北面の武士は白河上皇直属軍で、それぞれいざ事が起きるとかなりの郎党を引き連れて事に臨みます。
武者所
院の警衛機関としては、別に御随身所、武者所が有りました。御随身所は近衛府系の武官で 儀仗兵的色彩が強かったようですが、武者所の方は、円融天皇が花山天皇に位を譲ったとき、天皇に「滝口」として仕えた者が、上皇について「院の武者所」に移ったのがはじまりかと云われています。そして円融上皇の強い希望で武者所10人の弓箭携帯が花山天皇により認められます。
『保元物語』にも「武者所近久」とか「古市の伊藤武者景綱」とか出てきます。後に義経が木曾義仲と戦った宇治川の戦いで先陣を切り、『平家物語』『源平盛衰記』などの軍記物語に描かれた平山武者所季重が居ますが、彼が武者所を名乗るのは、大番役として京都に上り上皇を守る衛士(武者所)を努めたことに由来しているそうです。平治の乱(1159年)に見えることから鳥羽上皇のときに武者所に詰めたのでしょうか。
しかし武者所は滝口と同レベルで、御幸のときにも、北面の武士は上皇(法皇)のすぐ後ろであるに対し、武者所の武士は行列の最後に供奉していました。大統領を直に取り囲むシークレットサービスと警備の警官ぐらいの差ですね。これによって、北面の武士と武者所の武士との格のの違いがはっきりとわかります。
院北面
鎌倉時代初期の『愚菅抄』にはこうあります。(カタカナはひらがなに直しました)
此御時、院中上下の北面を置かれて上は諸大夫、下は衛府所司允(じょう)が多く候(さぶらい)て、下北面御幸の御後には箭(や)負て、つかまつりけり、後にも皆其例也
北面とは、白河上皇のときに院御所の北面を詰所として、上皇の身辺の警衛、あるいは御幸に供奉した廷臣・衛府の官人を言い、上北面と下北面があります。上(シャウ)は殿上の2間が詰所ですから、院の殿上人。四位・五位の諸大夫層の廷臣が中心です。五位以上ならこちら、ではなくてあくまで院昇殿を許された者ということかと。
「武士」が居たのは殿上ではなく、「下」(カ、またはケ)で御所の北の築地に沿う五間屋であり、こちらも「武士」だけではありません。「下臈」ともいいます。橋昌明氏の『清盛以前 伊勢平氏の興隆』
増補改訂版(文理閣 2004年 p115)から引用しておきます。
ここで北面あるいは北面の武士について、概括的に性格づけしておきたい。、北面とは、院御所の北面を詰所とし、上皇の側にあって身辺の警護あるいは御幸に供奉した廷臣・衛府の官人らをいう。白河院政開始後ほどなく創設され、はじめのうちは男色女色両刀づかいだった白河法皇の「御寵童」なども含んでいた。諸大夫以上の家柄の者(中・下貴族)を上北面といい、殿上の北面二間を詰所にする。衛門尉・兵衛尉などに任ぜられた五位・六位の譜代の侍を下北面(下侍)とよび、御所の北の築地に沿う五間屋をその所とした。
北面は白河院死去のとき、合計80余人に達している(『白河院崩御部類記』大治4年7月8日条)。
合計80余人というのは、「上臈」「下臈」の合計でしょう。
藤原氏の本拠地が院の北側にあったため、これに備える為に北面に配置されたと言う説もありますが、ただの想像かと。と云うのは、北面自体は武士の配置場所ではありません。北面の中の下北面のメンバーの中に武士が多く、それが北面の武士といわれたということです。それならばむしろ陰陽道においては、北と西は陰とされたことで北を守ると云う方がもっともらしいですね。
護持僧も居たでしょうから「守る」とは物理的だけではなく、精神的な面が大きかろうと。「滝口」も同じですが、武者や弓はそもそも人間だけでなく悪霊からの守護の意味も込められていましたし。更に後の時代、後鳥羽上皇が北面に加えて西面も創設したことの説明もつきます。
武者所に詰めたのは滝口同様に在地では開発領主でも京では一介の騎馬武者ですが、下北面に詰めたのはそうした無位の者ではなく、官位官職を持ち、上に見たとおり受領や検非違使など、武士としても騎馬武者の郎党を数十騎は従えた将軍から将校クラスです。『中右記』によると1118年(元永1)5月の山門大衆の強訴を鎮圧したときには,それら北面の武士らが自分の郎等を結集させて総勢千余人の軍勢となったと。
