兵の家各流・源氏    河内源氏

頼信頼義義家義綱義光義親義国 義康  義重義忠義信為義義朝義賢 義広

源頼信

  • 968 (安和1) 誕生と推定、母はおそらく藤原元方の孫娘(致忠の娘)、藤原保昌は叔父
  • 花山天皇退位事件で花山天皇を私も一緒に出家するからと騙した藤原道兼に仕える、
    道兼は兄道隆が父の後を継いだことを不満に思っており、「自分は主人道兼の為に関白道隆を暗殺する」と放言し、それを伝え聞いた兄頼光に窘められる。(「古事談」巻4-12)
  • 987 (永延1)左兵衛尉で彗心院の造堂料を負担した功によって叙爵 (「少右記」 2月19日条)
  • 991 (正暦2)、関白藤原道隆の子、頭中将藤原伊周(これちか)と乱闘事件、おそらくは双方の従者の小競り合い?(「小記(少右記)目録」 1月4日条)
  • 994  (正暦5)、京内外の盗賊を捜索・追補する捜盗(大索)に、叔父源満正、兄頼親、平維将(貞盛子)らと並んで動員されている。(「本朝世紀」3月6日条)
  • 999 (長保1) 上野介 (「御堂関白記」9月2日条)道長に献馬
    ただし道長との結びつきは記録上この2回だけであり、兄らと比べれば希薄。
  • 1012 (長和1) 常陸介 (「御堂関白記」10月23日条)道長に献馬、
    常陸介在任中に平忠常を攻め、忠常は「名簿」を提出
  • (時期不詳:相模守の説も)
  • 1028(長元2)伊勢守  (平忠常の乱,の始まりの頃)
  • 1029(長元3)甲斐守
  • 1031(長元5)平忠常の乱,
  • 1031(長元5)美濃守
  • (時期不詳で「尊卑分脈」には鎮守府将軍の記述も有るが裏付け無し)
  • 1045頃河内守、従四位上 この頃、河内国石川郡大国郷壷井荘を本拠としたか。
  • 1046年(永承元)誉田八幡宮に願文(がんもん)、そこには「先人新発、其先経基、其先元平親王、其先陽成天皇、其先清和天皇、(以下略)」と自らの祖を列記している。これに従うと、経基の父は、清和天皇の王子貞純親王ではなく、陽成天皇の王子元平親王となる。
  • 1048 没
  • 参考: 王朝の変容と武者」(元木泰雄編)より横沢大典「源頼信・河内源氏の成立」
    清和源氏(河内源氏) 鎌倉史人物紹介 源経基 - Wikipedia 世ノ所謂清和源氏ハ陽成源氏ニ非サル考 

源頼義

  頼義は河内の守頼信朝臣の子なり。性、沈毅(ちんき)にして武略多し。最も将帥の器たり。長元の間、平忠常坂東の姦雄として、暴逆を事と為す。頼信朝臣追討使として平忠常並びに嫡子討つ。軍旅に在る間、勇決群を抜き、才気を世に被ふ。坂東の武士、楽属するの者多し。

素小一條院の判官代たり。院、畋獵(でんりょう)を好み、野中に赴く所に、麋(び=大鹿)、鹿、狐、兎、常に頼義の獲る所となす。好んで弱弓を持ちて、発つ所の矢、羽飲せざるということなし。たとえ猛獣といえども弦に応じ必ず斃す。その射芸の巧み、人に軼(すぎ)たること斯くの如し。上野守平直方朝臣、その騎射に感じ、竊に相語りて曰く、「僕、不肖といえどもいやしくも名将の後胤たり。偏に武芸を貴ぶ。しかるにるに未だ曾って控絃の巧み、卿の如き能者を見ず。請う。一女を以て、箕箒(きそう)の妾(しょう)と為せ」
と。則ち彼の女を納れて、妻として三男二女を生ましむ。長子義家、仲子義綱等なり。判官代の労に因りて、相模の守と為る。俗、武勇を好み、民多く帰服し、頼義朝臣の威風大いに行わる。

