1. 寝殿造の概要   

概要 

寝殿の初出 

平安時代の貴族らも屋敷の中心となる主屋を寝殿と呼んではいたが、「寝殿造」という呼び方はその時代には無かった。その名称は「書院造」と共に江戸時代末期、天保13年(1842)に会津藩士で国学者・儒学者であった沢田名垂の『家屋雑考』によるものである。

東三条殿復元模型

現在Wikipedia に掲載されている京都文化博物館の東三条殿復元模型
1. 寝殿、、3. 細殿、4. 東対、6. 侍廊、7. 渡殿、8. 西透廊、9. 釣殿
(2.と5は存在を確認出来ないし、[8]の位置が上中門のようになっている根拠も解らない。
西中門は[7]1の西端にある。)

文献上「寝殿」が出てくる古い例は「石清水文書」に弘仁9年(818)4月に内裏の殿舎の名称が唐風に改められたという記載があり、そこには「有制改殿閣及諸門之号、寝殿名仁寿殿、次南殿名紫震(宸)殿云々」と書かれている(飯淵康一1987、p.32)。寝殿は「仁寿殿」と呼ぶことになったと。つまり仁寿殿はそれ以前には寝殿と呼ばれていたことが判る。そして紫宸殿は南殿と呼ばれていたと。

なお南殿という呼び方は誰かの屋敷を里内裏に用いるときに良く出てくる。

紫宸殿は饗宴を含む儀式の場であるに対し、仁寿殿は元々は天皇の住居である。後に対屋に相当する清涼殿が使われるようになるが。なお、寝殿は「宸殿」と書かれることもある。

仁寿殿は七間四面(桁行九間・梁行四間)の主屋の南北に孫庇付と考えられている。屋根は桧皮葺入母屋造りで、四隅は庇より一段低い屋根をかけていた。(鈴木亘1977、pp.119〜129)

家地関係史料に「寝殿」という名称が出てくるのは、貞元3年(978)の山城国山田郷長解(平安遺文313)にある秦是子の屋地「三間四面寝殿一宇 在孫庇北南 / 七間三面土屋壱宇」が早い例である(藤田勝也2003、p.59)。


寝殿造の建築様式

寝殿造の中心となる建物は母屋と庇からなり(原田多加司2003、p.261)、其の他は複廊、単廊で構成された時代の建築様式である。そして建物の外周には壁は少なく、出入り口には両開きの妻戸の他は蔀(格子)を用い、日中は開け放す開放的な建物である。そして主要な建物は板床であり、土間はなく、周囲には縁が廻る。以下は一般的なケースであり例外も、時代による変化もある。

母屋と庇からなる建物

寝殿造の中心となる建物は寝殿(復元模型の[1])であるが、その平面は母屋と庇からなる。冒頭の画像の法隆寺の聖霊院は寝殿のように東西棟でなく対屋のように南北棟だが、その平面は寝殿と同様に母屋と庇からなっている。柱の間隔は芯々で一丈(10尺約3m)を標準とし、それより若干狭い場合も、逆に大きい場合もある。柱の太さは現在の住宅の数倍あり、丸柱が基本である。建物の大きさはその柱間の数で表す。例えば桁行を七間(ななま)との場合正面の柱の数は8本で、およそ21mある。7間(ななけん)と読み1.8×7で12〜13mと想像すると、面積では三分の一近くになってしまう。従って本稿では柱間の数を表すときには数字に漢字を用いることにする。寝殿造よりも下の庶民の町屋などでは柱間寸法は6〜7尺ぐらいなので(高橋康夫1985、p.46)、それだけでも寝殿造は上級の建築であることが判る。寝殿造の平面図では柱を単位とするグリッドの升目ひとつの広さは4畳半から8畳ぐらいとなる。

母屋と庇からなる建物

母屋(もや)

母屋(もや)は建物の核となる部分で身舎(もや)と書くこともある。寺院の仏堂と異なり、住宅建築は基本長方形だが、その長い方の辺(桁行)は柱4本の三間が小さい方、柱6本の五間は比較的大きい方。更に柱8本の七間はかなり立派な寝殿ということになる。しかし桁行が三間だろうが七間だろうが短い辺(梁行)は柱三本の二間と決まっている。その母屋は周囲に柱があるだけで、室内には柱は無い。

