兵の家各流    藤原保昌の祖先・藤原南家memo

藤原南家

藤原不比等の長男藤原武智麿の系統。
武智麿の長男藤原豊成は右大臣、
藤原仲麻呂(恵美押勝:えみのおしかつ)は孝謙天皇の御信任を得るが藤原仲麻呂の乱の当事者。三男乙麿の子孫は平将門のとき、藤原維幾は常陸介、高望王の娘を妻とし、その子藤原為憲は将門と戦い、恩賞として宮内省宮殿造営職「木工助」となる。そこからその子孫は工藤を名乗る。工藤氏、伊藤氏、伊東氏、二階堂氏の祖で工藤祐経も曽我兄弟もこの後裔。位は従五位下。伊豆・駿河・甲斐・遠江権守。

二階堂氏は京の貴族だったはずですが。

四男 藤原巨勢麻呂 

藤原南家・巨勢麻呂流

藤原武智麿四男 生年不詳〜764年(天平宝字8)年9月18日
760(天平宝字4)年1月7日叙従三位。参議
藤原仲麻呂の乱で兄の藤原仲麻呂(恵美押勝:えみのおしかつ)らと共に誅されたとか、763(天平宝字7)年に卒とか伝えられるが詳細は不明。

藤原黒麿

巨勢麻呂の子 774年(宝亀5)に上総介となった藤原黒麻呂は、入手した「牧」を開墾して「藻原荘」成立したことが「朝野群載」に見える。

藤原春継

黒麿の子・常陸介・中務大輔 従五位上 母 懸犬養女

懸犬養は古代の下級氏族で、元明天皇の信頼が厚かった藤原不比等の妻懸犬養三千代が「橘宿禰」の姓(かばね)を贈ったことが有名です。その娘が光明皇后。三千代は藤原氏へ嫁ぐ前に、敏達天皇の曾孫:美努王と結婚していてその時の子葛城王が「橘宿禰」を継承し、橘諸兄となります。それはおいといて、懸犬養三千代の実家の懸犬養氏は受領クラスの中・下級貴族となっていますから、その一族の娘でしょう。

「朝野群載」に藻原荘に留住し、墳墓を造らせ、9世紀末の890年(ェ平2)に「藤原菅根・上総の藻原荘を以って. 興福寺に寄す」とある。

 

「朝野群載」三善為康(1049―1139)
1116年(永久4)頃。その後の増補があり、最終的には保延年間(1135〜41)の成立と考えられる。平安時代の詩文・各種文書を分類、編纂したもの。諸司の事務に関わるものを多く含み、平安時代の行政を知る重要な史料になっている。もと30巻あったが、現存は21巻分。

藤原良尚 

春継の子・母は常陸大目坂上盛女 他 貞観19年3月10日卒
京で文書生の試験に合格して、今で言えばキャリア組として高級官僚の道を進み極は従四位上左衛門督

母は介より2階級下の下級国司の娘ですから、家柄としてはあまり良くはありません。

藤原菅根(すがね)

良尚の四男・ 856年(斉衡3)〜908年(延喜8)10月7日
母は従五位上菅野高年女 父良尚になってやっと貴族の娘を嫁に出来たと。


文章博士・勘解由次官を経て、908(延喜8)年1月12日任参議 
908(延喜8)年10月17日に贈従三位。
「尊卑分脈」には「才人歌人」「延喜■讃」従四位上
左中弁 式部大輔 侍従 左少将 大内記 少納言 春宮大夫 文章博士 参議 勘解由次官
その娘淑姫は醍醐天皇 の更衣(側室)で第十六皇子兼明親王を生みます。

昌泰の変(しょうたいのへん)で藤原時平と共に菅原道真を陥しいれたと立役者


 

藤原当幹(まさもと:当雄とも)

 良尚九男 864年(貞観6) 〜 941年(天慶4)11月4日
923(延喜23)年1月12日任参議。従三位

藤原元方

菅根の二男子 888年(仁和4) 〜 953年(天暦7)3月21日
母石見守従五位下藤原氏江女。
極正三位・大納言民部卿
平将門の乱では追討の将軍に選ばれかかる。上総に地盤(藻原荘)があった為か。
娘の祐姫は村上天皇 の更衣で広平親王を生む。

906年(延喜6)17歳 文章得業生
908年(延喜8)19歳 越前大掾
913年(延喜13)24歳 式部少丞
915年(延喜15)27歳 式部大丞
917年(延喜17)29歳 従五位下 刑部少輔
918年(延喜18)30歳 1月 権右少弁 9月次侍従
922年(延喜22)34歳 従五位上 右少弁
923年(延喜23)35歳 左少弁 兼中宮亮
929年(延長6)41歳 正五位下
930年(延長7)42歳 1月 従四位下 兼左京大夫 9月兼東宮学士
          11月 式部権大輔 正四位下
932年(承平2)44歳 式部大輔
939年(天慶2)51歳 任参議
940年(天慶3)52歳 兼左大弁・兼讃岐権守
942年(天慶5)54歳 従三位・中納言(大弁労3年)
947年(天暦1)59歳 兼民部卿
950年(天暦4)62歳 5月以前、娘祐姫、村上天皇第一皇子広平親王を出産
          5月24日、師輔女安子、村上天皇第二皇子憲平親王を出産
951年(天暦5)63歳 正三位 1月30日、大納言
953年(天暦7)65歳 3月21日、没