拒捍(こかん)の類、皆奴僕(どぼく)の如し。しかして士を愛し施しを好む。会坂以東、弓馬の士大半門客と為す。任終わりて上洛し、数年間を経て、忽ち朝選に応じ、征伐将帥の任を専す。拝して陸奥守として鎮守府将軍を兼ね、頼良を討たしむ。天下素より才能を知り、その採択に服す。  「陸奥話記」

 

  • 988 生まれ? 母親は相当身分が低かった?
  • 河内守 、伊豆、甲斐、相模、武蔵、下野守 、
  • 1039(長暦3)義家誕生?
  • 1048(永承3)4月17日 源頼信、81歳で没す。法名蓮心。
  • 1051(永承6)源頼義、陸奥守に任じられ、安倍頼良追討の任に就く
    これまでは源氏は陸奥にあまり縁は無かった。むしろ関東の平氏、藤原氏の一族が多く陸奥守、鎮守府将軍になっている。
  • 1053(天喜1)鎮守府将軍を兼任
     安倍頼良、この前後に投降し大赦の礼で赦され頼時と名を改める
  • 1056(天喜4)源頼義、陸奥守の任期切れ
    8月3日 前陸奥守兼鎮守府将軍源頼義、安倍頼時追討の宣旨を得る。前九年の役開始
    このきっかけは頼義陰謀説が強いが、ただし元木泰雄氏は頼義離任後に安部氏の勢力復活を恐れた権守藤原説貞ら任用国司、在庁官人が主導ではと。
    朝廷はなかなか認めず追討官符も遅れたために板東の武士は静観との説も(p418)

    12月29日 陸奥守還任
  • 1057(天喜5)源義家、頼義軍に合流
  • 1062(康平5)春 源頼義の任期が満了し高階経重に
  • 源頼義、清原光則、武則と連合し。9月17日前9年役終結
  • 1062(康平6)2月 安倍貞任追討の功により頼義正四位下伊予守、義家出羽守
    しかし頼義は当初任国には行かず、京で10余名の武士達の恩賞獲得工作に奔走
     8月 相模由比郷に八幡宮を建立
  • 1075(承保2)没 88歳