またそこに検非違使達が居たと云うことから、白河院は検非違使庁の本来の指揮系統である別当を通さずに直に検非違使に指示を与え、故に検非違使庁が形骸化すると云うこともあったようです。
最初の北面・平為俊
最初の北面のと言われるのは平為俊、藤原守重、清和源氏の源重時(鳥羽院北面四天王)
、文徳源氏(坂戸源氏)の源康季だそうです。(竹内理三「武士の登場」p200)
その一人平為俊は白河法皇の男色相手の「御寵童」でしたが、前述の竹内理三氏と『佐々木六角氏の系譜』(思文閣出版)の著者佐々木哲氏のブログから記録を順に辿ると、
1088年(寛治2) |
『白河上皇高野御幸記』(寛治二年高野行幸記)では「童子平千手丸」と童名で見えており、童形(元服前)で院北面であったことが確認されています。このとき藤原守重や橘頼里らは実名(成人名)で見えるそうです。
|
1090年(寛治4) |
『中右記』4月9日条では「左兵衛少尉平為俊」。公的身分に就くためには名簿を公的機関に提出しなければならないので、元服以前であっても実名必要になったのでしょう。おまけに初官は普通権官で、右兵衛権少尉ぐらいから始まり、権が取れ、右から左に格上げとなるはずが、最初から正員の左兵衛少尉です。
11月29日 石清水八幡宮御幸に、左兵衛尉として布衣(武士の服装)に胡簗(ここでは弓矢の意味)をおび、院司・殿上人と並んで上皇の御車の後に従っています。このとき武者所の武士は行列の最後に供奉していました。これによって、北面の武士と武者所の武士との格のの違いがはっきりとわかります。 |
1092年(寛治6) |
正月25日の除目で検非違使となったことが『為房卿記』に記されていますが、記主藤原為房は「他府希代例云々」と記して驚いているそうです。
と言うのは、検非違使は衛門府の官人から選ばれて兼務するもので、兵衛尉から検非違使に補任された例はそれ以前には1例だけ。前九年合戦のときに出羽守であった清和源氏満正流の源斉頼が禁中に籠もる犯人を捕えたことを賞されて検非違使となったのですが(『百錬抄』『扶桑略記』)、それを前例に平為俊も「院辺追捕賞と称して」検非違使に補任されたと。
為俊に「院辺追捕」は本当にあったのかどうか、かなり疑わしいですね。 |
1093年(寛治7) |
10月3日、上皇の賀茂祭見物の紫野御幸に検非違使左兵衛尉として布衣、狩り胡簗(やなぐい)で、右近衛中将藤原経実(このとき三位)と並んで上皇の御車の後にしたがったと。近衛中将と並んでというところが凄いですね。まだ叙爵していないのに。 |
1095年(嘉保2) |
8月28日、上皇の鳥羽殿での前菜合せの御遊(ぎょゆう)に、右方の方人として近臣藤原長実(ながさね:美福門院の父)、藤原顕隆(あきたか)らとともに列席。このとき蔵人所衆。六位蔵人かと思ったら、こちらによると所衆は「蔵人所の職員。定員は二十人。御所の煤払いをする役。六位の侍から任じられた」と。 |
1100年(康和2) |
正月5日には従五位下に叙爵されて(藤原忠実の日記:『殿暦』)、宿官として下総介に補任されたそうです(『魚魯愚抄』巻七:南北朝時代・洞院公賢)。宿官とは、蔵人・式部丞・民部丞・検非違使などが従五位下に叙爵されたとき、適当な官職がないときに仮に補任される官職のことです。この時代には国司は受領などの筆頭官以外は実態を失っていましたから、最初から名目的官職ですね。 |
1108年(嘉承3) |
『中右記』によると、正月24日の除目で検非違使の功績で駿河守に補任されています。 |
1134年(長承3) |
