銭洗弁天お帰り編.1 寿福寺 |
下に下りると、民家とお墓が入り交じった変なところです。(笑) ですからこれは後ろを振り返った光景で、どちらの降り口でも下りたら左へ行きましょう。墓地の方です。 さて、墓地の突き当たりを崖沿いに右へ進むと矢倉群があります。 さて、矢倉群を見学したあとぐるりと回って元来た道へ、山から降り立ったあたりから最初の民家の先を左に行きます。岩をくりぬいたトンネルに出たら、それは右側です。左側に行きましょう。 すると、あれれ? 民家の間を歩いていたと思ったのに何故かお寺の中に! 行く手には山門が(下)、後ろには本堂(上)が! ちょっとばかし「ここは何処、私は誰?」状態が味わえて面白いです。ここは言うまでもなく寿福寺の参道です。ちなみに上の写真の本堂は正月の間だけ開放されます。 山門を出て振り返ると、あぁ本当に寿福寺だぁ、と。(笑) ここは頼朝の父で平治の乱で敗れ尾張で殺された義朝が館を構えたところ、現寿福寺の義朝の館は「鎌倉之楯」(天養記)とも呼ばれています。後に九条兼実が「玉葉(ぎょくよう)」に書いた「鎌倉城」はこの「鎌倉之楯=館」のことだと思います。このあたりの歴史はこちらをご覧下さい。 吾妻鏡によると、1180年10月6日に鎌倉入りした頼朝は翌日、父の館跡であるここにますやってきますが、義朝を祀ったお堂があったこと、もうひとつは土地が狭かったために現在の鶴ヶ岡八幡を中心としてその脇(東側)に館を構えたと。「吾妻鏡」にはこうあります。 10月6日 乙酉 そ頼朝の死の確か翌年、北条政子の夢に頼朝の父、義朝が現れて、今は沼間の館(逗子)に居るが鎌倉の館に戻りたいと言ったので、義朝の別邸を管理していた三浦氏に掛け合い、遺品等を亀ヶ谷の館跡に移し寺を建てたのがこの寿福寺です。 他の季節は寺院と神社 index・寿福寺からどうぞ |