参考: 清和源氏(河内源氏) 鎌倉史人物紹介

源義家

  • 1039年(長暦3)義家誕生? 母は平直方娘
    生没には諸説あるが68歳で卒去は諸史料で一致しており、卒年については同時代で信頼性も高い中右記の1106(嘉承1)7月15日没(68歳)から逆算して1039年(長暦3)誕生とする説が有力である。(安田p23) 
  • 1051-1062年 前九年の役
  • 1063年(康平6)2月 従五位下出羽守
  • 1064年(康平7) 『朝野群載』には「父の任地とかけ離れているため孝養を尽くせない」として2年後の康平7年に越中への転任を希望したと。出羽は前九年の役の事実上の勝者清原氏の本拠地で、自分も参戦した前九年の役で義家の父頼義が頭を下げて参戦してもらった経緯があり、おそらくはそのため頭が上がらない、赴任しても何も出来なかったのか。
    この年義家は在京しており、美濃源氏の祖国房と合戦
  • 1070年(延久2) 下野守であったとき、陸奥で印と国庫の鍵を盗んだ藤原基通を捕らえる。(扶養略記8月1日条)
     当時の陸奥守は大和源氏の源頼俊で即位間もない後三条天皇が源頼俊らに北陸奥の征服を命じていたが、藤原基通の件で大和源氏源頼俊は事実上失脚。義家陰謀説(野口)も。
  • -1075年 下野守
  • 1079年(承暦3)8月 美濃国で源国房と闘乱を起こした右兵衛源重宗(満正流4代か?)を追討
  • 1081年(永保1)2月 相模由井八幡宮を修理
     9月14日 検非違使とともに園城寺の悪僧を追補 (扶桑略記)
    10月14日 源義家と源義綱、両名とも本官が無かったため関白藤原師実の前駆の名目で兵を率いて白河天皇の石清水八幡宮行幸を護衛、 (水左記、為房卿記)
    12月 4日 白河天皇の春日社行幸に際して100名の兵を率いて天皇を警護 (水左記)
    の頃から義家・義綱兄弟は白河帝に近侍
  • 1083年(永保3)9月 清原家衡、清原真衡と兵を構える
    源義家、陸奥守兼鎮守府将軍、後三年の役
  • 1086年(応徳3)9月28日朝廷、奥州に源義綱を派遣することを議するが実現せず (後二条師通記)
     10月 7日 朝廷、源義家の解文を審議。
     11月 2日 藤原師実、源義綱に奥州合戦のことを問う
     11月26日 堀川天皇践祚。白河上皇院政を開始
  • 1087年(寛治1)9月23日  源義光私的に陸奥下向。朝廷官を解く
    12月26日 出羽金沢柵にて清原武衡、家衡を破る、国解にて正式に官符を要請するが追討官符は下されず恩賞もなし。後三年の役集結 (中右記)
  • 1088年(寛治2)陸奥守罷免 藤原基家替任
  • 1089年(寛治3)朝廷、源義家のことを議す
  • 1091年(寛治5)1月 源義綱、藤原師実が節会に参内する際の行列の前駆を努める
  • 1091年(寛治5)6月 義家の郎党藤原実清と義綱の郎党藤原則清、河内国の所領の領有権を争い、源義家・源義綱が兵を構える。
    鎌倉時代後期に、それまでの諸日記を編纂した『百錬抄』(ひゃくれんしょう)の1091年(寛治5)6月12日条には、「前陸奥守義家、兵をしたがえて京に入ること、あわせて諸国の百姓、田畠の公験をもって好みて義家朝臣に寄する事を停止す」  しかし一次史料の『後二条師通記』の同日条に「寄進停止」はない。
  • 1092年(寛治6)2月 源義綱、春日祭に藤原忠実が春日祭使となって奈良に赴く際の警衛
  • 1092年(寛治6)5月12日 朝廷、源義家の荘園の立庄を停止(『後二条師通記』 )。これは『百錬抄 』にはない。
  • 1093(年寛治7)10月源義綱、陸奥守に。(中右記10月18日条)
    義家の後任、陸奥守藤原基家が藤原清衡が挙兵の企てがあることを奏上してきたため。(安田p130)
  • 1093年(寛治7)12月 源義綱、源俊房の慶賀の参内の際に前駆を努める。(中右記)
  • 1094年(寛治8)出羽国で平師妙、師季が反乱。隣国の国司である源義綱に追討命令が出,義綱の郎党藤別当、師妙を討ち取る。
  • 1094年(寛保1)3月8日 源義綱、平師妙、師季の首級を携えて入京、この功により義綱、陸奥守から従四位下美濃守に (中右記)
  • 1095年(寛保2)10月24日 延暦寺僧徒、日吉神輿を奉じて入京し美濃守源義綱を訴える
  • 1096年(永長1)12月15日 朝廷、源義家に陸奥の未進の砂金を督促  (中右記)
  • 1097年(永長2) 2月25日 朝廷、未進の貢金を督促  (中右記)
  • 1098年(承徳2)正月23日 陸奥守の受領功過定の官奉(白河院の意向により)
    4月2日 小除目により正四位下 (中右記)
    10月23日 源義家、院昇殿を許される。中御門宗忠、「義家朝臣は天下第一武勇の士なり。昇殿をゆるさるるに、世人、甘心せざるの気あるか。但し言うなかれ。」と評する。(中右記)
  • 1101年(康和3)7月7日 次男義親、鎮西に於い太宰大弐大江匡房に告発される。朝廷,義家に義親召還の命を下す。 (殿暦)
  • 1102年(康和4)2月20日 源義家の従者首藤資通、義親召問の官吏を殺害し、獄所に拘留される。 (中右記)
    12月28日 朝廷、源義親を隠岐に配流
  • 1104年(長治1)10月30日 源義家、義綱、命を奉じて在京の延暦寺悪僧等を逮捕する。(中右記)
  • 1106年(嘉承1)源義国、叔父新羅三郎義光等と争う(常陸合戦)
    6月10日  常陸合戦で源義家に実子義国を召し進ぜよとの命が下される。義国と争っていた源義光、平重幹等にも、東国の国司に捕縛命令が出る。 (永昌記)
  • 1106年(嘉承1)7月15日 没(68歳)  (中右記)
    7月16日 中御門宗忠、源義家を「武威天下に満つ、誠に是れ大将軍に足る者なり」と評する。 (中右記)
  • 1107年(嘉承2)義綱、延暦寺僧徒の入京を防ぐ。
  • 1107年(嘉承2)12月19日 源義親出雲国目代を殺害、因幡守平正盛に追討の宣旨
    1108年(天仁1)1月6日 平正盛、源義親を討つ
    1月29日 平正盛、源義親の首級を持って京に凱旋
    中御門宗忠、源義家を「年来武者の長者として多く無罪の人を殺す」と評 (中右記)