奈良時代には梁行が柱4本の三間もある。奈良時代の藤原豊成の家もそうであるが柱間寸法は桁行よりも梁行の方が短い。発掘調査でも梁行が柱4本の例がある。平安時代の平安京で梁行柱4本は古制を守る内裏の紫宸殿だけとなる。

庇(廂、ひさし)は、一般用語としては家屋の開口部(窓、出入口)の上に取り付けられる日除けや雨除け用の小型の屋根のことだが、寝殿造では母屋を取り囲む屋内のスペースを指す。母屋は桁行を伸ばすことは技術的にも簡単だが、梁間を広げることは構造上困難である。もっとも簡単な方法は、母屋の切妻屋根の下に庇屋根を付け、その下を屋内スペース(庇)とすることである。庇の先に更に庇を追加してスペースを拡張したものを孫庇。あるいは又庇と呼び、復元模型[4]の対屋の南側はこの画像のように又庇が吹き抜けになっているが、それを弘庇という。

間面表記

その母屋と庇による建物の大きさを表すのに用いられた方法を「間面表記」という。平安時代以降では母屋の梁行は二間と決まっているので、桁行の間数と、その母屋に庇が何面付くのかを表す表記法で、例えば五間四面とあれば梁行二間に桁行五間、その四面が庇で拡張された建物という意味である。孫庇などの付加が無ければ、母屋と庇を併せた建物全体は柱間が1丈なら梁行四間(12m)に桁行七間(21m)の約250u、簀子縁も加えると280〜290uとなる。

庇は常に四面にあるとは限らず、家地関係史料にみえる小規模寝殿には「五間一面寝殿」(建久6年(1195)「中原為経譲状」:鎌倉遺文803)、「壱宇五間二面寝殿」(大治3年(1128)の「平資基屋地去渡状」:九条家文書)、「寝殿一宇 四間三面檜皮葺」、(文治3年(1187)小僧都旱海譲状:鎌倉遺文215)などの例もある(藤田勝也2003、pp.56-65)。この間面表記が崩れだすのは鎌倉時代で、それは同時に寝殿造から書院造への変質過程ともリンクする。

単廊

法隆寺西院伽藍の廻廊。建造時期はだいぶ違うが、寝殿造の中門廊もこのように片側は吹き抜けで、途中にある中門の南側はこのように土間であった。北側では床が張られるが、片面が吹き抜けであることには変わりない。

廊には建築構造としての母屋・庇は無い。単廊は梁行(長方形の短い断面)一間、もっとも単純に梁の両脇を柱で支えているだけである。桁行(長方形の長い断面)はどれだけ」あっても屋根を支える構造は変わらない。復元模型[4]の東対から南(手前)に延びている中門廊は単廊である。

複廊

奈良時代の様式で再建された薬師寺の二棟廻廊・複廊である。寝殿造は朱塗りでは無いが建物の構造は踏襲されている。ただし寝殿造では床があり外部との境は蔀であるが。

複廊はその単廊を二つ横につなげたようなものである。梁行二間、柱は三本となる。やはり桁行(長方形の長い断面)はどれだけ」あっても良いが、ただの渡廊下ではないので通常は四間から六間。10間以上の場合もある。廊とは云っても通路としてより居住スペース、主人に仕える者の住む長屋として利用されることが多い。平安時代後期から鎌倉時代にかけて二棟廊という用語が頻出するが、単廊を二つ横につなげたその天井(化粧屋根)を思い浮かべると理解しやすい。写真のように内部から見ると棟が二つあるように見える。実際には両端の垂木は真ん中の柱の真上まで伸びていて外から見るとひとつの棟になっている(川本重雄2012、p.31)。復元模型の[3]、[6]、[7]が複廊である。

寝殿造とは以上の三つの組み合わせである。

寝殿の屋根

春日大社の着到殿。屋根は檜皮葺で側柱の上は肘木を直に使って斗(ます)は使っていない。軒先も垂木は一重で飛檐垂木(ひえんだるき)は無く、その間隔も寺院建築にくらべたら粗い。この建物は平安時代から藤原氏の氏長者(摂関家)が参拝に来たときの宿泊所で、普段は床を張っていないが、氏長者参拝のときには床が張られ、壁代や屏風で室礼される。この建物は六間二面である。 