『長秋記』5月15日条に、賀茂行幸で忠盛とともに舞人を勤めた四位陪従家定がおり、佐々木哲氏はこの家定が白河院没後に忠盛とともに鳥羽院北面に列した為俊の改名後の姿だろうと。そしてその家定の弟・行定の子孫が、近江佐々木荘下司として現地管理に当たった『源行真申詞記』の源行真であるらしいです。為俊(家定)は宇多源氏流だろうと言うのですが、なんで宇多源氏が平性を? |
平為俊が「本当に「武士」であったかどうかはともかくとして、と言うか、そういう名目で白河上皇が側に侍らしたと言うことだと思います。少々長くなりましたが歴史学者以外にはほとんど名の知られていないような一人の人間を見るだけでも院政の性格が見えてくるような気がします。
1119年(元永2)白河院の熊野詣の供人
院の下北面のメンバーは1119年(元永2)の晩秋から行われた白河院の熊野詣の供人から見ると以下のような顔ぶれです。
平正盛 |
伊勢平氏の備前守。このとき正五位。
この直後に鎮西平直澄追討の功で従四位下 |
藤原守重(盛重) |
石見守、極位従五位上
良門流藤原氏で白河法皇の男色の相手の「御寵童」あがりとか。1088年(寛治2)『白河上皇高野御幸記』にその名が見え、『中右記』では1102年(康和4)4月25日以降検非違使在職が確認できる。 |
平貞賢 |
惟茂流越後平氏 平維茂の子平繁貞の祖孫 |
源季範 |
文徳源氏(坂戸源氏)、摂関家領河内国古志郡坂門牧を本拠とした。
源季実(すえざね)の父 |
平盛兼 |
伊勢平氏盛兼流 平正度の子で平正衡の弟・平貞季の孫で父は平兼季 |
源近康 |
文徳源氏(坂戸源氏)源季範の兄弟 |
この他、白河が天皇時代からの護持僧であった法務権僧正・東寺一の長者、興福寺権別当範俊なども詰めていたのは下北面だと思います。
1129年(大治4)年に白河法皇の死去のあと、引き続き鳥羽院・待賢門院に仕えたのは
平忠盛 |
このとき正四位下で備前守 |
平為俊 |
前駿河守 白河法皇の男色の相手の「御寵童」あがり。 |
藤原資盛 |
安芸守 藤原貞嗣流 |
源佐遠 |
大夫尉 文徳源氏 源資遠(資道)とも |
藤原盛道(通) |
前述の石見守藤原盛重の子。検非違使 |
平盛兼 |
検非違使 |
源季範 |
前述の文徳源氏(坂戸源氏)、 |
源近康(親安) |
前述の文徳源氏(坂戸源氏) |
1147年(久安3)祇園社強訴事件
祇園臨時祭に端を発する強訴に対して鳥羽法皇は強行姿勢で臨み、7月15日に源平の武士らを西坂本に派遣、また「諸国の兵士」を招集して「如意山路並びに今道」に差し向け、3日交代の厳重な警護をおこない、その最初の交代の7月18日から8月1日まで、御所において、交代の兵の閲兵とパレードを行い、僧徒の入洛・強訴を許さないと云う姿勢を誇示しました。
7月15日の陣容は判りませんが、それ以降は次ぎの通り。橋昌明氏はこのうち、源為義以外は下北面の面々であろうと。
7月18日 |
- 河内守源季範:前述の文徳源氏(坂戸源氏)
- 左衛門尉源光保(美濃源氏)
- 源近康 前述の文徳源氏(坂戸源氏)
- 源季頼 文徳源氏(坂戸源氏)
- 源為義 和泉源氏
- 壱岐守平繁賢 惟茂流越後平氏 惟茂孫の平繁清の孫、子に平維繁
- 平貞賢 前述・惟茂流越後平氏 前述平貞賢の弟、
|
7月21日 |
『本朝世紀』久安3年7月21日条
今日、法皇御覽武士。散位平正弘率子姪之輩十三人。皆着甲胄。又散位源重成、右衛門尉公俊等、同渡御前。重成郎從甲胄之士纒數幅之布(世俗号之保呂)。爲禦流矢云々。永久之比、南都衆徒合戰之日、叔父重時朝臣郎從着此布云々。一族之風云々。見者足驚眼也。
- 平正弘 及び子姪の輩13人(伊勢平氏)
- 散位源重成 (満政流清和源氏) 重時の子
- 右衛門尉平公俊 平為俊(前述)の養子
|
7月24日 |
『本朝世紀』久安3年7月24日条
今日仙院御覧武士。如日来儀也。佐渡守平盛兼。平盛時。源親弘。散位源義国。主殿助同時光。各渡御前。義国以男義康為代官。自身不参云々。
- 佐渡守平盛兼(前述 伊勢平氏)
- 平盛時 (伊勢平氏)
- 源親弘 (大和源氏) 宇野親弘 摂津国豊嶋住源頼治の子とあるが?