 

「鷲の棲む深山には、概ての鳥は棲むものか、同じき源氏と申せども、八幡太郎は恐ろしや」(『藤原師実 、源義綱に奥州合戦のことを問う

  • 1091(寛治5)1月 源義綱、藤原師実が節会に参内する際の行列の前駆を努める
  • 1091(寛治5)6月 義家の郎党藤原実清と義綱の郎党藤原則清、河内国の所領の領有権を争う。源義家・源義綱兵を構え、兄源義家と洛中で合戦に成りかけ2人の主人関白藤原師実が調停。朝廷は宣旨を五畿七道に下してこの戦いの為に兵が上洛するのを禁じる  後二条師通記、
  • 1092(寛治6)2月 源義綱、春日祭に藤原忠実が春日祭使となって奈良に赴く際の警衛 
  • 1093年(寛治7)10月の除目で、義綱は陸奥守にに就任。これは義家の後任、陸奥守藤原基家が藤原清衡が挙兵の企てがあることを奏上してきたためと推定されている(安田p130)。
  • 1093(寛治7)12月 源義綱、源俊房の慶賀の参内の際に前駆を努める。中右記
  • 翌年の1094年(寛治8)にはを郎党に追捕させ
  • 1094(寛保1)3月8日 出羽国で在地の開拓領主・平師妙(もろたえ)、師季が出羽守を襲撃。隣国の国司である源義綱に追討命令が出、義綱の郎党藤別当、師妙を討ち取る。源義綱、平師妙、師季の首級を携えて入京、この功により義綱、陸奥守から従四位下。中右記
  • 1095年(嘉保2)正月の除目で、事実上陸奥よりも格の高い美濃守に就任する。しかし、美濃における比叡山領荘園との争いがおこる。
  • 1095(寛保2)10月24日 延暦寺僧徒、日吉神輿を奉じて入京し比叡山は義綱配流を要求して強訴に及ぶ。関白師通は大和源氏の源頼治(中務丞)と義綱に命じてそれを実力で撃退する。しかし、そのときも比叡山側に死者が出たため比叡山側は朝廷を呪詛。その4年後に関白師通が死んだため、京の公卿達は比叡山の呪詛によるものと恐れたらしい。源義綱は美濃守の任期は全うしたが、その後受領に任官することはなかった。
  • 1104(長治1)10月30日 源義家、義綱、命を奉じて在京の延暦寺悪僧等を逮捕する。中右記
  • 1109年源義忠暗殺の容疑で佐渡国配流
  • 1132年佐渡国で自害
  •  