寝殿の屋根は基本的には入母屋造である。ただしま比較的下位の寝殿造には切妻屋根の切妻に庇を追加したような形(画像参照)もよく描かれている。

母屋と庇からなる建物で平安時代の現存遺構としては正暦元年(990)に建てられた法隆寺の大講堂がある(画像)。ただし床が無く土間であることと、瓦屋根であることが寝殿造とは大きく異なる。瓦屋根であるが故に屋根が重く、柱と梁や桁を繋ぐ斗拱(ときょう)も寝殿造とは異なる。古代・中世を通じて、瓦屋根を用いるものは寺院のみであり、古代の官衙も瓦ではあったが、内裏を含めて邸宅建築に瓦を用いる例は見られず、寝殿造においても最上級の屋根は檜皮葺、格が下がれば板葺であった。絵巻には地方の寝殿造系邸宅が茅葺に描かれることもある。

寝殿造の規模

前述の山城国山田郷長解(平安遺文313)にある秦是子の屋敷に対屋などはなかった。附属するのは土屋、つまり床の無い土間の長屋一棟である。寝殿造で一番記録が残るのは東三条殿であるが、それ は最上級のクラスであって、寝殿造には上記のような小規模のものまで含む(堀口捨己1943、pp.32-35)。「寝殿造の最小単位」(小沢朝江2006)などとも云われる藤原定家の一条京極亭は三間四面でおまけに南庇は弘庇。他には侍所に台所を兼ねているのだろう北屋に車宿、そして持仏堂だけで、最初は中門廊すら無かった(藤田盟児1990)。嘉禄2年.(1226)だから定家は既に公卿である。従って、寝殿造は『中右記』1104年(長治1)11月28日条にある「件御所如法一町之家也」(後述)と賞賛された邸宅のレベルを「大規模寝殿造」とすれば、それよりも広く豪華な「超大規模寝殿造」、それより下には「中規模寝殿造」、「小規模寝殿造」と、規模に幅をもつ建築様式である。

「一町之家」が「如法」(のりのごとく)であるのは院や公卿クラスの話である。『小右記』長元3年6月28日条にはこうも書かれる。

今年五月廿八日給左右京・弾正・検非違使等官符云、応禁制非参議四位以下造作一町舎宅事、右式(延喜左右京職式)条所存

方一町の屋敷を持てるのは三位以上、または四位参議以上であると昔から定められているのに、ないがしろにされているので改めて通達したということである。

四位参議以上とは公卿ということである。公卿は通常三位以上と云われるが、四位であっても参議は議政官であり、陣定(簡単に言うと現在の内閣の閣議)に参加出来る。

非参議四位以下に許された屋敷の広さは平安時代の文献には残っていないが、『続日本記』によると四位五位が1/2町以下、六位以下は1/4町以下であった。1/4町は方半町、60m四方の8戸主である(太田博太郎1989、p.94)。

1戸主は1町の1/32で、15m×30m、450uの広さである。

10世紀 延喜2年(912)の『七条例解』に出てくる正六位上山背忌寸 大海当氏の櫛筒小路の屋敷は4戸主である(平安遺文 207号)。その敷地に、寝殿とは名乗っていないが、主屋は母屋三間に四面庇、更に西と北に叉庇、南に小庇そして戸が五具、檜皮葺で床張りという立派な建物である。更に五間の母屋の南と西を庇で拡張した板敷きの一宇に、同じ五間の母屋の西を庇で拡張した板敷きの一宇。それぞれ戸がひとつ付いている。そして通りに面して門が二つ。更に中門があって内郭と外殻を分けている(藤田勝也2005 p.49,p.67)。

「三間桧皮葺板敷屋壱宇 在庇四面並又庇西北、又在小庇南面、戸五具、大二具、小三具、五間板敷弐宇 在一宇庇、南西面、在一宇庇、西面、戸各在壱具中門壱処、門弐処 大小」(「七条令解」平安遺文207)