兵の家各流 奥州藤原氏の祖・藤原経清 |
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前九年の役の詳細はこちらをご覧ください。 藤原経清亘理地方を治める土着性の強い地方豪族だったとも言われますが、最近では京に勤務していた軍事貴族との説もあります。資料が少く、祖先は藤原秀郷流は間違い無いにしても、秀郷の子千時の流れと言う系図(尊卑分脈)、千晴の流れと言う系図(結城系図)、そして「奥州御館系図」には千常の流れで鎮守府将軍藤原兼光の孫、正頼の子とあるそうです。ただし「奥州御館系図」がいつどのように成立したのかはしたのかは解りません。小山系図でも結城系図でも正頼は藤原兼光の孫ではなく、子とされていますし。 尊卑分脈での藤原経清「新編纂図本朝尊卑分脈」(下左)によると父は藤原秀郷の子鎮守府将軍千時から4代目の下総住人・五郎太大夫藤原頼遠。経清の肩書きは「亘理(わたり)権大夫」。その脇に??権守とあるが??のところが判別出来ず。「結城系図」(下右)には修理権大夫と。修理大夫は従四位下相当、その下の亮(スケ)従五位下ですから「権」が付いても正五位ぐらい?ちょっと信じられません。もっとも信頼出来る『陸奥話記』では「散位」つまり官職の無い五位です。乱の当時は在庁官人として陸奥国府多賀城に勤務していたと見られています。
藤原頼遠は「結城系図」には「五郎」としかなく、「尊卑分脈5巻p35」には「下総国の住」「五郡太大夫」と書かれています。おそらくはその「下総国の住」と後に引用しますが頼義が経清を殺すときの「汝、先祖相傳に予の家僕たり」からだろうと想像しますが、「平忠常の乱において忠常側についた頼遠が罪を得て陸奥国に身を移し、後に罪を許され陸奥の亘理郡司となり、亘理権大夫と称し頼信の家人となって仕えた」とする意見があるそうです。しかし子の経清は源頼義より早くに陸奥に来ているのでこの説は却下します。だいたい「平忠常の乱」では忠常の投降と病死で、追討例の出ていた息子達すら「罪を得て」いないどころか、そのまま上総介氏、千葉氏となって頼朝挙兵まで両総で勢力を保ちます。 それにこの当時の主従関係は同時に複数の主人に仕えるなど、江戸時代の武士の主従関係とは全く異なった希薄なものです。まあ、元請けと下請けみたいなものと考えていれば当たらずとも遠からずかと。 尚、高橋喬氏は「奥州藤原氏」(中公新書p146)で「五郡太大夫と言う妙な地位・肩書き」と書かれていますが、私は「結城系図」から「五郡」は「五郎」の誤植、ないしは活字にする前からの書き間違いではと思います。「尊卑分脈」の「亘理(わたり)権大夫」は確かに高橋喬氏の言われるように意味不明。修理権大夫が化けた? 『造興福寺記』での藤原経清また「藤原経清は陸奥権守の要職を務め父の跡を継ぎ、従七位に叙せられ、陸奥国府に仕えていたと」いう意見があるそうですがこれも却下します。大体陸奥権守の要職まで務めて従七位なんてことが有る訳はないと私は思うのですが。 藤原経清の名が登場する当時の史料は、長年『陸奥話記』のみとされていたそうですが、近年、1047年(永承2年)2月21日『造興福寺記』 に藤原氏の氏長者藤原頼通が藤原氏の氏寺である興福寺の修造の為に全国の四位35名、五位331名に、ランクに応じた寄進を要請する名簿「藤氏諸大夫」(があり、その73行目(五位の部)に「経清六奥」と見えることが指摘されています。これによると、少なくとも藤原氏の一族の係累に連なる者で、かつ貴族の一員として中央の藤原氏宗家からも認められていたことになります。(高橋喬「奥州藤原氏」p51) この中で六奥とあるのは時貞、家政、経清で家政は全く不明(「陸奥話記」に出てこない)、時貞は「陸奥話記」の権守藤原説貞と思われ1047年時点では官職についていない「散位」であったが、1056年には権守になっていたと言うことになります。もうひとりは四位の部に登任。陸奥守藤原登任(なりとう)ですね。 「六奥」は陸奥の奧六郡の意、かと思ったら、高橋喬氏は陸奥の意と。陸奥の亘理郡は奧6郡ではなく陸奥国府の南側でした。いずれにせよこれは京で勤務しながら陸奥に地盤を持っていた、行き来をしていたと取れ「陸奥話記」には出羽国の平国妙が母方の叔父とあります。それらの事から元々奥州に深いつながりがあることは確かなようですが、それと京武者であることは矛盾しません。次にそのことに触れます。 京武者と地方拠点当時の武士の収入は私営田経営だけではなく、流通の比重がとても大きく、その流通の拠点としての館・宿を各地に持っており京武者とてそれに変わりはありません。 しかしこの前九年の役から半世紀前の出来事、「今昔物語」巻第二十五 第五 「平維茂、藤原諸任を罰ちたる語」の藤原諸任(藤原秀郷孫と)も常陸国が本拠地で、陸奥国での些細な土地の領有を巡って平維茂と相論(裁判沙汰)を起こし、当時の陸奥守藤原実方(正四位下)が裁定を引き延ばしているうちに亡くなった998年以降に陸奥国での合戦を起こしています。「結城系図」にはその藤原諸任が藤原経清の祖父千清だと。 陸奥国の権益は奈良の大仏建立当時に陸奥国から砂金がもたらされて以来、歌人としても有名な古代軍事貴族大伴家持を始め、多くの貴族とその子弟が進出しています。安部氏、清原氏、藤原氏、平氏、橘氏、みんなそうでしょう。土人・郡司・在庁官人層で進出していなったのは清和源氏ぐらいのものです。清和源氏の本拠地は摂津、大和、和泉で関東では後発でしたから。 また藤原経清は同時期に陸奥国在住で後に権守となった藤原説貞と同格に扱われており、安部氏側に寝返ったあとも、有名な「赤符」「白符」の話など、陸奥国衙の納税ネットワークにおいて重要なポジションにいたと想像されます。 藤原登任が京より随行?陸奥守藤原登任の頃から「陸奥話記」に登場します。 同様に、秀郷流藤原氏の研究で名高い野口実氏も藤原登任の陸奥守就任によって藤原登任の郎党として下向、以前から陸奥も地盤を持つが、本来は中央軍事貴族とみて差し支えないと書かれています。 安倍頼時の婿に、そして前九年この藤原経清は1051年(永承6)に鬼切部の戦いの後で奥州六郡を支配する安倍頼時(頼良)の娘を妻に迎えます。
源頼義が出羽国の清原光頼・武則兄弟に「名簿」を差し出したのかどうか、ともかく頭を下げて援軍を請い、ようやく陸奥俘囚軍を鎮圧した後・・・・、
源頼義からすれば憎っくき裏切り者で苦戦を強いられたこの藤原経清の首を鈍刀をもって何度も打ち据えるように斬り殺したと。 その後、経清の妻は経清の子清衡を連れて清原武則の子の武貞と再婚し、そのときの連れ子、経清の子が奥州藤原氏の祖藤原清衡になります。私は奥州藤原氏が本当に藤原氏の流れなのか長い間疑っていたのですが、どうも「そうだ」と言う説が強まっているみたいです。奥州は藤原利仁も 鎮守府将軍を重任していますし、藤原経清以外にも義経の従者で有名な佐藤兄弟は秀郷流藤原氏です。また平氏の流れもかなり根を生やしていたようです。 2006.09.12更新 |
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