奈良平安期の鎌倉 頼朝の父義朝の頃 |
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上総曹司頼朝の父義朝は若い頃上総介の養君として育ち、上総曹司(上総の御曹司)と呼ばれていたことが『天養記』によって知られています。 上総国畔蒜(あひる)庄(現:千葉県君津市)は熊野山の荘園であり上総介が任されていたと思われます。熊野山は義朝の父為義が深い関係を持ち、諸国の熊野山の荘園のかなりのものを義朝の父為義が何らかの形で関わっていた可能性が高いのです。それらのことから義朝は当初上総国畔蒜(あひる)庄に居たのかもしれません。
その他、安房国の丸御厨、武蔵国大河土御厨なども源氏相伝の家領と『吾妻鏡』には言われています。安房国の丸御厨については
武蔵国大河土御厨についてはこちらです。
「相伝の家領」と言っても、本所の訳はないのですが。 鎌倉之楯その後に構えた館が現在の鎌倉・寿福寺です。という推定は2つの資料からなっています。ひとつは天養2年(1145年)3月4日、所謂『天養記』の初期バージョンに「其後義朝伝得、字鎌倉之楯令居住之間、俄号鎌倉郡内・・・・・」とあること。ちなみに事件そのものは天養元年(1144)9月及び10月です。もうひとつは『吾妻鏡』に、頼朝が鎌倉に入った直後の記事です。
後に政子がその「故左典厩(源義朝)の亀谷の御旧跡」に建てたのが寿福寺です。頼朝の死の確か翌年、北条政子の夢に頼朝の父、義朝が現れて、今は沼間の館(逗子)に居るが鎌倉の館に戻りたいと言ったので、義朝の別邸を管理していた三浦氏に掛け合い、遺品等を亀ヶ谷の館跡に移し寺を建てたのがこの寿福寺です。
ここで話が最初に戻りますが何故寿福寺なのか。 頼朝以前の鎌倉の道「奈良時代の道」で述べたように鎌倉には西から東に抜ける道が2本想定されます。ここでは北の道、南の道とします。その北の道は、山内から源氏山近辺を通り寿福寺前を通り、大倉から六浦に抜ける道です。その道が寿福寺(義朝館)の目の前を通り、六浦から海を渡れば上総国での本拠地・君津(推定)です。 南の道は旧東海道です。旧東海道の鎌倉から西の入り口は稲村路を想定します。根拠は稲村路のページに。鎌倉から東への出口は、名越坂説も根強いのですが鎌倉七口の名声からとしか思えません。ここでは「平家物語」の読み本系統である「源平盛衰記」に見える三浦氏のコースに着目して小坪坂を想定します。
「源平盛衰記」は腰越と稲村が逆に書かれていますが。 この2つの道を南北につなぐ道は2つ想定されます。東側は小町大路、私が三浦道と呼んでいる、筋違橋から宝戒寺の前を通り、大町から材木座につながる道です。ちなみに小坪坂は現在の光明寺の境内と推定されます。そこを通って頼朝は小坪に住まわせた亀の前(だっけ)の元に通ったんでしょうね。 西側は現在寿福寺前から市役所の前を通り、六地蔵で旧東海道(長谷小路・大町大路)にぶつかります。この道は鎌倉時代の名前は知られていませんが、和田合戦その他の記述からも想定されます。この道筋では、現在の鎌倉駅西側の市役所・御成小学校の位置に鎌倉郡衙が発掘されています。郡衙が機能したのは10世紀までで、義朝の頃には既に消滅はしているでしょうが、しかし道は案外残るものです。 そして陸の道だけでなく、海の道(海上交通)も使われたでしょう。というより、それがあって初めて鎌倉なのではないかと。鎌倉時代には、大町のあたりまで船で荷を運んだようです。その名残が夷堂(現:本覚寺)でしょう。エビス様はもともとは漁業海運関係の信仰が中心的であった蛭子神で、陸上でも福神の性格を備え始めたのは商業の発達する室町時代からだそうです。夷堂が本当に頼朝によって建てられたものかどうかはともかく、鎌倉時代中期、少なくとも日蓮の頃にはここにありました。ここに建てられた理由は、ここが海運物流のセンターで、そこから海(海運)の神様夷様が祀られたのだろうと思います。 もちろん義朝の時代もそこであったという訳ではありませんが、段葛のあたりは当時は湿地であったはずで、小舟なら小川を伝って十分寿福寺近辺まで行けただろうと思います。そうして見ると、「義朝伝得、字鎌倉之楯」「故左典厩の亀谷の御旧跡」は北は山内荘、東は六浦(六連)から両総へ、そして西には旧東海道で相模国府、京、南東には小坪、更にその先の三浦、そして海の道と、鎌倉における当時の交通の結節点であると見なすことが出来ます。 野口実氏は「豪族的武士団の成立」の中で当時の源氏他有力武士の館の多くは水上交通他、物流の要所を押さえていることを明らかにされていますが、それを義朝の館にも重ね合わせると、まさにその条件を備えているのではないでしょうか。 頼朝以前の鎌倉の寺社頼朝の鎌倉入り前からあったと見られる社寺は、鎌倉考古学研究所・馬淵和雄氏が『中世都市鎌倉成立前史』に挙げたところに従うとこうなります。
