「玉葉」
九条 兼実(くじょう かねざね)の日記
1180年(治承4)9月3日〜10月1日「玉葉」
その「弟湛覺の城」、「熊野の湛増の館」と同じものではないが、同等とみなせ、この場合は「城」と「館」はほぼ同じ意味に使われている。
9月3日
伝聞、熊野権の別当湛増謀叛す。その弟湛覺の城、及び所領の人家数千宇を焼き払う。
鹿瀬以南併せて掠領しをはんぬ。行明同意すと。この事去る月中旬比の事と。また伝聞、謀叛の賊義朝の子、年来配所伊豆の国に在り。而るに近日凶悪を事とし、去る比新司の先使を凌礫す(時忠卿知行の国なり)。凡そ伊豆・駿河両国を押領しをはんぬ。
また為義息、一両年来熊野の辺に住す。而るに去る五月乱逆の刻、坂東方に赴きをはんぬ。彼の義朝の子に與力し、大略謀叛を企てるか。宛に将門の如しと。
10月1日「玉葉」
10月1日
伝聞、去る月晦の比、熊野の湛増の館にてその弟湛覺攻戦す。相互に死者多し。未だ落ちずと。また近江の国住人の中、召さるるの者有り。相禦の間度々合戦すと。凡そ近日在々所々、乖背せざると云うこと莫し。武を以て天下を治むの世、豈以て然るべきや。誠に乱代の至りなり。
1180年(治承4)11月5日「玉葉」
これより先、彼の国目代及び有勢武勇の輩三千余騎、甲斐武田城に寄せるの間、皆悉く伐ち取られをはんぬ。目代以下八十余人頸を切り路頭に懸くと。 同十七日朝、武田方より使者(消息を相副う)を以て、維盛の館に送る。その状に云く、年来見参の志有りと雖も、今にその思いを遂げず。幸い宣旨使として御下向有り。須く参上すべしと雖も、程遠く(一日を隔つと)路峻しく輙く参り難し。また渡御煩い有るべし。
仍って浮島原(甲斐と駿河の間の広野と)に於いて、相互に行き向かい、見参を遂げんと欲すと。忠清これを見て大いに怒り、使者二人頸を切りをはんぬ。 同十八日、富士川の辺に仮屋を構う。明暁十九日寄せ攻むべきの支度なり。而るの間、官軍の勢を計るの処、彼是相並び四千余騎、平常の陣議定めを作しすでにをはんぬ。各々休息の間、官兵方数百騎、忽ち以て降落し、敵軍の城に向かいをはんぬ。
拘留に力無く、残る所の勢、僅か一二千騎に及ばず。武田方四万騎と。敵対に及ぶべ からざるに依って、竊に以て引退す。
「甲斐武田城」は武田氏(甲斐源氏)の館のつもりでしょうが、「各々休息の間、官兵方数百騎、忽ち以て降落し、敵軍の城」はそれではなく、富士川の対岸の源氏の陣地の意味。要するに関東から京に出仕していた武士団はどんどん寝返っていったと。
1180年(治承4)12月1日「玉葉」
夜に入り人伝えて曰く、伊賀の国に平田入道と云う者(俗名家継、故家定法師男、定能兄と)有り。件の法師近州に寄せ攻め、手嶋の冠者を伐ち(党類郎従、相併せて十六人梟首、二人搦め得ると)、また甲賀入道(義重法師なり)の城を追い落しをはんぬと
この当時の武士団は多くても大体50騎ぐらい。その武士団が集まって数百〜千になります。従ってここでは数十騎ぐらいの戦闘でしょう。
12月4日「玉葉」
人伝えて云く、江州の武士等併せて落ちをはんぬ。三分の二、官軍に與力しをはんぬ。その残り城に引き籠もると。また聞く、奥州の戎狄秀平、禅門の命に依って、頼朝を伐ち奉るべきの由、請文を進しをはんぬと。但し実否未だ聞かず。
「城」は山下義経の館かと。
1180年(治承4)12月9日「玉葉」
伝聞、延暦寺衆徒の中、凶悪の堂衆三四百人ばかり、山下兵衛の尉義経(近江の国逆賊の張本、甲斐入道件の義経に與すと)の語を得て、園城寺を以て城と為し、六波羅に夜打ちに入るべし。また近江の国に進向する所の官軍等、その後を塞ぎ、東西より攻め落とすべきの由、結構を成すと。茲に因って経雅朝臣・清房(禅門息、淡路の守と)等、追って遣わさるべしと。また興福寺の衆徒、逐日蜂起し、宮大衆と称すと。