    参考: ウィキペディア

    源義光

    八幡太郎義家が引き起こした後3年の役のときに、新羅三郎義光が兄を助ける為に官職をなげうって駆けつけたと言う美談?が「奥州後三年記」にある。

    将軍の舎弟左兵衛尉義光、おもはざるに陣に来れり。将軍にむかひていはく、ほのかに戦のよしをうけたまはりて、院に暇を申侍りていはく、義家夷にせめられてあぶなく侍るよしうけ給る。身の暇を給ふてまかりくだりて死生を見候はんと申上るを、いとまをたまはらざりしかば、兵衛尉を辞し申てまかりくだりてなんはべるといふ。義家これをきヽてよろこびの涙ををさへて・・・「奥州後三年記」

    鎌倉の大宝寺は佐竹屋敷跡と言われ、境内には新羅三郎源義光ゆかりの多福神社があり、墓地中腹には、義光の墓とつたえる変形の宝篋印塔もあるそうです。多福神社の説明にはおおよそこんなことが書いてあります。佐竹氏の祖先・新羅三郎源義光が永保三年(1083)の後三年の役の時、兄・源義家とともにこれを鎮め、甲斐守となってここに館を構え、以来佐竹氏の居館となったと。もちろん伝承です。

    だいたい新羅三郎源義光は主に近江(滋賀県)に住んで都に出仕していました。当時の郡軍事貴族はみなそうですが。墓所も近江国、今の滋賀県大津市園城寺町です。
    確かに兄義家の子、源義国と常陸国の縄張り争いで確か何年も合戦(小競り合い?)を行っていますし、常陸平氏と連携して常陸に根を下ろそうともしていますから関東に居なかった訳ではないのですが、鎌倉とは考えにくいです。旅荘ぐらいはあったかもしれませんけど。

    近くの八雲神社の略記には「由緒 永保年中、新羅三郎源義光公の勧請」とあります。

    『今昔物語集』と『十訓抄』にある話しは以下の通り。『十訓抄』では常陸国の国境に近い陸奥国菊多庄(勿来関(なこそせき)付近)

    後三年の役のあと源義光は東国の荘をめぐって院近臣の藤原顕季(あきすえ:美福門院の祖父)と争ったが、藤原顕季に理があったらしい。しかし白河法皇はなかなな裁定をくださない。ある夜、白河法皇は顕季に「なんじはあの荘一カ所が無くなってもまったく困ることはなかろう。だが義光はあの一カ所に命を懸けているのだそうだ。もし道理のままに裁定したら、無鉄砲者の武士がなにをしでかすかもしれぬとためらっているのだ。いっそ譲ってやってはどうか。」と言う。顕季はそれに従い、源義光を呼んで譲り状を書いて与えた。源義光はおおいに喜び、座をたって顕季の宅の侍所に座を移し、即座に「名簿(みょうぶ)」を書いて藤原顕季に差し出した。侍所に座を移すことも「名簿(みょうぶ)」を差し出すことも、これは顕季に臣従する、家来になると言う意味である。しかしそれから1年、源義光はいっこうに藤原顕季のもとに顔を出さない。

    そんなある日、藤原顕季は夜になって2〜3人の雑色(召使い)だけを連れて伏見の鳥羽殿から京に退出したところ、しばらくすると甲冑をおびた騎馬武者5〜6騎が前後についた。藤原顕季は恐ろしくなって雑色に尋ねさせたところ、騎馬武者の言うには「夜になって御供人もなく御退出になるので、刑部丞殿(源義光)がお送りするようにわれわれを差し向けたのです。」と答えたと。(兵(つわもの)の家−摂関時代

    • 1103(康和5) 刑部丞 (『殿歴』長治2年2月28日条)
    • 1106(嘉承1)源義国、叔父新羅三郎義光等と争う(常陸合戦)

    (左兵衛尉 、右馬允(じょう)、兵庫助、刑部丞、常陸介  、従五位上 )
    参考: 義光と佐竹一族 ウィキペディア

    源義親

    (対馬守 、1101 出雲配流)
    参考: 鎌倉史人物紹介

    源義国 

    (帯刀長、式部丞、加賀介、従五位下) (足利判官義国、足利式部大夫義国とも)
    『尊卑分脈』では寛治5(1091)年生。仁平4(1154)年出家。久寿2(1155)年6月26日死去
    ただしこの説は矛盾が多い。実際には源義家の家督を継いだ弟の源義忠が生まれた1083年よりも前のはずである。源義忠とは母親が同じで藤原有綱の娘。
    「足利市史」では1082年。根拠不明だが弟の源義忠よりも前とのことか。

