兵の家各流・平氏 平家(平正盛〜平清盛)

平正盛

国香−貞盛−維衡−正度正衡−正盛−忠盛清盛
所領、北伊賀の鞆田・山田。藤原為房(白河院近臣),顕季,祗園女御の郎等

  • (1079〜98頃)隠岐守。(1097)伊賀国の私領20町余りを六条院(白河上皇・賢子の女是子内親王旧御所・菩提寺)に寄進し、院の北面の武士から白河法王の側近となる。 正盛は受領(隠岐守)の順番待ちをする間、白河院の近臣藤原為房の郎等となっており、この所領寄進も為房の仲介。
  • (1099〜1103頃) その翌年、正盛は隠岐よりもはるかに実入りの良い若狭守に栄進。 若狭からの収入で白河院の御願寺である尊勝寺の曼陀羅堂を造進し、その功により若狭守を重任(ちょうにん)。任期終了後には一転、因幡守に。
    ただ、白河院にも、正盛を重用理由があった。当時隆盛を極めていた武門は、前九年・後三年の役で名を馳せた源義家の一門。しかし、源氏は代々摂関家に奉仕し、軍事面から藤原氏の台頭を支援していました。そのため、白河院政を強固なものにするためには源氏に代わる独自の武力を掌握、かつそれをアピールする必要があった。
    白河院は正盛に、源氏と対抗し得るだけの武名をあげさせるべく、その機会をうかがう。
  •  (1106〜08頃)因幡守のとき(1108年1月)源義親追討の功で但馬守。
    但しやらせの可能性大。大々的な凱旋パレード。
    より詳細には、義親を追討するべく正盛が京を出立したのは1107年12月19日。出立に先立って作法通り京の義親の邸宅に三度鏑矢を射込んで門柱を引き切り、意気揚々と京を後にし、その後正盛から義親討伐の報告はわずか一ヶ月後の翌正月19日。使いによると正月6日には義親および従類五人の首級をあげたと。、この報告を聞いた白河院は正盛の帰還を待たずに勧賞を行い、正盛を但馬守に抜擢。
    しかし摂関家からは「分不相応」と顰蹙。中御門宗忠の日記『中右記』によると、「最下品の正盛が第一国である但馬に任じられることを世人は納得していない」と記し、さらにそれは「白河院の寵によるもの」と喝破。ただし最下品とは後に忠盛が「「伊勢瓶子(平氏)は素甕(眇)なり」とあざけられた武士だからと言う貴族の侮蔑ではなく家の挌のこと。国には大・上・中・下と4階級の挌があり最初の隠岐は下国、若狭は中国それに対して但馬は上国。(と言っても石高は少ない、一般に同じ石高でも京都に近い方が挌は高い。税の運搬コストも考えてのことか? ところで この図は間違っていないか? 父親の平正衡が任じられた出羽も上国だからそんなに分不相応にも見えないが?)
  • そして正月二十九日、白河院をはじめ都の貴賤の熱狂的な出迎えの中、義親の首を携えた正盛は威風堂々と都大路を練り歩いた。こうしたパレードは白河院は良くやった。正盛の前は源義綱だった。ともに義家に代わる新たなヒーローの登場を印象づけ、加えて院が武力を持つことを印象づける為のもの。
    これについて
  • 天永元年(1110)丹後守。賀茂・石清水八幡大塔造営。白河法皇御願寺の阿弥陀堂造営。
  • (1113)頃、備前守。
  • 永久2年(1114)備前守重任。
  • 元永2年(1119)正五位。12月、郎等が鎮西平直澄追討。従四位下。
  • 保安元年(1120)讃岐守。
  • 右馬権頭。(1121〜49) 

参考: 平家人物辞典   桓武平氏の系譜4 「武士の成長と院政」(下向井龍彦)、「院政の展開と内乱」 (元木泰雄編)

 

平忠盛

国香−貞盛−維衡−正度正衡正盛−忠盛−清盛

  • 天仁年間(1108,09)に但馬守。
  • 天永2年(1111)検非違使。左衛門尉。
  • 天永4年(1113)3月、従五位下。
  • 元永2年(1119)左衛門尉。
  • 保安元年(1120)伯耆守。
  • 保安2年(1121)院の昇殿許可。
  • (1123頃)越前守。
  • 大治2年(1127)従四位下。
  • 備前守(1126〜1135頃)。
  • 大治4年(1129)山陽・南海両道追討。7月、正四位下。
  • 長承元年(1132) 内昇殿許される・備前守重任。
  • 長承元年(1132)昇殿。11/23、殿上闇討。田舎武士の昇進をねたんだ公卿が「伊勢瓶子(平氏)は素甕(眇*)なり」とあざけったと言われる *眇(すがめ):片盲とか背が小さいとか卑しと言う意味もあるらしい。
  • 保延元年(1135)4月、中務大輔。8月、瀬戸内海海賊追討で美作守。
  • 天養元年(1144)正四位上。
  • 久安元年(1145)播磨守(〜51頃)。
  • 久安2年(1146)2月、刑部卿。和歌『平忠盛朝臣集』  平家人物辞典 