このほか大仏の高徳院の場所にも奈良時代からの寺があったとも言われます。また、現在の鶴ヶ岡八幡の地にも神社があり、現在の鶴ヶ岡八幡脇の丸山稲荷社に。更に『吾妻鏡』文治5年(1189)9月28日条で見つけたのですが、田谷の洞窟も頼朝以前から有ったと。頼朝が住民に聞いた話では坂上田村麻呂が西光寺と言うお寺を建て多聞天を安置したと。藤原利仁も出て来ます。 ただし藤原利仁云々の部分はおかしいですけどね。『吾妻鏡』編纂時に由来をたずねられた僧が、関東に関わる有名人や事件をごたまぜにして由来を捏造したと考えれば納得できます。2016.8.1 馬淵和雄氏は、武士ではご存じ梶原景時が梶原に、杉本義宗とその子和田義盛が二階堂に、佐竹義光が大町に・・と書いており、一瞬エッ!と思いましたが甲斐武田、常陸佐竹氏の祖、新羅三郎源義光の館のことじゃないでしょうか。源義光の伝承は確かにありますがちょっと眉唾です。 佐竹義光って書き方は止めて欲しいです。佐竹氏は義光の孫の昌義が佐竹冠者と称したところから始まると言うのが一般論なんで。昌義に始まる佐竹氏の系図で一生懸命義光を探してしまいましたよ。"A^^; 大庭御厨、相馬御厨への介入さて、義朝はここを拠点に三浦氏や中村氏を従えて藤沢の大庭の荘(御厨:みくりや)に侵入し、最後には大庭氏も従えて鎌倉党を吸収したようです。ちなみに三浦氏の三浦半島の、中村氏は早河荘の在地地主であると同時に相模国衙の在庁官人グループであったようです。 一方で攻められたのはかつて後三年の役で三浦の平太為次とともに源義家騎下で武名をはせた鎌倉権五郎景正の子孫鎌倉党の大庭御厨下司大庭景宗です。鎌倉党は源氏の郎党だったはず、それを何で義朝が攻める? 問題はそこですが、源頼義、義家の代から板東武者の「武家の統領」だったと言うのは事実ではなく、源頼義も義家も和泉国に本拠を置く京武者・武家貴族であり常に関東を掌握していた訳ではありません。鎌倉権五郎景正初め板東武者は恩賞目当てに武家貴族河内源氏に従っただけです。「鎌倉党は源氏の郎党だった」と考える方が実は間違いだったのです。詳細こちら:大庭御厨の濫妨 義朝はいつ頃からか上総介の元で育ちますが、成人してのち父為義が食い込んだ摂関家家産機構、熊野神社の荘園管理をベースに、中央への人脈によって土着した平家諸流、その他の土豪を掌握していきます。土着した平家諸流、その他の土豪にとっては中央の権門家、及び各国の受領(国司)層への仲介、周辺豪族との争い、調停を有利に運ぶ為の強い味方として源氏の貴種は機能します。 例えば千葉介が実質領主の相馬御厨ですが、1136年7月15日、下総守藤原親通が、相馬郡の公田からの税が国庫に納入されなかったと常重を逮捕、常胤から相馬郷・立花郷を親通に進呈するという内容の証文に無理矢理に常重・常胤から花押を責め取り、二郷を自らの私領としてしまいます。 義朝は強引ながらも、ともかく常胤、常澄、そして藤原氏の対立を調停し、千葉介氏も支配下に収め、という見方が一般的ですが、はたしてどうでしょうか。若干疑問も無い訳ではありません。 知家事(兼道)が山内の宅1180年に頼朝が鎌倉に入ったあと、すぐに住まいを作りますが、新築ではなく山内荘の豪族の館を移築したしたしたとか。その方が早いですからね。
ところでこの「知家事(ちけじ)兼道」とは何者だったのでしょうか? 大橋俊雄氏の『戸塚区の歴史』にはこの知家事兼道を山内首藤兼道と書いていますが根拠は示していません。現在はリンク切れですが、ネット上にはかつてこんな説が出ていました。 「知家事は公文所の役人で案主の下の位。兼道は恐らく郡衙の役人で山内家の家政も預かっているものだと思われる。」 「「知家事」とは、有力な家の内部の事務を処理する役目らしい。兼道はこの地を領有していた有力者の家来だったのだろう。」 「「知家事」とは有力者の家宰を意味し、首藤山内氏と関わりがあったのかもしれない。」 しかし、簡単に「そうなのか」と言う訳にはいきません。知家事(ちけじ)の「家」とは吾妻鏡建久3年(1192年)8月の条にあるように左右大臣、近衛大将、など上級貴族の家に置かれた政所の中の役職です。もっとも、律令制の「行政改革」の中で国衙機構にも政所が置かれたことがあるらしく、公卿だけとは断言は出来なくなりましたが、荘園での役職なら公文でしょう。成れて刑部丞の侍クラスの家の家政機構に「知家事」というのはどうでしょう? あるいは首藤氏の一族で京で摂関家に奉仕し知家事になっていた? 