    源義家の三男であり、長男源義宗が早世、次男源義親が西国で反乱を起こしたことから源義家の家督を継ぐ可能性が高かったが、1106年に叔父の義光と常陸合戦を起こして義光ともども勅勘を蒙り源義家の家督は弟の源義忠が継ぐ。

    源義国と足利荘の起こり

     足利と源氏の係わりは、その子(三男あるいは四男)義国〔1091〜1155.65歳〕に始まる。義国は、父義家がおそらく下野守であったときに拓いたと考えられる足利の地を譲り受け、康治元年(1137)、彼はこの地を北面の武士として仕えた鳥羽法皇〔1103〜56.54歳〕の御願寺である安楽寿院に寄進して「足利荘」として立券した。又、隣接する簗田の地も伊勢神宮の御厨(みくりや)として寄進したが、既にこの地帯に足利郡司として勢力を張っていた藤原秀郷流の足利家綱(藤姓足利氏という)と、その領有権をめぐって争った結果勝訴し、ここに足利荘と簗田御厨を併せた地域に地盤を築くことになった。

     こうして義国と足利の関係が始まるが、しかし義国は元来中央貴族日野家の一門の中宮亮藤原有綱の娘を母とし、京都で生まれ育ったいわば都の武士であり、足利で居住することはなかったのであるが、久安六年(1150)宮中参内の途中でのトラブルが基で天皇の勅勘を蒙り、以来下野足利の「別業(べつごう)」(居宅のある私領)に引きこもったという。

     義国は従五位下式部丞になっていたので、足利式部大夫と呼ばれ、久寿二年〔1155〕六月二六日に卒去した。(千田孝明 「足利氏の歴史− 尊氏を生んだ世界−」)

    寛治5(1091)年生?これは変、
    1106(嘉承1)源義国、叔父新羅三郎義光等と争う(常陸合戦)
    6月10日  常陸合戦で源義家に実子義国を召し進ぜよとの命が下される。義国と争っていた源義光、平重幹等にも、東国の国司に捕縛命令が出る。 (永昌記)

    大治2(1127)年、次男、義康が誕生。
    康治1(1142)年、所領足利を安楽寿院に寄進し足利庄として成立させる。
    康治2(1143)年、簗田の地も伊勢神宮の御厨(みくりや)として寄進
    久安5(1149)年、義国の郎党、京洛において乱闘し、義国が責任を問われる。
    久安6(1150)年、帯刀長(たてわきのおさ)のとき、右近衛大将大炊御門藤原実能の侍・随身に陵辱されたことの報復で、郎党が実能の屋敷を焼き払い勅勘を蒙り、足利の別業に蟄居。
    仁平4(1154)年出家
    久寿2(1155)年、死去

     

    源義康

    •  源義国の子、母は源有房の娘、兄に新田義重が居るが母方の位から嫡子となる。
    • 父義国と同様、鳥羽法皇の北面の武士として仕え左衛門尉に任ぜられた。
    • 鳥羽法皇の没後勃発した保元の乱(1156)では、義康は後白河天皇方として源義朝、平将門と共に参戦、崇徳上皇の白河殿に夜討をかけている。『兵範記』および『保元物語』には、平清盛三百騎、源義朝二百騎、源義康百余騎が白河殿を攻めたとある。その功によって昇殿を許され、従五位下検非違使に叙任された。
    • 又、頼朝の父、源義朝と同様に熱田大宮司季範の娘(孫娘)を妻として、義朝とも義理の兄弟?の関係にある。源義朝は現在言われるような源氏の頭領と言うのは父との関係から少々疑問で義康と義朝はほぼ同等、ただし義朝の方が相模・武蔵・上総の国司を通じて武士の動員を図ったことが源義朝二百騎、源義康百余騎の差であろうと現在では思われている。

