鎌倉七口切通し 泉ヶ谷多宝寺跡・覚賢塔 |
1日目巨大な五輪塔を発見なだらかな尾根を降りていくと、ん? あれは何だ! 異様に大きな五輪塔が。いや、この辺にそういうものがあると読んだことがあるので、すぐにそれと思いましたが、でもこの辺と言うのは亀ヶ谷の東ぐらいしか覚えていなくって。だいたい自分が何処を歩いているのかも判らなかったし。いや、1日目もちゃんとGPSを持って行ったのですが、曇りでおまけに森の中で、衛星の電波など正確に拾えず全く用をなさなかったんです。あきらめて切っていました。 見た感じはそれほど風化もしておらず、そんなに古いとも思えませんでしたが、実はえらい古い、要するに鎌倉時代後期のものだそうです。極楽寺の忍性達、律宗ですね。律宗の門徒以外あの時代にこういう固い石(安山岩)を彫れる石工は鎌倉には居なかったようですから。 2日目もう一度巨大五輪塔へ1日目は前のページの石碑に気がつかず、だから2つ目の小切通しにも気が付かずに左(南)に分かれた尾根の上から覚賢塔を見つけたのですが、2日目は2つ目の小切通しを降りたほんのちょっと先があの巨大五輪塔の西側の尾根でした。 多宝寺長老・覚賢異様に大きな五輪塔、その大きさ、その他の特徴から江戸時代の「新編鎌倉志」では忍性の墓とされていたそうです。関東大震災でこれが倒れ、それを直したあともまた土砂で埋もれかり、それを昭和51年4月に修復したそうです。その時の「淨光明寺五輪塔修理工事報告書」によると、内部から銅製の瓶器が5個見つかり、そのひとつに「多宝寺覚賢長老遺骨也」と彫られていたことから、嘉元4年(1306年)に入滅した多宝寺長老・覚賢の墓と判ったとか。それ以降これは覚賢塔と呼ばれています。ただしこの覚賢と言う長老については文献上ほとんど記録が無いようです。 高さは約3m。真言律宗の祖、西大寺の叡尊(この人も鎌倉に来たそうです)の五輪塔が台座から上1丈1尺(3.40cm)で、真言律宗ではこれを越える五輪塔は無いそうです。その後西大寺末寺の開山・長老の墓塔はその地位に応じた一定の大きさで建てらたそうです。 覚賢塔の大きさいずれにしても巨大です。写真では高さを聞いてもどれぐらいの大きさか実感がわかないでしょうが、後ろに小さな五輪塔があるのが判ります? あれは決してミニチュア模型ではありません。たしかに小ぶりではありましたが普通の五輪塔です。 他に人が居ればその大きさが実感できたでしょうが、あいにく私ひとり、そこで2日目には大型ウエストバックを置いてみました。あの青いのがそうです。マウンテンスミスの公称20Lのもので、建て横だいたい40cmぐらいあります。人の胴があれぐらいと思ってください。私の胴はそんなに太くはありませんが。 追記2012.4.15に行ったとき、他に人が居ました。これをご覧下さい。デカイでしょ。
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