武士の発生と成立    貴族と武士1・藤原保昌

道長の家司・藤原保昌

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英雄百人一首 (緑亭川柳(川柳金蔵) 国文学研究資料館

もうひとつ、 中世の説話集『十訓抄』には優れた武士として、源頼信・藤原保昌・平致頼平維衡の名が挙げられているそうです。
この中の藤原保昌は「尊卑分脈」(第3冊7/58)にも「勇士武略之長名人也」と書かれるぐらいの有名人ですが、藤原秀郷流や藤原利仁流のような藤原庶流の「兵(つわもの)の家」ではなく正真正銘の貴族です。おまけに大納言藤原元方の孫となかなか血筋は良いのです。中宮安子が冷泉帝さえ生まなければ保昌も藤原道長のようになっていたかも・・・と言うぐらい。

叔母の祐姫は村上天皇の更衣か女御かにあがり男子を出産しましたが、道長の祖父師輔の娘安子が冷泉院を生み、それが皇太子となってしまって繁栄の機を逸し。その無念から元方・祐姫が怨霊となって・・・、と言うのがちょうど阿倍晴明の頃。元方・祐姫は岡野玲子のマンガ『陰陽師』に登場しますね。

実際には祐姫はその後も村上天皇の皇女を生み、無くなったのは村上天皇より後だったと思いますが。藤原保昌は『陰陽師』の原作夢枕獏の小説の方に出てきます。

藤原保昌が主人公では無いためにあまり有名な話ではないですが、「今昔物語」巻第一九第七話に「丹後守保昌朝臣の郎党、母の鹿となりたるを射て出家せる話」と言うのがあります。その冒頭は

今昔、藤原の保昌と云う人有りけり、兵(つわもの)の家にて非ずと云えども、心た猛くして弓箭(きゅうせん:武芸)の道に達れり。この人の丹後守として有りける間、其の国にて朝暮に郎党・眷属と共に鹿を狩る(一種の軍事訓練)ことを以て役とす(仕事のようにしていた)。

そしてその保昌は「弓箭をもって身の荘(かざり)」としていた郎党に

何ぞ汝あながちにこれを辞する。若し明日の狩りに不参ずは、速やかに汝が頸(くび)を可召(めすべき)也

つまり「命令通りに来なかったら即刻首を落とすぞ!」と怒っています。この記述はまさしくその時代の「兵(つわもの)の家」=軍事貴族に対するものと何ら変わるところはありません。また、自分だけでなく武芸に秀でた者を郎党として身の回りを固め、常日頃から軍事訓練を行って自分の武力に磨きをかけていたことが読みとれます。

藤原保昌は藤原道長の家人・家司になりましたが、それが結構信任厚く、肥後、丹後、大和、摂津の国司を勤め、また藤原道長に薦められ53歳のときに和泉式部の最後の夫になっています。

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英雄百人一首 (緑亭川柳(川柳金蔵) 国文学研究資料館

当時の貴族社会では武人としても有名で、『宇治拾遺物語』や『今昔物語』には、盗賊の袴垂(定番ですね)が、夜道をひとりで笛を吹き歩く男の着物を襲おうとしたが気押されて襲えず・・・ と言う有名な逸話があります。『今昔物語』には他にも登場しています。
室町時代の『御伽草子』にも含まれる『酒呑童子』の物語に登場する武将にも源頼光、渡辺綱、坂田金時などとともに藤原保昌が出てくるほど。『酒呑童子』の物語は室町時代に作られたもので源頼光も藤原保昌もそのような事をした訳ではないのですが。

徹底はしてはいない「兵の家」

「今昔物語」が書かれたのはだいぶ時代が下がった平安時代後期ですが、藤原保昌と同じ時代にこのようなことも。
蔵人藤原範基は武芸に秀でていたそうですが右大臣藤原実資は「もってのほかのことだ、範基が武芸を好むことは万人が許さないことである。彼は父母ともに武者種胤(子孫)ではない!」と言うようなことを言ったとか(1028年7月24日条)。これも伝統(故事来歴)を重んじる当時の貴族社会の一般的思考でしょう。と同時に「イエ」の概念の萌芽が読みとれます。

同じ時代に藤原保昌は源頼信平致頼平維衡と並んで「優れた武者」として語られ、一方で蔵人藤原範基は彼は父母ともに武者種胤(子孫)ではない!」と右大臣の日記に書かれる。
何か象徴的です。 「兵の家」が概念として成立する、徹底はしていないが「兵でない家」と区別され始めるのがちょうどこの頃なのではないでしょうか。

この藤原保昌も、時代は下って平安時代後期の「今昔物語」巻第二五第七話「藤原保昌の朝臣、盗人の袴垂に値へる話」で「家を継ぎたる兵(つわもの)にも非ず・・・」は良いにしても「但し子孫の無きを、家に非ぬ故にや、と人言いけるとなむ語り伝えたるとや」などと書かれてしまいます。いくら武芸に秀でていようとも「兵(つわもの)の家」でなければ認めらない。まあ能楽の家元の一族が歌舞伎で身を立てようとか、華道の家元が茶道を起こそうとするみたいなものと考えれば解りやすいかもしれません。がそれも「今昔物語」が書かれた平安時代後期(院政期)にはそこまで定着していたと言うふうに読んだ方が良いでしょう。

ちなみに蔵人藤原範基が右大臣藤原実資に「彼は父母ともに武者種胤(子孫)ではない!」と日記に書かれたのは彼が自分で家人を斬り殺したからです。人に命じて殺したのなら問題は無かったのでしょう。また武者種胤であればそのようなことも「当然でしょ」と思われたと言うことです。

ところで、藤原実資の時代(院政以前)には「父母ともに」と云われたことも記憶に止めておいて良いかもしれません。完全に武士の時代には「父」だけが問題となります。

逆の例もあります。
室町時代の『御伽草子』に英雄として登場する武将源頼光は確かにまごうことなき「兵の家」の氏長者(いや、源氏の氏長者は村上源氏ですが)でしたが、物語の中ではともかく、実際の人生は皇太子時代から三条天皇に仕え、988年春宮権大進、1004年春宮大進(権が取れる:「御堂関白紀」4月20日条)、1011年正四位下( 「権記」10月19日条)、1014年内蔵頭として賀茂祭に参加(「小右記」4月18日条)。
そしてその間も含め備前守、美濃守、 伊予守、摂津守と大国の受領を歴任、しかしほとんど任国には行かず、三条天皇の側近くに仕え、諸大夫層の上の方、つまり中の上の普通の貴族として一生を終えています。