     

    源(新田)義重

    源義家の子義国の長男ながら庶子

    • 上野国新田郡を開拓
    • 近隣の秩父党、藤原姓足利党との抗争で頼朝の父、源義朝と提携し、頼朝の兄悪源太義平に娘を嫁がせる
    • 「大炊の助」(大炊(おおい)寮の次長) 従五位下

     

    源義忠 

    河内守、検非違使(尊卑分脈)
    近年の研究の結果、義忠が義家の後継者に選ばれた時期は今までの説より早いという説が有力になってきているらしい。義忠が上国の河内守であるのに源義親は下国の対馬守でしかなく、源義国は後年、加賀介になるがかなり差がある。
    義家が早い時期から義忠を河内源氏の本拠地たる河内国の守とすべく運動をしていたと考えると義忠後継が早い時期に決まっていたものとされる。一方で朝廷が源氏内部に事件を起すために兄を差し置いて弟に高位要職を与えたという説もある。これはただの想像だろう。そもそも河内守任官は「尊卑分脈」以外に記述はあるのだろうか。
    新興の伊勢平氏と折り合いをつけるべく、平正盛の娘を妻にし、平家との和合をはかった。しかし河内源氏の中では新興の伊勢平氏との対等の関係を結び、摂関家でなく院政に接近した義忠を快く思わない勢力も存在したと言う説のあるらしいか、出典を明記すべきである。「ではないか」という逞しい想像かと。
    義忠の子孫の多くは北面の武士、または近衛府や東宮舎人となった。名を成したのは三男の源忠宗の孫である源季貞で、源大夫判官という曽祖父と同じ通称を名乗り、平家方の将として源平の合戦に参戦、一族である石川源氏(義忠の弟の義時の子孫)を討伐する。長男経国は源義国の庇護を受けていたと思われる。その後、保元の乱の時には義朝の側近として鎌田政清らとともに活動している。義忠の末裔は、源氏棟梁の子孫でありながら義忠の妻が平家出身であることから、義忠の死後その子らが平家で養われていたとする研究もあるらしいが、子が母方で養われるのはこの時代普通のこと。
    参考: ウィキペディア

    源義信

    (号:対馬太郎:従四位下左兵衛佐)
    弟源為義が叔父源義忠の養子となって源氏の棟梁となるり義信は源氏の主流から外れる。理由は妾腹であったためといわれ保元の乱でも平治の乱でも表に現れず。しかし官途では弟の源為義より好調で最終的には従四位下左兵衛佐まで昇進。源氏の内部では、源為義が源氏の棟梁とされたが為義は何度も解官により昇進が遅れ、兄である義信の方が高位。
    次男 源義政 正五位下左馬権頭。
    三男 源義資 従五位兵衛尉、出羽守。
    参考: ウィキペディア

    源為義 

    • 1109 左衛門尉 、
    • 1136年以前に藤原忠実に臣従か (「保元・平治の乱・・・」元木泰雄p51)
    • 1142 従五位下 (「保元・平治の乱・・・」元木泰雄p51)
      1142年藤原氏の氏寺興福寺の悪僧15名が奥州に配流されるが実はこの15名は「法文を知る」者で、大和源氏出身の悪僧(僧兵の親玉)信実に従わなかった為とか、この護送を源為義が行っている。為義が摂関家の私兵として機能していたことが解る。(「院政の展開と内乱」元木泰雄p55)
    • 1143 藤原頼長に名簿を捧呈し臣従 (「保元・平治の乱・・・」元木泰雄p51)
    • 1146 左衛門大尉  
    • 1150年藤原忠実が忠通から氏長者を奪い、東三条殿を接収したときも警護を担当。
      参考:鎌倉史人物紹介  ウィキペディア

    源義賢

    藤原頼長の男色の相手(頼長「台記」)、頼長から能登の荘園の預所に任ぜられるが税未納で解任。
    参考: ウィキペディア  鎌倉史人物紹介

    源義憲(志田先生義広)