四郎房と云う者有り。武勇に堪たるの徒党、四百余人に及ぶ。これ禅門の方人たりと。
而るに悪僧等数百人出来し、件の四郎房を払いをはんぬ。関東の賊徒江州に攻め来たるの時、南京よりまた洛中に伐ち入るの由、支度を成すと。この事信受せられざるか。
「園城寺を以て城と為し」、武装して防御を固めたの意味
1180年(治承4)12月10日「玉葉」
また云く、只今南都より脚力到来す。衆徒すでに洛に入らんと欲し、終夜走り来たる所なり。大衆の勢以ての外と。てえれば、今日山の悪僧等を追討せんが為、官兵行き向かうの間、山科東の辺に於いて衆徒と降り合い、すでに以て合戦す。未だ事切れずと。申の刻に及び、大衆等引退し、籠城しをはんぬと。夜に入り、南都より告げ送りて云く、大衆蜂起すと雖も、僧綱以下制止を加えるに依って、和平しをはんぬと。
「籠城しをはんぬと」 武装して立て籠もったの意味
1180年(治承4)12月15日「玉葉」
「敵城」「近江山下城」は山下義経の館
一昨日、知盛・資盛等、敵城を攻む。甲賀入道並びに山下兵衛の尉義経等、徒党千余騎、即時に追い落とされをはんぬ。二百余人梟首し、四十余人捕り得る。残る所併しながら追い散りをはんぬ。件の首中に甲賀入道有りと(後聞無実)。
1180年(治承4)12月16日「玉葉」
南都の大衆、すでに入洛の由風聞す。然れどもその実無し。今日重ねて官兵等、近江山下城を攻むと。
吾妻鏡1180年(治承4)12月10日
山本兵衛の尉義経鎌倉に参着す。土肥の次郎を以て案内を啓して云く、日来志を関東に運すの由、平家の聴に達す。事に触れ阿党を成すの刻、去る一日、遂に城郭を攻め落とさるるの間、素意に任せ参上す。
彼の凶徒を追討するの日、必ず一方の先登を奉るべしてえり。最前の参向尤も神妙なり。今に於いては、関東祇候を聴さるべきの旨仰せらると。この義経は、刑部の丞義光より以降、五代の跡を相継ぎ、弓馬の両芸、人の聴す所なり。
玉葉と吾妻鏡では日付が逆転しているように見えるが、玉葉が伝聞だからだろうか。
1181年(治承5)1月25日1180年(治承4)
美濃の国の逆徒等、討伐せられをはんぬ(蒲倉城に籠もり、悉く誅せられをはんぬと)。
件の事、去る二十日の事と。官軍疵を被るの者、数十人に及ぶ。
城に籠もりる場所を「城」と言ったのだろう。蒲倉が人名でなければ地名であり、吾妻鏡以外には「○○城」と言う言い方は有ることになる。
1181年(治承5)1月18日「玉葉」
伝聞、官兵等美乃の国に入り、光長城を攻む。相互に死者多し。遂に光長が首を梟すと。彼の国の源氏等、光長の外、党類幾ばくならずと。而るにすでに宗たる者を誅伐しをはんぬ。今に於いては、美乃・尾張両国、共に以て敵対すべきに非ずと。
美乃の国は美濃の国
1181年(治承5)2月17日 「平家物語」
其日午の刻計り、伊豫の国より飛脚来り申けるは、当国の住人河野介通清、去年の冬より謀叛を起して、当国の道前道後の境なる高直(高縄)の城に楯籠たりけるを、備中国の住人、沼賀入道西寂、彼を討たんとて、備後の鞆より十余艘の兵船をととのへて、通清を攻む。昼夜九日ほど戦ひけれども、勝負をも決せず。
「高直の城」は「高縄城」
源平盛衰記では第二十六 知盛所労上洛事
同十七日、伊予国より飛脚ありて六波羅に著。披状云、当国の住人河野介通清、去年の冬の比より謀叛を発て道前道後の境、高縄の城に引籠る、備後国住人額入道西寂、鞆の浦より数千艘の兵船を調て、高縄城に推寄、通清をば討取て侍しか共、四国猶不静、西寂又伊予、讃岐、阿波、土佐、四箇国を鎮が為に、正二月は猶伊予に逗留す。