彼は文章得業生出身者で大学で勉強して優秀な成績を取り、それを足がかりに出世していった学儒官僚。参議になったのは51歳、しかも上席には20歳も年下の師輔。

『大鏡』
元方の民部卿の御孫、まうけの君にておはする頃、帝の御庚申せさせたまふに、この民部卿参りたまへる、さらなり。九条殿候はせたまひて、人々あまた候ひたまひて、攤うたせたまふついでに、冷泉院の孕まれおはしましたるほどにて、さらぬだに世人いかがと思ひ申したるに、九条殿、「いで今宵攤つかうまつらむ」と仰せらるるままに、「この孕まれたまへる御子、男におはしますべくば、調六出でこ」とて、打たせたまへりけるに、ただ一度に出でくるものか。ありとある人、、目を見かはして、めで感じもてはやしたまひ、わが御みづからもいみじと思したりけるに、この民部卿のけしきいとあしうなりて、色もいと青うこそなりたりけれ。さて後に霊に出でまして、「その夜やがて、胸に釘はうちてき」とこそのたまひけれ。

元方の怨霊はこの後、冷泉天皇に狂疾という運命を負わせ、その子、花山天皇や三条天皇をも呪い、帝位を退かせたり眼病を患うようにし向けたりしたという。70年もかかって、冷泉天皇の血筋から皇位に就く者を排除し続けたと。

 

 

藤原致忠

元方の子
蔵人、左馬権頭、右京大夫、備後守、陸奥守 従四位上
999年(長保1)に美濃へ下る途中、前相模守輔政の子、惟頼と郎党2人を射殺して訴えられ、佐渡に流された。
致忠の娘は源満仲の妻。
その藤原元方の孫が正四位下で「尊卑分脈第3冊7/58」には「勇士武略之長名人也」と書かれる藤原保昌、藤原道長の家司で爪牙ですね。そしてその弟が「強盗張本本朝第一武略■追討宣旨十五度禁獄自害」と書かれる正五位下右兵尉藤原保輔です。「今昔物語」のレギュラーメンバー盗賊袴垂は彼のことではないかと言う噂も、

その子が正四位下で「尊卑分脈第3冊7/58」には「勇士武略之長名人也」と書かれる藤原保昌、藤原道長の家司で爪牙ですね。詳細は別ページを。

そしてその弟が「強盗張本本朝第一武略■追討宣旨十五度禁獄自害」と書かれる正五位下右兵尉藤原保輔です。「今昔物語」のレギュラーメンバー盗賊袴垂は彼のことではないかと言う噂も、いや本当かどうかは知りませんが。

藤原陳忠(のぶただ) 

『今昔物語集』巻28「信濃守藤原陳忠落入御坂語 第三十八」の逸話で広く知られている。
信濃守の就任は平維茂 (969年) の後のようです。

尊卑分脈 3冊7/58 に正五位下 信乃守(信濃守) とあります。母は参議従四位上橘良殖女と。
同母弟 に由忠がおり正五位下 長門守 出家と

藤原懐忠

元方九男 935年(承平5) 〜 1020年(寛仁4)11月1日 〕母大納言藤原道明第六女。
964年(応和4)左近衛少將
987年(永延1)左大弁
989年(永延3)参議
994年(正暦5)権中納言
995年(正暦6=長徳1)中納言
997年(長徳3)7.5 権大納言
1001年(長保3)8.23 大納言従二位(このとき藤原實資が権大納言に)

尊卑分脈では左衛門佐・左近衛中将・参議・左大弁・中納言・侍従と

 藤原重尹

懐忠五男 [ 984(永観2)年 〜 1051(永承6)年3月7日 〕
母藤原尹忠女。
1029(長元2)年1月24日任参議。
1038年(長暦2) 従二位・権中納言

尊卑分脈では兵部卿 正二位 太宰師

藤原 玄上(はるうら)

 856年(斉衡3) 〜 933年(承平3)1月21日 ]
諸葛五男。母百済勝義女。
919(延喜19)年1月28日任参議。
従三位・参議。
琵琶の名手。

藤原信西

保元の乱で有名

藤原季範

熱田大宮司家中興の祖(頼朝外祖父)
http://www.geocities.jp/okugesan_com/hujiwara2.htm
季兼の子季範が熱田大宮司尾張員職の養子