源国房
(?〜1119)正四位下 信濃守 伊豆守 土佐守 伊予守 鶉(うずら)郷を私領地とし (東大寺茜部荘の荘司ともなり ってホントか?)、更なる勢力拡大を進めながら、平安時代末期における「在地武士の領主への移行」となる代表的人物? そうか? 在地武士だろうか。京武者、と言うか武家貴族ではないか? 参考:美濃源氏
土岐一族 土岐氏美濃守護への道
源光国
(1063〜1147)従五位下 検非違使 出羽守 父国房の美濃での活躍期には検非違使として在京、1113年延暦寺・興福寺抗争で鴨東河原防衛。領地では隣接する東大寺領茜部荘に対する侵略を激化、鶉(うずら)郷の住民らは郷司の指揮のもと「強盗二盗、放火殺人」を繰り返し(東大寺の訴えか?)、私領拡大を父と共に大いに進める。1109年、源義家の家督を継いだ義忠が何者かに(本当は義光だが)に殺され、疑いをかけられた源義綱が美濃に逃れてきたとき、源為義とともにこれを討伐。1128年4月出羽守。
参考:
源光信
(1093〜1156)従五位下 出羽判官 検非違使 出羽守 検非違使として在京、朝廷警護の活躍は「鳥羽院四天王の第一なり」と高名で、僧兵の強訴をなどを取り締まる。平正盛に討伐されたはずの源義親を名乗るものが後に何人も現れ、1130年10月 検非違使だった源光信の館の前で源義親同士が合戦に及び、怒った光信は11月に騎兵20騎、歩兵40〜50名を率いて勝った方の源義親を寄宿先(前関白藤原忠実の鴨邸)に夜襲し、その郎党十数人とともに切殺した。参考:
「武士の成長と院政」p296 (広大:下向井龍彦) 「保元の乱」では百騎を率いて戦う。
源光保(泰)
(1137年検非違使左衛門少尉。1154年出雲守。1156年正四位下) [父、源光国。母、神祗大副大中臣輔清娘]兄、土岐光信 1156年6月、保元の乱の前、鳥羽殿を守護。源義朝より位は高い。平治の乱(1159)前半で藤原信西を発見、斬首。但し後半の二条天皇が六波羅に脱出して以降は清盛側に。保元の乱自体が当初反信西の色彩が強く、源光保は二条天皇派の軍事貴族として反信西の一点で後鳥羽院派の反信西勢力、藤原信頼と共闘したものと思われる。平清盛は最初は中立派だった。後半は共通の敵信西無き後の院政派と二条天皇親政派の分裂か?摂津源氏の頼政一党も後半では義朝と戦う。 1160年6月、後白河上皇の命を狙った疑いで、薩摩国配流(川尻で誅殺)
。これ以降平清盛の軍事独裁が始まる。 参考: 「院政の展開と内乱」p74(京大:元木泰雄)
源光基
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〜1163)従五位下 蔵人 検非違使 伊豆守 伊賀守 左衛門尉・検非違使として在京。「保元の乱」や三年後の「平治の乱」に名があり、平治物語絵巻には騎馬武者姿で登場、その戦功により伊勢国の一部が与えられ伊賀守に。 参考:
土岐光衡
(1159〜1206)従五位下 郡戸判官代 美濃守 蔵人、左衛門尉 光基の弟光長の三男で、光基の養子となって家督を継ぎ、鎌倉幕府の御家人として活躍。将軍源頼朝が富士の裾野で巻狩りを行なった時も、「吾妻鏡」に土岐三郎として出名。 参考:
しかしこんな説も
3 土岐氏の系図の具体的な問題点
そのそも、土岐氏の始祖(初代)とみられるのが鎌倉初期、『東鑑』建久四年(1193)五月八日条の記事に見える「土岐三郎」であり、将軍家頼朝の富士裾野の藍沢の夏狩の随行者として現れる。この者は一般に光衡と想定されているが、この比定が正しいかどうかは不明(相模の梶原一族・糟谷氏、武蔵の岡部氏に続き、常陸の宍戸氏、相模の波多野・河村氏に続く掲載順から)。土岐氏関係の系図では、光衡を土岐始祖とするのが多い。
土岐氏が清和源氏頼光流の国房(頼光の孫)−出羽守光国−出羽守光信−伊賀守光基の流れを実際に汲んでいるかは、いまのところ、系譜の確認・史料裏付けができない。とくに伊賀守光基に実子があるにもかかわらず、弟光長の子とされる光衡が後継者となって、これが土岐氏の初代となったという点については事情が不明であり、いまだこの関係の説明資料は管見に入っていない。
『東鑑』では、建保四年(1216)から嘉禎二年(1236)にかけて見える土岐左衛門尉光行が土岐氏の実質的な初出としてよいのかもしれない。同書では、鎌倉時代の土岐一族の者はほかに見えない。
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