最近は「知家事にもなったことのある家の兼道」という意味で、兼道自身が「知家事」であったと考える必要はないのではないかとも思い始めました。九州では大蔵氏が有名ですが、相模国にも内蔵氏という一族が見え隠れします。それらは官職が名になったものです。よくよく考えたら、「築200年」は当時の建物からすればあり得ないですね。礎石建築の大寺院じゃないんですから。床があるだけで関東では大邸宅でしょう。堀立柱建築は土に埋めた部分が腐っていくのでそんなに長くは保ちません。 ところでその場所はちょうど私が住んでいる近くと言う説もあるらしいです。奥富敬之氏ですが。
確かに『鎌倉歴史散歩』は学術書ではないのですが、奥富氏はれっきとした歴史学者ですからねぇ、あんまりいい加減なことは書かないで欲しいです。 問題は、その解体した木材をどのルートで運んだか? 後の切り通しなら亀ヶ谷坂(かめがやつ) 、巨福呂坂(こぶくろ)がありますが、1180年に木材を運べるほどの道とは考えにくく、地形から言っても小袋谷交差点あたりから、あるいは江戸時代の中の道が藤沢方面と戸塚方面に分かれる水堰橋(台のスリーエフの前の橋、まさかそんなに歴史のある橋だったとは)から台峰に上がり、化粧坂から鎌倉中へ、というコースが一番考えやすいのですが、でもこれは「知家事(兼道)が山内の宅」が何処にあったのかにもよりますね。 2016.7.30 追記ひょんなことから「知家事は公文所の役人で案主の下の位。兼道は恐らく郡衙の役人で山内家の家政も預かっているものだと思われる。」と書かれたご本人にお会いしました。北道倶楽部のお遊び名刺をお渡ししたら、「あっ、北道倶楽部、知ってるよ」と。デヘ、おいらのサイトって有名?(*^_^*) と思ったら続けて「俺のこと批判した人だ!」と。「え〜、何処で?」「知家事兼道の件で」と。「う〜ん、10年ぐらい前にそんなこと書いた気もするなぁ、相手が誰だか知らなかったけど」と。 大昔のことなので不安になってこのページを見返し、『日本史広辞典』でも調べてみたんですが、そんなに間違ってはいないと思います。ただし「頼朝が「将軍に補せしめ給うの後」 に開いた政所の下級役人になったのでしょうか?」は撤回します。鎌倉幕府政所知家事は平盛時で、どうみても「知家事兼道」よりインテリで偉そう。 「「知家事」とは有力者の家宰を意味し、首藤山内氏と関わりがあったのかもしれない」ということについては、「知家事」の真ん中の文字「家」を名乗れるのは三位以上の公卿、親王などです。先に「鎌倉幕府政所知家事」と書きましたが、正確には二品頼朝の右大将家政所の知家事です。四位五位の者が置く場合は「知宅事」です(『日本史広辞典』による)。 「兼道は恐らく郡衙の役人で」については、今日も云いましたが、郡衙は10世紀半ばに鎌倉だけでなく全国何処でも消滅しています。武蔵国など「郡司」を名乗ることは結構ありますが、いくつもの郷を束ねる公的な役所としての郡衙はありません。ならば郡司とは何かというと、国司から一定のエリアの納税を請け負った者という意味で、そのエリアの大小で郡司だったり、郷司だったり、名主だったりはしますが、国司との関係は同じです。古代の律令制が崩壊して官職請負制に移行し、国司も四等官がそれぞれ朝廷から任命されるのではなしに、受領がその国に定められた納税を請け負うという段階の「負名(ふみょう)」「富豪層」「富豪の輩」「堪百姓」の平安時代後期の姿です。このあたりは「農村の変貌と戸田芳実の富豪層論」「10世紀以降の受領と国衙」をご覧下さい。なお「知家事」は「ちけじ」とも「ちかじ」とも読みます。 鎌倉の出口・六浦網野善彦氏は京都府福知山の桐村家に伝わる「大中臣氏略系図」のなかに、常陸国北部の那珂湊を本拠としてていた上総中五実経(上総権介の家、大中臣の五郎ぐらいの意味?)が、1157年に保元の乱の戦功により源義朝から「相州六連庄を賜る云々」と書かれているのをで見つけたそうです。 また、朝比奈の処で触れる上総介平広常は頼朝の兄の悪源太義平(母は三浦氏)直属の侍であり、少なくとも義朝時代から朝比奈切通の近くに館を持っていたという伝承もあります。義朝・義平親子と上総介の本拠地(現在の千葉県)への連絡ルートが六浦道でその六浦道の途中に出張所的なあるいは議員宿舎のような館を設けたと言うことなんでしょうか。しかしこの伝承がいったいどこから出たものなのか。私はかなり疑問視していますが。 2008.7.17更新 |
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