- 散位源義国の代理・源義康 (和泉源氏 源義家の子、足利義国)
- 主殿助同時光 (摂津多田源氏)
|
7月27日 |
|
8月1日 |
|
ここに忠盛、清盛が登場しないのはそもそも事件の発端がその忠盛、清盛の郎党と祇園社の神人との争いであり、比叡山の僧徒・日吉社、祇園社の神人達が、忠盛、清盛の流罪を求めての強訴であった為です。
このほか知られているのは
- 佐藤義清:秀郷流の嫡流、平清盛と同年代。1140年(保延6)出家し西行
-
余談ですが「五間屋」の意味を検索していたら「長谷部信連を巡って」というサイトの「第6章 伯耆の長谷部信連(暫定版)」というページを見つけました。なかなかよく調べられていて参考にさせて頂こうと思いますが、その中に次ぎのような記述がありました。
これに対して、「最下品」は仏教用語であり、武家が殺害を「家の芸」とする卑しい穢れた階層であるという見解がはっきりとうかがえる。平安貴族の中に存在していた「卑賤」や「汚穢」の感覚、それは陰陽道や神道や仏教の意識が貴族意識とないまぜられたものであったろうが、それの最終的な表現語として仏教用語が使われたと考えられる。つまり、仏教用語が使われたからといって、仏教意識によって「最下品」と述べたと短絡はできない。 いずれにせよこれら、「下臈」や「最下品」の語のなかに、身分と家柄をなにより大事に考え、陰陽道的吉凶を行動原理としている宗忠ら宮廷の公家たちの、武家・新興勢力に対する蔑視と嫉妬が表れていることはもちろんである。
武士と穢れの関係には傾聴すべき点がありますが、しかし「下臈」も「最下品」も「武士」を指しているものではありません。その当時の多くの武士はその階級に属していたというだけです。
「最下品」の「品」は「位」の唐名であり、「位」は律令制では八位までありましたが、この時代には七位以下は事実上無くなっており、位階は事実上六位が最下位です。そのクラスは「貴」(公卿)、場合によっては「通貴」(諸大夫)に仕える者達(「侍」)であるから、その六位程度の家柄の者が自分達の世界に入り込むことに拒否反応を示しているのであって「武士」であるからではありません。「武士」でなくとも拒否反応を示します。それどころか三位以上の公卿達は四位五位の諸大夫・受領層の家柄の者が、院近臣としてのし上がってくることにも拒否反応と侮蔑を示しています。
またこの時代には「侍=武士」ではありません。平正盛の出た伊勢平氏も平貞盛や平維衡の頃はともかく、平正盛の父正衡の頃には人生の最後にやっと受領という侍階級まで家柄が落ちていたことの反映です。そのことはこの方が引用されている橋昌明氏の『清盛以前 伊勢平氏の興隆』にもしっかりと書かれてあるはずです。「公家たちの、武家・新興勢力に対する蔑視と嫉妬」というような過去の階級闘争史観と戦っているのが橋昌明氏やその論争相手の学者さん達です。過去の階級闘争史観を未だに主張する人は学会からはもう居なくなっていると思います。あるのはそれ自体が歴史となった過去の書物だけかと。
参考:
2007.11.04
2007.11.10 |