銭洗弁天お帰り編.1   寿福寺

下に下りると、民家とお墓が入り交じった変なところです。(笑)
岩の割れ目から下りると下の写真の先の方、その手前の石の階段を下りるとちょうどこの写真を写したあたりになります。(地図はこちら

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ですからこれは後ろを振り返った光景で、どちらの降り口でも下りたら左へ行きましょう。墓地の方です。


さて、墓地の突き当たりを崖沿いに右へ進むと矢倉群があります。
鎌倉のお寺にはどこでも、と言うかお寺でなくともこうした矢倉が多いのですが、少なくとも鎌倉時代以降はこれら矢倉はお墓です。鎌倉は平地が少ないので鎌倉中では平地にお墓を作ることは禁止されていたようです。例外は由比ヶ浜の方にありましたが。
しかし、矢倉に埋葬されたのはそれなりの身分、財力のあるもので、全ての人間が矢倉に埋葬された訳ではありません。普通の人間は鎌倉中から一歩外へ出た、あるいは出かかったあたりで火葬され、あるいは捨てられたようです。それが地獄谷。現在の建長寺、極楽寺はその地獄谷です。化粧坂の外側、葛原岡大堀割のあたりもそうです。鎌倉周辺の山々で発掘調査をするとそうした茶毘(だび)址と火葬された骨片などが多数発見されます。
朝比奈砦・・、と思って発掘した場所でも、出てきたのは茶毘址と、大瓶に入れられた多数の火葬された骨片でした。それに対して矢倉は○○家の墓か、あるいは誰々の墓として独立しています。
この寿福寺の矢倉群が観光客に有名なのは北条政子と実朝の墓と伝えられる矢倉があるからです。下の写真の白い板がそれです。でも伝承ですね。政子は大町の安養院にもそう伝えられる墓がありますし、実朝に至っては公暁に殺されたあと首は行方不明です。

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さて、矢倉群を見学したあとぐるりと回って元来た道へ、山から降り立ったあたりから最初の民家の先を左に行きます。岩をくりぬいたトンネルに出たら、それは右側です。左側に行きましょう。

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すると、あれれ? 民家の間を歩いていたと思ったのに何故かお寺の中に! 行く手には山門が(下)、後ろには本堂(上)が! ちょっとばかし「ここは何処、私は誰?」状態が味わえて面白いです。ここは言うまでもなく寿福寺の参道です。ちなみに上の写真の本堂は正月の間だけ開放されます。

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山門を出て振り返ると、あぁ本当に寿福寺だぁ、と。(笑)

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ここは頼朝の父で平治の乱で敗れ尾張で殺された義朝が館を構えたところ、現寿福寺の義朝の館は「鎌倉之楯」(天養記)とも呼ばれています。後に九条兼実「玉葉(ぎょくよう)」に書いた「鎌倉城」はこの「鎌倉之楯=館」のことだと思います。このあたりの歴史はこちらをご覧下さい。

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吾妻鏡によると、1180年10月6日に鎌倉入りした頼朝は翌日、父の館跡であるここにますやってきますが、義朝を祀ったお堂があったこと、もうひとつは土地が狭かったために現在の鶴ヶ岡八幡を中心としてその脇(東側)に館を構えたと。「吾妻鏡」にはこうあります。

10月6日 乙酉
相模の国に着御す。畠山の次郎重忠先陣たり。千葉の介常胤御後に候す。凡そ扈従の軍士幾千万を知らず。楚忽の間、未だ営作の沙汰に及ばず。民屋を以て御宿館に定め らると。
10月7日 丙戌
先ず鶴岡八幡宮(由比の元八幡を遙拝し奉り給う。次いで故左典厩頼朝の父、左馬頭義朝のこと)の亀谷の御旧跡を監臨し給う。即ち当所を点じ、御亭を建てらるべきの由、その沙汰有りと雖も、地形広きに非ず。また岡崎平四郎義實、彼の没後を訪い奉らんが為一梵宇を建つ。仍ってその儀を停めらると。

そ頼朝の死の確か翌年、北条政子の夢に頼朝の父、義朝が現れて、今は沼間の館(逗子)に居るが鎌倉の館に戻りたいと言ったので、義朝の別邸を管理していた三浦氏に掛け合い、遺品等を亀ヶ谷の館跡に移し寺を建てたのがこの寿福寺です。


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