平清盛

国香−貞盛−維衡−正度正衡正盛忠盛−清盛

  • 元永元年(1118)誕生
  • 保安元年(1120)7/12六位・院非蔵人。白河院の昇殿許可
  • 大治4年(1129)1月、元服・叙爵。1/6、従五位下。1/24、左兵衛佐
  • 天承元年(1131)1/5、従五位上
  • 保延元年(1135)1/5、正五位下。8/21、従四位下
  • 保延2年(1136)4/7、中務大輔
  • 保延3年(1137)1/30、兼肥後守
  • 保延6年(1140)11/14、従四位上
  • 久安2年(1146)2/1、正四位下。2/2、安芸守。中務少輔
  • 仁平2年(1152)兼中務大輔
  • 任平3年(1153)家督継ぐ
  • 保元元年(1156)7/11、播磨守
  • 保元3年(1158)8/10、太宰大弐。後白河院別当。大和国知行国主に

平家人物辞典 

平家盛

  • [平忠盛次男。母、池禅尼藤原宗子]
  • 1120頃誕生(大治2年(1127)説有り)。
  • 長承3年(1134)3/11、蔵人。
  • 永治2年(1142)4月左兵衛佐。
  • 康治2年(1143)従五位上。
  • 久安3年(1147)正五位下。
  • 久安4年(1148)1/28右馬頭従四位下。常陸介兼任。
  • 久安5年(1149)没(30才未満で死)

平家人物辞典 

平経盛

  • 平忠盛3男 天治2年(1125or24)誕生。
  • 久安6年(1150)6月、従五位下。無官。
  • 保元元年(1156)保元の乱、御所西南陣で守護。
  • 9月、安芸守。閏9月、常陸介。
  • 保元2年(1157)従五位上。平家人物辞典 

平教盛

  • [平忠盛4男。母、太皇太后宮権大夫藤原家隆娘・待賢門院女房]
  • 大治3年(1128)誕生。
  • 安4年(1148)従五位下・左近衛将監。
  • 平2年(1152)淡路守。
  • 平3年(1153)従五位上。
  • 元元年(1156)7/11、淡路守。7/17、昇殿。
  • 保元2年(1157)正五位下。
  • 保元3年(1158)4月、左馬権頭。12月、大和守。
  • 保元4年(1159)1月、従四位下。平家人物辞典 

平頼盛

  • [平忠盛5男。母、池禅尼藤原宗子]妻、八条院乳母宰相局娘・大納言局(俊寛姉妹)。八条院に出仕。鳥羽院判官代 天承元年(1131,32,33)誕生。
  • 久安2年(1146)皇后宮権少進。鳥羽院昇殿。
  • 久安3年(1147)従五位下。
  • 久安5年(1149)常陸介。
  • 久安6年(1150)従五位上。
  • 仁平2年(1152)常陸介。
  • 仁平3年(1153)正五位下。
  • 保元元年(1156)安芸守。
  • 保元元年(1156)7月、保元の乱。7/11、常陸守。7/17、昇殿。閏9月、安芸守。
  • 保元2年(1157)1月、右兵衛佐。10月、中務権大輔。従四位下←貞観殿建設。三河守。
  • 保元3年(1158)中務権大輔。8月、常陸介。10月、三河守。従四位上。

平家人物辞典 

平忠度

[平忠盛6男。母、丹後守藤原為忠娘(or熊野新宮の娘)・鳥羽法皇女房・仙洞御所女房]
天養元年(1144)誕生。熊野で育つ。

平家人物辞典 

平忠正(忠員,,忠貞)

[父、平正盛。母は正妻]兄、平忠盛
右馬助。従五位上。高陽院殿上。仁平3年(1153)頃には蔵人五位(五位蔵人?)。保元元年(1156)保元の乱で崇徳上皇方で敗戦し出家。還俗させられ改名?忠貞。7/28、六条河原で斬首

平家人物辞典