    • 源為義の三男。義賢の同母弟、義憲とも
    • 若年時に都において帯刀先生の職
    • 関東に下向し(義賢とほぼ同時期か?)常陸国信太荘を開墾し本拠地とし通称を志田(志太、信太)三郎先生
    • 治承四年(1180年)頼朝挙兵後の佐竹攻めのとき頼朝に会見し敵意は無いことを表明
    • 1183年下野国の足利忠綱と連合して頼朝討滅の兵を挙げるが下野国野木宮で頼朝配下の小山朝政、その援軍、源範頼・結城朝光・長沼宗政破れ敗走
      吾妻鏡 養和元年の条に野木宮合戦前後が書かれているが、吾妻鏡のその他の複数の年には野木宮合戦は寿永2年のことと書かれており、その寿永2年の条が吾妻鏡 には丸々1年なし。
      そこから寿永2年の記録が編集時に間違えてごっそり養和元年に編集されてしまったものであろうと言われている。詳しくは石井進「鎌倉武士の実像」収録の「志田義広の蜂起は果たして養和元年の事実か」を参照
    • その後、同じく甥であり、兄であった義賢の子である木曽義仲軍に参加、このことが義仲と頼朝との対立の一因となる
    • 元歴元(1184)年5月伊勢国羽取山で波多野・大井・山内氏らと戦ったあと斬首された(吾妻鏡)

    参考:  鎌倉史人物紹介 ウィキペディア源義広

    源為朝

    参考:  鎌倉史人物紹介

    源頼賢

    義朝・義賢らの弟。
    1147年に左兵衛少尉。僧徒の強訴防御に活躍、父とともに藤原頼長一族に奉仕。義朝の東国下向、義賢の解官後、為義の後継者となったとされる。1155年に春日社の訴えで解官。同年養父だった兄義賢が甥の義平に殺害されたため報復に下向して信濃国で鳥羽院領を侵害したとして院側近となっていた義朝に追討の院宣が下される。その後帰京。
    翌年の保元の乱では父為義とともに崇徳院方に参戦。敗戦後、父とともに斬首。
    参考: ウィキペディア  鎌倉史人物紹介

    源義朝

    • 1123年生 母は白河院近臣藤原忠清の娘
    • 1136かそれ以降、上総へ(上総御曹司)
    • 1141 三浦義明の娘との間に義平生まれる
    • 1144 大庭御厨の濫妨
    • 1145 千葉常重・常胤親子から相馬郡の譲り状を責め取り伊勢神宮内宮に寄進
    • 1147 待賢門院の側近・摂関家とも深い熱田宮司家の藤原季範の娘との間に頼朝
    • 1152 美福門院(八条院母・家成の従兄弟)の乳母父藤原親忠の子親弘が相模守に
          八条院山内荘立荘はこの頃か? 
    • 1153 従五位下・下野守、前任は鳥羽院近臣藤原宗長(池禅尼の兄弟)
    • 1155.6 待賢門院の子、後白河天皇即位
    • 1155.8 義平が叔父、源源義賢を武蔵の国に襲殺 
           このとき武蔵守は藤原信頼(平治の乱首謀者)    
    • 1156 保元の乱 、
    • 1156 右馬権頭 、
    • 1156 左馬頭 、
    • 1159 平治の乱  
      参考:(「保元・平治の乱を読みなおす」元木泰雄)
      頼朝の父義朝の頃 清和源氏(河内源氏)  鎌倉史人物紹介

     

    佐竹 隆義

    (1118- 1183年)初代当主・佐竹昌義の子。
    初名は詮義。通称は佐竹四郎。常陸奥7郡を領し、平治の乱では平清盛側。その後も平氏に仕清盛の奏請によって従五位に叙任された。1180年、源頼朝が挙兵時は京都に。1183年、66歳で死去
    参考: 義光と佐竹一族 ウィキペディア

    佐竹四郎秀義

    参考: 義光と佐竹一族 ウィキペディア