爰に通清が子息に四郎通信、高縄城を遁出て安芸国へ渡て、奴田郷より三十艘の兵船を調へ、猟船の体にもてなし、忍て伊予国へ押渡、偸に西寂を伺けるをも不知、今月一日、室高砂の遊君集て船遊する処に、推寄て西寂を虜りて、高縄城に将行て八付にして、父通清が亡魂に祭たり共申。又鋸にてなぶり切に頸を切たり共申。異説雖口多、死亡決定也、依之当国には、新井武智が一族、皆河野に相従。惣じて四国住人、悉く東国に与力して、平家を奉背と申たり。
「高縄城」が構えられた高縄山(愛媛県北条市)は高縄神社が祭られた霊山で、高縄神社はおそらく甘縄神社と同じような海に関わる「海人」の神社かと。
1181年(治承5)3月17日 「玉葉」
伝聞、秀平頼朝を責めんが為、軍兵二万余騎、白河の関の外に出る。茲に因って、武蔵・相模の武勇の輩、頼朝に背きをはんぬ。仍って頼朝安房の国の城に帰住しをはんぬと。
1181年(治承5)7月1日「玉葉」
兼光相語りて云く、越後の国の勇士(城の太郎助永弟助職、国人白川御館と号すと)、信濃の国を追討(故禅門・前の幕下等の命に依ってなり)せんと欲し、六月十三四両日、国中に入ると雖も、敢えて相防ぐの者無し。
殆ど降を請うの輩多し。僅かに城等に引き籠もる者に於いては、攻め落とすに煩い無し。仍って各々勝ちに乗るの思いを成し、猶散在の城等を襲い攻めんと欲するの間、信乃の源氏等、三手(キソ党一手・サコ党一手、甲斐の国武田の党一手)に分ち、俄に時を作り攻め襲うの間、険阻に疲れるの旅軍等、一矢を射るに及ばず、散々敗乱しをはんぬ。
大将軍助職、両三所疵を被る。甲冑を脱ぎ弓箭を棄て、僅かに三百余人(元の勢万余騎)を相率い、本国に逃げ脱がれをはんぬ。残る九千余人、或いは伐ち取られ、或いは険阻より落ち、終命す。
或いは山林に交り跡を暗ます。凡そ再び戦うべきの力無しと。然る間、本国の在廰官人已下、宿意を遂げんが為助元を凌礫せんと欲するの間、藍津の城に引き籠らんと欲するの処、秀平郎従を遣わし押領せんと欲す。仍って佐渡の国に逃げ去りをはんぬ。
その時相伴う所纔かに四五十人と。この事、前の治部卿光隆卿(越後の国を知行の人なり)、今日慥な説と称し院に於いて相語る所なりと。
1181年(治承5)9月10日 「玉葉」
通盛朝臣の軍兵、加賀の国人等の為追い降さる事一定と。仍って津留賀城に引き籠もり、軍兵を副うべきの由を申す。仍って武士等を遣わさんと欲すと。
1183年(壽永2)7月22日「吉記」
源氏等東坂並びに東塔惣持院に上り、城郭を構え居住すと。午の刻ばかり、平中納言
(知盛)・三位中将(重衡)等勢多に向かう。共に甲冑を着け、両人の勢二千騎に及ぶと。また夜に入り按察大納言(頼盛)下向す。今夜各々山科の辺に宿すと。
7月25日「玉葉」
寅の刻、人告げて云く、法皇御逐電と。この事日来万人庶幾う所なり。而るに今の次第に於いては、頗る支度無しと謂うべきか。卯の刻、重ねて一定の由を聞く。仍って女房等、少々山奥の小堂の辺に遣わす。余・法印相共に堂(最勝金剛院)に向かい、仏前に候す。この間、定能卿来たり。幽閉の所を尋ね出し、密々に隠し置きをはんぬ。
巳の刻に及び、武士等主上を具し奉り、淀地方に向かいをはんぬ。てえれば、鎮西に籠もり在ると。前の内大臣已下一人残らず。六波羅・西八條等の舎屋一所残らず、併せて灰燼に化しをはんぬ。一時の間、煙炎天に満つ。昨は官軍と称し、縦えば源氏等を追討す。今は省等に違い、若しくは辺土を指し逃げ去る。盛衰の理、眼に満ち耳に満つ。悲しむ哉。(略)或る人告げて云く、法皇御登山をはんぬ。人々未だ参らず。
暫く秘蔵有りと。平氏等皆落ちをはんぬるの後、定能卿登山しをはんぬ。件の卿に付け参入如何の由を申しをはんぬ。申の刻、落武者等また京に帰る。
敢えて信用せざるの処、事すでに一定なり。貞能一矢を射るべきの由を称すと。或いは又主上及び劔璽賢所等を具し奉り、鎮西に趣かんと欲す。而るに臣下無すべからず。仍って然るべきの公卿を取り具さんが為なりと。怖畏限り無しと雖も、忽ち計略に及ばず。天を仰ぎ運に任せ、三宝を念じ奉るの処、帰京の武士等、この最勝金剛院を以て城郭を構うべきの由、下人来たり告ぐ。仍って人を遣わし見せしむの処、すでに少々来たり趣くと。
