2012、pp.131-133)。 保元の乱に到る忠通と父忠実、弟頼長の確執は有名であるが、その頼長の宇治での屋敷は幸いにして指図が残る(『兵範記』久安5年10月19日条)。そこには左右対称どころか対代廊すら無い。二棟廊が異様に長く、侍廊は中門廊から突き出る東西棟ではなく、馬道を挟んだ南北棟である。そして、孫庇が北にではなく南にある。平清盛の六波羅泉殿も相当に異例な作りだったが、これらが平安末期から平家時代での寝殿造の変化なのか、それとも最上級以外の寝殿造は元からこうしたものだったのかは解らない。この時代以前の中小規模の寝殿造の平面が解明されていない為である。飯淵康一によると、対に接続する侍廊が出来たのは11世紀後半と云うから、馬道を挟んだ別棟というのはむしろ普通だったのかもしれない。 ただ、壮大な東三条殿の平面図や復元模型の中に『源氏物語』ベースの優雅な貴族生活が営まれていたようなイメージは事実と相違する。東三条殿は里内裏、東宮御所、中宮御所に提供される一方で、摂関家・藤氏長者の本邸として様々な行事が行われはしたが、ここが摂関家の住まいとして利用されたことはほとんど無く、儀式用の施設というのが実態である。それに『源氏物語』の時代に侍廊も、透渡殿も確認されてはいない。 永久3年(1115)7月20日の忠実の移徙の指図は通常の儀式では描かれない寝殿の北側などの、日常の室礼を知ることの出来る貴重な史料だが、その移徙もまた、その屋敷が自分のものであることを示す一種の儀式であり、翌日には日常使う屋敷に戻っている。 平面図の復元も1941年の「東三条殿の研究」(太田静六1942、pp.63-114)以降、太田静六による複数のバージョンと、川本重雄によるものがあり(川本重雄2012、p.104-168)、細部に異なる処はあるが、概ね同様の平面図となっている。かつ復元模型も多く、寝殿造の説明に良く用いられる。 復元模型には太田静六案を元にした旧平安博物館・現京都文化博物館の模型や国立歴史民俗博物館展示の模型がある。太田静六による複数のバージョンの中で最も完成度が高いのは日本建築学会編 『日本建築史図集』 とされていたが、新訂第三版では川本重雄復元図に変わっている。(日本建築史図集2011、p.27) しかし藤田勝也はそれを変質期に分類し(藤田勝也1999、p.132)、太田静六も最盛期の後半に早くも変形を生じたもののひとつに挙げるように、太田静六の云う「正規寝殿造」ではない。なによりも西対が無い。それは西対の建つべき場所に泉が湧くという地形的な問題故である(太田静六1987、p.308 -629)。その地形的問題が太田静六の云う平安末期、藤田勝也の云う変質期の他の大規模寝殿造と比べてさえ妙な形になってしまっていることにも注意が必要である。 建物の配置を見れば、東側半分が通常の大規模寝殿造の典型的な形であり、東礼の屋敷に見える。つまり東中門の正面の門が正門に見える。しかしこの屋敷は西に西洞院大路、東は町尻小路であり、西礼の屋敷である。従ってこの屋敷で行われる正月大饗、任大將大饗での尊者(主賓)の経路は西門からである。そして寝殿の塗籠は正門の反対側の寝殿母屋の東側にあり、招待客の席順も東を上とし、官職が下がる方が西になっている。殿上人の座はこの時代には通常正門側(礼側)の対屋の寝殿側庇に設けられるところが、この東三条殿では西に対屋が無いので西北渡廊にその席が設けられている。 仁安元年(1165)12月24日東三条殿は火災に見舞われ、火は夜を通して燃え続け翌朝まで及んだという。当時藤氏長者であったのは藤原基房で、基房は基房は焼失した東三条殿に代わるものとして、閑院の造営に着手したと考えられている(川本重雄2012、p.137)。この閑院の平面図が太田静六によって復原されているが(太田静六1987、pp.555-556 )、この復原案は東三条殿と極めてよく似ている。へたをすれば見間違うほどである。東三条殿は一見東礼の配置を取りながら実は西礼の屋敷であったが、閑院では東が洞院西大路、西が油小路で本当に東礼の屋敷である。東三条殿は西対が経つべき位置に泉が湧いたため、西対を欠き、東対が儀式会場という変則的な形になったが、閑院では東が大路なので東三条殿とうり二つながら本来の配置になる。そして東三条殿に泉が湧いた位置には梁間二間の西対代廊が経つ。その西対代廊から南に延びるのは中門廊ではなくて東三条殿同様に透廊である。泉の地形的制約が無く、かつ東を大路に接する閑院の配置がほとんど東三条殿同様であることは、東三条殿がいかに例外的な地形の制約を受けた寝殿造であったかが見て取れる。 寝殿には塗籠が無い。これは第五期東三条殿の創建から一世紀が経ち、この時期には塗籠があまり使われなくなったこともあるだろうが、もうひとつ北孫庇も無い。これは寝殿が日常生活の場ではなく、儀式の場として建てられたことを意味する。もうひとつ、この閑院の殿舎の配置は堀河殿の配置の東西を逆転させた図でもある。堀河殿は西に堀河大路、東に油小路をもつ西礼の里内裏であった。(太田静六1987、p.418--848) 大規模寝殿造時代の財源太田静六はこう書いた。
