兵の家各流・源氏 大和源氏 |
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源頼親(大和・周防・淡路・信濃等守、正四下) 1017年3月11日、即位したばかりの後一条天皇の行幸で賑わう京で、検非違使の警護がそちらに集中した隙を狙ったのか、7〜8騎の騎馬武者と10人あまりの歩兵が六角・富小路の清原致信の館を襲撃しました。清原致信は『枕草子』で有名な清少納言の兄です。 その実行犯の一人は秦元氏の子で、秦元氏は源頼光の弟、大和源氏の源頼親の従者です。事の起こりは、清少納言の兄清原致信が先の藤原保昌の手先として、大和国で源頼親をバックに威を誇った当麻為頼を暗殺したからで、清原致信を襲撃し殺したのはその報復です。 この事件を聞いた藤原道長は「件の頼親、殺人の上手也。度々この事あり」と日記に書いています。(『御堂関白記』1017年3月11日条) 源頼房
源頼俊1069年に陸奥守 清原氏の協力も得て奥州北部の追討を敢行した。白河法皇の父後三条天皇が天皇の権力が絶大であった頃の、桓武天皇の故事にならい、自身の権威を示すべく始めたものと。(元木p145) ただしこの追討は在庁官人藤原基通が陸奥国の蔵の鍵(字はちがうけど)を奪うなどの反抗に合って成果を上げることが出来なかった。藤原基通を捕縛したのは当時下野守であった源義家。藤原基通も秀郷流か? 源頼治中務丞 宇野親治宇野流(大和源氏)の出身で大和守頼信の四代の後胤、中務丞頼治の孫、下野権守親弘の長子。母は高倉院女房の伊予内侍、大和国宇野を本拠とし、宇野七郎と称する。 |
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