兵の家各流・平氏 良兼・公雅流 |
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良兼流平良兼 100[平高望次男or3男]常陸国真壁郡羽鳥。下総介。承平5年(935)源護と共に平将門と争う。従五位上。天慶2年(939)出家、没 平家人物辞典 平公雅(きんまさ) 110「承平7(937)年11月5日を以って、介・平良兼、掾・源護、ならびに掾・平貞盛、良兼の子供である平公雅、公連、秦清文に、将門に追捕すべきの官符が武蔵・安房・上総・常陸・下野の国司に下された」 2004年度改訂版
〜新将門記〜 天慶三年から天慶五年(942年)の間に、公雅は安房守に任じられる。将門没後、良兼流(武蔵・伊勢)は、将門に好意的であった良文流(武蔵・下総・上総)と結び、国香流(常陸・伊勢)と対立。『千葉大系図』には、「父良兼の領地は良文がこれを領する故に、公雅は伊勢国郡郷を賜る。」とする。天慶五年(942年)武蔵守に任じられる。承平・天慶の争乱により荒廃していた武蔵国・金龍山浅草寺、公雅により再興。平公雅と浅草 その他: 観音様と浅草のり 平致利 111[父、平公雅] 平致成 112[父、平公雅]祖 平致頼 113[父、平公雅] 『今昔物語集』には、平致頼(公雅の子)・公正(公雅)は、興福寺方の要請により出兵するも、延暦寺方にも縁故あるため撤兵し、興福寺の末寺から比叡山延暦寺の末寺となる。致頼の弟の入禅は、比叡山延暦寺の僧。 平公雅と浅草 大江匡房は『続本朝往生伝』のなかで、一条天皇の頃の代表的な武士として、源満仲・満正・頼光、平致頼(良兼の孫。国香の弟良茂の孫とも),平維衡を挙げている。桓武平氏の系譜3 中世の説話集「十訓抄」に優れた武士として、源頼信・藤原保昌・平致頼・平維衡が並んで挙げられ、この四人がもし、互いに相争うのならば必ず命を失うはずと。 長徳4 998 平致頼と平維衡が北伊勢で合戦 平維衡親子との2代の争いの調停で平維衡親子は西を、平致頼系(長田)は東の海上交易、新田開発を主とする事になり、調停の礼として紺瑠璃壺を東大寺に寄贈。 平致経[父、致頼] 左衛門大尉 (尊卑分脈) 従五位下 1021年(治安1)左衛門尉平致経と弟内匠允公親が、前年東宮史生安行を殺害していたことが明らかになった。(『左経記』) 検非違使は伊勢において致経の郎党を逮捕。その自白により、彼らは東宮史生安行だけではなく、以前に滝口信濃介を一条堀川の橋の上にて殺害、更に東宮亮藤原惟憲を殺害しようと3日間狙っていたと。東宮亮藤原惟憲は道長の家司でもあり、どん欲な受領としても有名で最後は三位にまで登ったれっきとした貴族。その殺害の動機は私怨とか。(橋昌明『伊勢平氏の興隆−清盛以前』p20-24) 『今昔物語集』巻22の14話にも登場。明尊僧正が宇治殿藤原頼通に三井寺に使いして夜の内に戻るべしと命ぜられ、その護衛に平致経がついた。平致経は徒でついてきたので明尊僧正はとても心細くおもったが、その内辻辻で騎馬武者が合流し、30人以上になったと。「大矢の左衛門尉」はこの話しの最後に出てくる。 平致光[父、致頼] 太宰権大監 (尊卑分脈)
平致頼[父、平公雅]太宰大監 (尊卑分脈) 平致遠[父、平公雅] 従四位下 (尊卑分脈) 平公基[父、平良兼 兄平公雅] 平八生[父、平公基] 陸奥国押領使 (『類聚符宣抄』第7 1006年(寛弘3)3月9日 太政官符 |
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