兵の家各流 秀郷流藤原氏・秀郷・千晴 |
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藤原秀郷・千晴と奥州藤原氏京武者・武家貴族としての秀郷流藤原氏は藤原秀郷の子千晴が安和の変でいきなり挫折したものの、そのまま撤退したわけではなく、弟の千常の子孫が中央の武家として後世まで続いて佐藤氏を名乗り、摂関家に仕え、白河院時代には北面の武士を務めています。また、関東を中心に土着した流れは頼朝挙兵時にも有力豪族として多く現れます。また首藤氏・鎌田氏など和泉源氏の「身親しき」郎党となった家も。 藤原秀郷尊卑分脈によると祖父藤原豊澤、父藤原村雄、そして秀郷自身も下野国衙の下級官僚(在庁官人:要するに富豪か?)の娘を母にもつことから代々下野国に根を下ろしていたように見えます。ただし土着ではなさそうで、祖父藤原豊澤は下野権守の他、備前守従四位上、父藤原村雄は下野大掾の他従五位上河内守とも書いてありますので諸大夫・受領層だったのかもしれません。「今昔物語」などではムカデ退治伝説その他で登場し、将門の乱以前から武勇で知られていたのかもしれません。しかしこの秀郷は下野押領使(県警本部長?)になる前は犯人側で訴えられていたと思います。 これですね、915年(延喜15)2月、上野国で上毛野(かみつけぬの)基宗、貞並らに大掾藤原連江(つらえ)らが加わる反受領闘争があり、受領藤原厚載(あつのり)が殺されました。 で、ちょいと検索してみたら・・・・・
う〜ん、まあこちらは「田中正造とその郷土」と言うサイトですから歴史観についてコメントするのは止めておきましょう。ともかく延長5年(927)に下野国押領使だそうです。その二年後に当の押領使に追討官符ですからね〜。追討官符を執行するのが押領使のはずなんですが。この方面では有名な学者さん野口実氏の「伝説の将軍 藤原秀郷」でも読めば俗説を排除した情報を知ることは出来るのでしょうが。
秀郷の子・千晴千晴は相模権介に任じられ、その後、前武蔵権介平義盛と係争をおこして、安和元年(968)朝廷から罪状の調査と尋問が行われ、平義盛の非が確認されているそうです。
安和の変この一年半後、源満仲と前武蔵介藤原善時の密告により安和の変が。 藤原秀郷も当時は権中納言で醍醐源氏の高明に仕えたらしく、千晴も同様に高明に仕えました。 そこで、関白藤原実頼(小野宮流の祖で兼家の叔父)は村上天皇の生前の意向だとして冷泉天皇にはもう一人弟に守平親王の立太子を挙行し、その東宮傳に実頼の弟師尹(姉小路家の祖)が就きます。為平親王を推する源高明とその与党が坂東に奔って挙兵する謀反を企てた、と源満仲が密告したのはその五ヶ月後です。 将門の乱以降「兵の家」が一般に認知され始めた矢先、都で源氏と平氏に並んでいた秀郷流藤原氏は躓きました。参考:坂東千年王国 この話には続きがあって、こうして守平親王が円融天皇となり、その後冷泉天皇の子、花山天皇が後を継ぎますが、利仁将軍の叔父の孫娘時姫が藤原兼家に嫁して生んだ詮子が円融天皇の子を産んでおり、自らの孫を皇位に着けたがっていた藤原兼家が強引に仕組んだ陰謀が阿倍晴明も登場する寛和2(986)年の花山天皇の突然の出家事件です。まあこちらは血は流れず、流罪になった人は居ませんでしたが、このとき山科の元慶寺までの花山天皇の深夜の連れ出しに、邪魔が入らないように郎党を従えて警護したのがまたもや源満仲でした。 結城系図によると 子:千清 孫:頼遠 曽孫: 経清 藤原千晴の子千清が藤原諸任?ところで「結城系図」を見ていて面白いものを見つけました。藤原頼遠の父で従四位下鎮守府将軍藤原千晴の子千清に「斎宮頭・余五将軍敵」とあります。「今昔物語」巻第二十五 第五の藤原諸任のことだと云うことになりますね。その孫が藤原経清だと。藤原千晴が例の安和の変で失脚しなければ秀郷流の嫡流と云うことになります。 「結城系図」の信頼度はどの程度のものかは不明ですが、中条家家系図と同等には信用出来るでしょうか? しかし「斎宮頭」とは本当でしょうか? 奥州の鎮守府将軍には藤原秀郷から先の千晴、その弟千常、その子文修、その子兼光、その子頼行と、その子孫が代々就任しており、同様に平氏も何人かが就任しています。 |
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