兵の家各流・源氏    大和源氏

新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集[第8冊] p67

源頼親

(大和・周防・淡路・信濃等守、正四下)
参考:摂津源氏 

1017年3月11日、即位したばかりの後一条天皇の行幸で賑わう京で、検非違使の警護がそちらに集中した隙を狙ったのか、7〜8騎の騎馬武者と10人あまりの歩兵が六角・富小路の清原致信の館を襲撃しました。清原致信は『枕草子』で有名な清少納言の兄です。

その実行犯の一人は秦元氏の子で、秦元氏は源頼光の弟、大和源氏の源頼親の従者です。事の起こりは、清少納言の兄清原致信が先の藤原保昌の手先として、大和国で源頼親をバックに威を誇った当麻為頼を暗殺したからで、清原致信を襲撃し殺したのはその報復です。

この事件を聞いた藤原道長は「件の頼親、殺人の上手也。度々この事あり」と日記に書いています。(『御堂関白記』1017年3月11日条)

源頼房

 

源頼俊

1069年に陸奥守

清原氏の協力も得て奥州北部の追討を敢行した。白河法皇の父後三条天皇が天皇の権力が絶大であった頃の、桓武天皇の故事にならい、自身の権威を示すべく始めたものと。(元木p145)

ただしこの追討は在庁官人藤原基通が陸奥国の蔵の鍵(字はちがうけど)を奪うなどの反抗に合って成果を上げることが出来なかった。藤原基通を捕縛したのは当時下野守であった源義家。藤原基通も秀郷流か?

源頼治

中務丞

宇野親治

宇野流(大和源氏)の出身で大和守頼信の四代の後胤、中務丞頼治の孫、下野権守親弘の長子。母は高倉院女房の伊予内侍、大和国宇野を本拠とし、宇野七郎と称する。
1156年保元の乱の直前で藤原頼長方につき、馬上十騎ほど、全員鎧兜に身を固め、武器をもった兵士二十数人、身分の高いもの低いものあわせて三十数人を従え、京に入ろうとするところを平基盛の軍勢は百騎と遭遇。し平基盛の詰問に「左大臣殿のご召集によって、新院のお味方に参上するのである。源氏は二人の主人をいただくことはないから、宣旨であるといっても、内裏には参ることはできない」と返答。合戦に及ぶが捕らえられる。その後、赦免され大和に戻り勢力保持。これは親治が大和国内で興福寺と対立関係にあることに目をつけた後白河天皇による興福寺牽制のための政治的措置だったと言われている。
本貫の地宇野荘は父親弘との不和により弟妹に譲渡されていたが、相論の末1155年宣旨により親治の知行が認められた。親治は同荘を醍醐寺三宝院の勝尊に寄進し、自ら知行安泰を図った。