7・建築史での寝殿造 |
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建築史での寝殿造『家屋雑考』からの脱却建築史の世界に寝殿造という用語が出てきたのは、1901年に出版された伊東忠太ら の『稿本日本帝国美術略史』からである(加藤悠希2009)。建築史も初期においては実物が存在する寺社建築が中心であり、対象が住宅にまで広がるのは昭和7年(1932)の 『日本風俗史講座 6巻』に収められた田辺泰の「日本住宅史」ぐらいからであるが、その内容はまだ『家屋雑考』ベースであり、実際『家屋雑考』にある平面図を掲載している(田辺泰1929、p.465)(田辺泰1935p.77)。その9年後の昭和16年(1941)の足立康の『日本建築史』(足立康1941)を経て堀口捨己や太田静六の登場となる。 太田静六は同時代文書をつぶさに分析し、東西の対屋は『家屋雑考』の図にあるような東西棟ではなく、南北棟であること、東西の中門廊の先にあるのは片や泉殿、片や釣殿ではなく、両方にあった場合には両方とも釣殿であることを指摘した(太田静六1944、p.125)。また1941-1942年に『建築学会論文集』21.26号に発表した「東三条殿の研究」(太田静六1942)によって、始めて『家屋雑考』ベースではない、同時代資料に基づく寝殿造(東三条殿)の平面図を提示したのが『家屋雑考』からの脱却の第一歩である。その少し後に堀口捨己も「書院造について」の中でこう書く(堀口捨己1943、 pp.32-35)。
『源氏物語』イメージとのギャップ『源氏物語』解説的な寝殿造のイメージは、一町(120m)四方の敷地に寝殿の南庭に舟が浮かべられるような池があり、寝殿の両脇には東西に寝殿と 同レベルの対屋があって、寝殿を中心にその池を囲むようなコの字形の建物の配列とイメージされることが多い。太田静六は典型的な寝殿造の配置形式をこう説明する。
その後太田静六は精力的に復元図を発表して『寝殿造の研究』でそれをまとめるが、東三条殿と堀河殿以外は多分に想像による部分が多く、原史料に池の記載など無いにもかかわらず、復元図にそれを書いてしまうなど、太田静六の云う「正規寝殿造」イメージには同時代史料に基づく具体的な復元例がある訳ではないと批判される(藤田勝也1999、p.132)。 舟が浮かべられるような池は鎌倉時代にもその例はあるが、先のランクで云えば「超大規模邸宅」と「大規模邸宅」 の一部ぐらいである。寝殿と同レベルの対屋は東三条殿の東対、堀河殿の西対は同時代の文献により確認されるが、東三条殿の東対のような、塗籠に孫庇まで備えた対屋が東西に存在した例は確認されていない。『中右記』で「件御所如法一町之家也」と賞賛された邸宅でも、東西の対のどちらかは簡略化された対屋である(川 本重雄1987、p.39)。 「武家造」と「主殿造」また寝殿造が『家屋雑考』が描いた『源氏物語』ベースの雅な建築様式と理解されたためか、鎌倉時代から室町時代の武士の邸宅はそれとは別の「武家造」という建築様式が想定されていた。沢田名垂の『家屋雑考』「家作沿革」の中での説明を川本重雄はこう要約する(川本重雄2005、p.191)。
沢田名垂は「当時(平安時代)武士の家居といふは、又別に一つの造方ありしに似たり」と、「質素な武家の住まい」は鎌倉時代だけでなくその前から あったとしている。そして武家の住まいが発展して書院造になったと。1932年に田辺泰は『家屋雑考』ベースで「武家造」という言葉を「主殿造」とほぼ同 義に使う。頼朝の大倉御所については微妙であるのだが、しかし『家屋雑考』を踏襲してこのように図示する。
微妙というのはこのような記述である。「最初の大蔵幕府の屋形にも寝殿、厩、小御所、釣殿等の寝殿造系統のものと侍所、問注所等の所謂武家造系統のものとの存在を知るのである。(p.116)」、「これによって見れば、前の鎌倉時代の幕府は、寝殿造の系統に属するもので、家の子郎党を置くに最も必要なる内外侍所其他武家特有のものを加えたことを認め 得るに止まるが、室町時代の管領屋敷の屋形に至っては、前者と明らかに変化し、所謂武家造として完成されたものであることも亦認めらるるのでのである。(『日本住宅史』、p.121)」。しかし侍所は侍廊と同じである。 ひとつには『吾妻鏡』に頼朝の大倉御所に十八間という侍所の記載があり、これを巨大な建築ととらえて寝殿造とは違うと感じた のかもしれない。しかし侍所は侍廊と同義であり寝殿造にはほぼ必ずある。廊なら大きくても梁間二間であり、頼朝の時代の関東なら柱間寸法は寝殿の一丈約3mよりも狭く2m程度である。建築物は梁間を増やすには高度な技術は要るが、桁行を伸ばすのは容易である。同じ作りをどんどん伸ばしていけば良い。 仁平2年(1152)神主従四位上賀茂縣主(あがたぬし)の「賀茂某家地譲状案」(「平安遺文」2771号)には敷地五段、 つまり一町の半分16戸主の敷地に十三間廊が見えるし、十間程度ならざらにある。「侍」は武士の意味ではなく、「侍女」の「侍」、つまり屋敷の主人に仕える者の意味で、侍所=侍廊はお屋敷での執事の控え室である。 ひとつには、鎌倉将軍邸や室町将軍邸を描いた図面がいくつか伝えられていた。それを信じるなら鎌倉将軍邸以来、武士の館は寝殿造とは別の流れにも見えるが、しかしそれらは室町時代末期の建築様式をベースに過去の将軍邸を想像したものであることが既に明らかにされている。歴史学も建築史学もそうしたノ イズを取り除きつつ発展してきたが、「武家造」という概念もそのノイズのひとつである。 戦前までは田辺泰のような『家屋雑考』ベースの理解であった。例えば江馬務は1944年に『日本住宅調度史』の「国風発達時代」で「1章、宮城公家住宅」の次ぎに「2章、武家住宅」をおきこう書く。
しかしその出版の前年に太田静六と堀口捨己は武家造を否定している。太田静六は『日本の古建築』(1943)の中で、寝殿造から書院造への直結を主張し、こう書いた。
そして堀口捨己も昭和18年(1943)の学位論文『書院造と数寄屋造の研究』の序文にこう書く。
その4年後に太田博太郎も全否定する。
1972年の『書院造』ではここまで云う。
こうして「武家造」というよ概念は消え、現在では鎌倉の将軍御所も、『男衾三郎絵詞』の男衾三郎の屋敷も、『西行物語絵巻』にある出家前の西行、北面の武士として鳥羽上皇に仕えた左兵衛尉佐藤憲清の屋敷も、『一遍聖絵』大井太郎の屋敷から『法然上人絵伝』のまるで農家のような押領使漆時国の館まで含めて寝殿造の範疇に入れられている(平井聖1974、pp.86-91)。 当初は「武家造」とほぼ同義で用いられた「主殿造」という用語は、「武家造」を離れて、寝殿造から書院造への過渡期を表すものとして用いられる。
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