奈良平安期の寺社 甘縄神社 |
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本日のお散歩2005.5.8 は鎌倉史の取材?です。 鎌倉最古の社・甘縄神社さて、この甘縄神社は正式には、甘縄神明社(あまなわしんめいしゃ)と言うんだそうです。鎌倉でもっとも古い神社と言われています。710年に染屋太郎太夫時忠が祭ったとの言い伝えがあります。 右がこの甘縄神社から江ノ電の由比ヶ浜駅に行く途中にあるその石碑です。「染屋太郎太夫時忠は、藤原鎌足の玄孫に当たり、 奈良の大仏を作った良弁(ろうべん)僧正の父にして鎌倉に住み由比の長者とも呼ばれ東8カ国の総追捕使となり東夷を鎮めた。」なんて書いてありますが、言い伝えです。
染屋太郎太夫時忠が実在の人物かどうかすら不明です。ただし、良弁が相模の出らしいことは複数の資料から確かなようです。また、相模国には鎌倉や大山にいくつも染屋太郎太夫時忠の伝承が残っています。案外鎌倉の謂われを解く鍵かもしれません。例えば「染屋」って何だ? とかね。もちろん後々への伏線です。(笑) 奈良時代から有る意味鎌倉の中心のような様相を呈しています。星井寺、長谷寺、そして現在の大仏の高徳院の地にも奈良時代にはお寺があったと言う説があります。この甘縄神社の前が奈良時代の旧東海道です。 甘縄神明社の裏山は、御輿ヶ嶽、御輿の崎と云われ、鎌倉の御輿の崎の石崩(いわくえ)の君が悔ゆべき心は持たじと万葉集に歌われています。これがその歌碑です。 源氏の信仰も厚く、源頼義が詣でて祈願したら八番太郎義家が生まれたとか。それで頼朝も政子や娘達を伴って何度もここに参拝に訪れたそうです。何でこんなところにと私も思ったのですが、実は鎌倉時代ここは高級住宅地で有力者が屋敷を持っていました。また、ここに関連する人物ではっきりしているのは安達藤九郎盛長の屋敷跡がこのすぐ傍なんです。最初の写真の右の石碑がろうですね。
「秋田城介」って聞き慣れない官職だとお思いでしょうが、秋田城は8世紀頃の蝦夷征服の為の大和朝廷の最重要軍事・行政拠点であり出羽介が常駐していたことから、秋田城の介と呼ばれています。1050年前後の前九年の役の影響で介(副知事ぐらい)が城に常在しなくなったため、秋田城介の官職は名目だけのものとなりましたが、1218(建保6)年幕府の有力御家人である安達景盛が出羽介に任ぜられ、秋田城介を称しました。武家にとって栄誉ある名跡であり、幕府での安達氏のポジションをうかがわせます。 安達盛長の娘を祖母にもつ北条時宗もその屋敷で生まれ、その時宗が産湯を汲んだとの言い伝えのある井戸がこの正面の階段の左、柵ののあるところに有ります。
ちなみに北条時宗の誕生前に安達氏は三浦一族を鎌倉内で攻め亡ぼしましたが、その時もこの甘縄邸に兵を集め、古東海道から大町を通り、鶴ヶ岡八幡の横、現在の横浜国大付属小中学校の敷地にあった三浦氏邸を攻めています。 こちらが本殿 そしてその奧の院です。 本殿の脇にも小さなお社が そこから更に山の尾根の方に鳥居が・・・ 行ってみると、う〜ん、これは何なんだろう。もしかしてこれが一番最初の、染屋太郎大夫の甘縄神明だったりして? さて、帰ろうと階段を降りると、人力車に乗ったカップルが。え〜な〜、フキフキ "A^^; なにやら人力車の兄ちゃんが説明しているのでさりげなく聞き耳を立てていると、なんと鳥居の右奧の古い家に川端康成がかつて住んでいて、この甘縄神社もその小説の中に出てくる んだそうです。そう言えば大仏次郎宅を知ったのもやはり人力車の兄ちゃんの説明からでしたね〜。もしかしたら私の鎌倉知識の半分は人力車の兄ちゃんがお客さんに説明をさいているのを盗み聞いたものだったりして。(笑) 本当は・・・本当は・・・、本日のお散歩の目的はこれだったのでありますわ。 そんで帰りは銭洗い弁天側から源氏山を越えました。 |
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