同居すべきに非ず。追却すべきに非ず。仍って周章女房少々を相伴い、日野の辺に向かうの処、源氏すでに木幡山に在りと。仍って忽ち稲荷下社の辺に宿す。狼藉勝計うべからず。
1183年(壽永2)10月4日「玉葉」
有名な寿永二年十月宣旨です。
晩に及び大夫史隆職来たり。密々頼朝進す所の合戦注文、並びに折紙等を持ち来たる。
院御使の廰官持参する所と。件の折紙先日聞く所に違わず。然れども後代の為これを注し置く。
一勧賞を神社・仏寺に行わるべき事
右日本国は神国なり。而るに頃年の間、謀臣の輩、神社の領を立てず。仏寺の領を顧みず。押領するの間、遂にその咎に依り、七月二十五日忽ち洛城を出て、処所に散亡す。王法を守護するの仏神、冥顕の罸を加え給う所なり。全く頼朝が微力の及ぶ所に非ず。然れば殊賞を神社・仏寺に行わるべく候。近年仏聖燈油の用途すでに闕き、先跡無きが如し。寺領元の如く本所に付すべきの由、早く宣下せらるべく候、一諸院宮・博陸以下の領、元の如く本所に返し付けらるべき事、右王侯・卿相の御領、平家一門数所を押領す。然る間、領家その沙汰を忘れ、堪忍に能わず。早く聖日の明詔を降らし、愁雲の余気を払うべし。災を攘い福を招くの計、何事かこれに如かずや。頼朝尚彼の領等を領さば、人の歎き平家に相同じ候か。
宜しく道理に任せ御沙汰有るべしてえり。
一奸謀者と雖も、斬罪を寛宥せらるべき事、
右平家郎従落参の輩、縦え科怠有りと雖も、身命を助けらるべし。所以は何ぞ、頼朝勅勘を蒙り事に坐すと雖も、更に露命を全うし、今朝敵を討つ。後代またこの事無きや。忽ち斬罪行わるべからず。但し罪の軽重に随い、御沙汰有るべきか。
以前三ヶ條の事、一心所存此の如し。早くこの趣を以て奏達を計らしめ給うべし。仍って大概を注し上啓件の如し。
洛城は京の都のこと
1183年(壽永2)10月25日〜鎌倉城 「玉葉」
九条 兼実は当然鎌倉を知らない。要害の地かも知らない。頼朝が兵を結集させているだろう場所との意味。
10月25日
伝聞、頼朝相模鎌倉の城を起つ。暫く遠江の国に住すべし。これ以て精兵五万騎(北陸一万・東山一万・東海二万・南海一万)、義仲等を討つべく、その事を沙汰せしめんが為と。須くその身参洛すべきの処、奥州の秀平また数万の勢を率い、すでに白川関を出ると。仍って彼の襲来を疑い中途に逗留す。形勢を伺うべしと。去る五日城に赴くと
1183年(壽永2)11月2日「玉葉」
伝聞、頼朝去る月五日鎌倉城を出てすでに京上す。旅館に宿し三ヶ夜に及ぶ。而るに頼盛卿行き向かい議定す。粮料蒭等叶うべからざるに依って、忽ち上洛を停止し、本城に帰り入りをはんぬ。その替わり九郎御曹司(誰人や、尋ね聞くべし)を出立し、すでに上洛せしむと。
1183年(壽永2)11月6日「玉葉」
或る人云く、頼盛すでに鎌倉に来着す。唐綾の直垂・立烏帽子、侍二人・子息皆悉く相具す。各々腰刀劔等を持たずと。頼朝白糸葛の水干・立烏帽子にて対面す。郎従五十人ばかり頼朝の後に群居すと。その後頼盛相模の国府に宿す。頼朝城を去る一日の行程と。目代を以て後見を為すと。能保悪禅師の家に宿すと。頼朝の居を去る一町ばかりと。この事修行者の説たり。雅頼卿注し送る所なり。
1183年(壽永2)12月2日 「玉葉」
伝聞、義仲使を差し平氏の許(播磨の国室泊に在りと)に送り和親を乞うと。
また聞く、去る二十九日平氏と行家と合戦す。行家軍忽ち以て敗績し、家子多く以て伐ち取られをはんぬ。忽ち上洛を企つと。また聞く、多田蔵人大夫行綱城内に引き籠もる。 義仲の命に従うべからずと。
1183年(壽永2)12月9日 「玉葉」