それまでは見られなかった豪華絢爛な大規模寝殿造の建設が可能になったのは藤原摂関家が多数の荘園を所持し、富を蓄積したから、というのは今では相当に古い庄園史観で、実際には初期荘園は長続きせずに消え去り、大規模な寄進系荘園の立荘が始まるのは11世紀後半から12世紀末にかけて(永原慶二1998、p.94)、つまり摂関期ではなく、院政期である。 摂関時代は旧来の律令制による国家収入がうまく機能しなくなり、 901年の太政官の記録によると、播磨国の農民の過半数は六衛府(官庁)の舎人(とねり)ということになって課役を免れる(不課)ありさまと。そのほか「帳内」とか「資人」と言う親王や貴族に国から与えられる雑役係りを称したり、僧も課役を免れたことから三善清行の「意見封事一二箇条」によると、「天下の人民の2/3は剃髪している」と。 そこからの脱却、いわゆる王朝国家体制への転換を図った時代でもある。それは佐藤進一が『日本の中世国家』(佐藤進一1983)でまとめた「官司請負制」ともリンクする。 最上級の邸宅が急に豪華になった代表格は藤原道長の第二期土御門殿である。長和5年(1016)焼失後、寛仁2年(1018)6月20日に再建再建された。その造営は国司苛政上訴の嵐の最中であるが、『小右記』に次のようにいわれる。
有名な話であるが、上島享は道長は家司受領のみならず、広く受領に造営を命じることで、受領が国家財政を支える体制を確立させると同時に、自らの権勢を制度化・構造化していったとする(上島享2006、p.60)。この方式は単に私邸だけではなく、官寺の再建などにも使われる手法である。摂関期の後の院政期でも同じで、平安時代末の信西による内裏の再建もその方法で行なわれた。一間単位ではなく建物単位であったりするが。つまりは朝廷の行事や建設・修理を受領の私財で賄わせるという方式である。受領の蓄えは実は私財では無く、朝廷の財源の一時的プールであったということにもなる。上島享はこう書く。
屋敷の建設だけでなく入手にも受領の成功が見え隠れする。里内裏として有名な堀河殿の名が現れるのは9世紀の藤原基経の頃からであるが、承暦4年(1080)5月11日に白河天皇の里内裏 となったときの所有者は藤原頼通の長男・藤原師実だった。しかしそれは基経から代々相続されたものではない。堀河殿は基経、忠平、師輔から、兼家とは犬猿の仲の兄の兼通、その子の顕光へと受け継がれたものである(角田文衞1963、pp.31-33)。そして『左経記』長元5年(1032)3月25日条には「御共参堀河殿」の割書に「件家故経国朝臣宅也、而近江守行任依為因縁伝領、令献相府」とある(左経記、p.334)。顕光の娘で一条天皇の女御であった藤原元子が道長をとりまく受領のひとり藤原経国に売却し、経国からここを受け継いだ近江守源行任が頼通へ献上したらしい。その源行任は4年後の長元9年(1036)7月に近江守として国司苛政上訴を受けている。おそらくこの献上、つまり成功で近江守を重任した可能性がある(角田文衞1963、pp.133-135)。 院政期に入って摂関家の大規模寝殿造建設が下火になるのは、その受領任免権が摂関から院政を敷く上皇や法皇に移ったからである。こんどは院が六勝寺などの私的な大寺院兼邸宅建設に乗り出す。「如法一町家」に関して白河法皇に仕えた藤原宗忠の『中右記』の記述を引用したが、そこでも院御所となる大炊殿について「伊与守(源)国明朝臣造営(『中右記』1104年(長治1)11月28日条)」、三条烏丸第についても「是播謄守基隆朝臣所作也(『中右記』天仁元年(1108)7月26日条)」である。伊予国に播磨国、このあと出てくる讃岐国も熟国中の熟国。莫大な収入の得られる国で、摂関、あるいは院と、そのときの最高権力者がその近臣を受領に任命することでその利益を上記のような形で享受する。たたこの例だけでは税収の私物化にも見えるが、修理大夫のような内裏の修理を担当する役職もそうした熟国の受領、または熟国受領の経験者を任命し、その私財で内裏の修理を賄わせる。そうしたことも含めての「官司請負制」である。つまり税収の流れが律令制とは大きく異なっている。 摂関家が大規模荘園の集積を始めるのはそれ以降である。それが平家政権に移行することで、摂関家、院ともに財源が少なくなり、更に鎌倉時代になって東国からの収入が減り、かつほぼ全国的に地下と受領の間に鎌倉幕府任命の地頭が入り込んで受領(この段階では知行国主)の収入はその分減る。大規模寝殿造の建設が下火になるのはそのような変化に同期している。 鎌倉時代になっても、数は少ないが、治天の君(ちてんのきみ)の院御所などでは両中門を備えた「如法 一町家」も存在する。その両中門を備えた院御所のひとつに郊外の亀山殿があるが、『歴代皇紀(皇代暦)』建長7年(1255)10月27日に「件御所両三年之間大炊御門大納言実雄賜讃岐国造進歟」とある(川上貢1967、p121 注1)。つまり大納言西園寺実雄を讃岐国の知行国主とし、その代わりかその収益かで亀山殿を造進させたと。受領や知行国主の成功による大邸宅建設は、少なくはなったが鎌倉時代中期にはまだあったことが判る。ただし鎌倉時代には内裏、院御所などの被災・再建には関東(鎌倉幕府)の負担によるところも大きい。例えば『建治三年記』、7月23日条には関東申次・西園寺実兼から長講堂と常磐井殿の火災の報告が届き、北条時宗は「京都の仁の所領を注し抽んずべし」と太田康有に命じている。伊藤一美は「幕府所管及び御家人所持である京都の土地を調べてその復興費用を捻出させるためのもの」と注解に書く。(伊藤一美1999、pp.78-79) 室町時代にはもう受領や知行国主の成功による大邸宅建設は見られず、足利義教の室町殿は守護大名への費用の割り当てで建設されている(川上 貢1967、p.364)。
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