山門騒動の由風聞す。仍って法皇を具し奉り下向を欲すてえり。・・・忠親卿竊に申して云く、平氏と和平の儀義仲に仰せらるべきなりと。然れども件の事、義仲太だ請けざるの由外相に表すと。仍って仰せ下さるに及ばずと。(略)今日、山法師白地に下京せらる。大衆の蜂起熾盛すと。
1183年(壽永2)12月9日[吉記]
山僧東西の坂に城を構えんと欲す。また近江の通路これを塞ぐ。
1183年(壽永2)12月10日「玉葉」
山門既に城郭を構う。仍って城中に籠もるの條、甚だ穏便ならず。しかのみならず、すでに山上を攻むべきの由風聞す。仍って且つハ下京せらるべきの由、余示し送る所なり。而るに山門追討の儀、また忽ち然るべからずと。仍って義仲に触れらるるの処、案の如く許有り。
1184年(元暦2改元・文治1)2月8日 一の谷の戦い「玉葉」
式部権の少輔範季朝臣の許より申して云く、この夜半ばかりに、梶原平三景時の許より飛脚を進し申して云く、平氏皆悉く伐ち取りをはんぬと。その後午の刻ばかりに、定能卿来たり、合戦の子細を語る。一番に九郎の許より告げ申す(搦手なり。先ず丹波城を落とし、次いで一谷を落とすと)。次いで加羽の冠者案内を申す(大手、浜地より福原に寄すと)。辰の刻より巳の刻に至るまで、猶一時に及ばず、程無く責め落とされをはんぬ。多田行綱山方より寄せ、最前に山手を落とさると。大略城中に籠もるの者一人も残らず。但し素より乗船の人々四五十艘ばかり島辺に在りと。而るに廻し得るべからず。火を放ち焼死しをはんぬ。疑うに内府等かと。伐ち取る所の輩の交名未だ注進せず。仍って進さずと。劔璽・内侍所の安否、同じく以て未だ聞かずと。
1184年(元暦2改元・文治1)2月23日「玉葉」
大夫史隆職、近日下さるべきの宣旨等これを注進す。仍ってこれを続き加え施行す。
更に以て叶うべからざる事か。法有りて行わず。法無きに如かず。 散位源朝臣頼朝、前の内大臣平朝臣以下の党類を追討せしむべき事
右、左中弁藤原朝臣光雅伝え宣べ、左大臣宣べ、勅を奉る
前の内大臣以下の党類、近年以降専ら邦国の政を乱す。皆これ氏族の為なり。遂に王城を出て、早く西海に赴く。就中山陰・山陽・南海・西海道の諸国を掠領し、偏に乃貢を奪い取る。この政途を論ずる事常篇に絶ゆ。宜しく彼の頼朝件の輩を追討せしむべしてえり。
寿永三年正月二十六日左大史小槻宿祢
1184年(元暦2改元・文治1)8月21日「玉葉」
伝聞、頼朝鎌倉城を出て木瀬川(伊豆と駿河の間と)の辺に来着し暫く逗留す。
飛脚を進し申して云く、すでに上洛仕る所なり。但しひきはりても上洛せず候なり。先ず参河の守範頼(蒲の冠者これなり)、数多の勢を相具せしめ参洛せしむ所なり。
一日と雖も、京都に逗留すべからず。直に四国に向かうべきの由仰せ含める所なりと。
また聞く。荒聖人文覺を以て申して云く、当時摂政平妻を棄て置き洛に留む。敢えて過怠無きの上、君また此の如く思し食す。異議有るべからず。兼ねてまた入道関白尤も顧問に備うべきの人なり。荘園少し然るべきの国一つ宛て賜うべしと。或る説に云く、文覺頗る不請の気有りと。然れども、在獄中の義朝が首を取り、来るべきの由仰せ付くと。
1185年(元暦2:改元・文治1)10月30日「玉葉」
義経等、明暁決定下向すべしと。或いは云く、摂州の武士太田の太郎已下、城郭を構え、九郎・十郎等もし西海に赴かば、射るべきの由結構すと。また九郎の所従紀伊権の守兼資、定船を点ぜんが為、先ず以て件の男を下し遣わす。太田等が為討たれをはんぬと。此の如き事に依って、俄に北陸に引退すべきの由、また以て風聞す。
「摂州の武士太田の太郎」は源広綱のこと? 九郎は義経、十郎は行家?
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