寝殿造 1.4  室内の制約と柱間寸法    2016.8.30 

屋根の構造による室内の制約

ところで、寝殿造の建物は寝殿に限らず母屋と庇と簀子縁で構成される。一番大きな建物である寝殿は先に見た通り、母屋を庇が囲む。桁行、つまり長方 形の母屋の長い辺の方向に大きくするのは簡単だ。屋根の棟(尾根)の方向にどんど柱を増やせば良い。三間でなく五間、七間、九間と。寝殿ではなく廊だが、 仁平2年(1152) 賀茂神社の神主従四位上賀茂縣主(あがたぬし)の譲状には「十三間廊」が出てくる。多分確実な史料ではこれが最大(最長)か。母屋 の梁間(幅)は二間なのでえらい細長い建物だ。しかしそう伸ばすのは技術的にも簡単である。

しかし寝殿(南向き=東西棟とも)のように梁間(正面南から見た奥行き)を広く取りたいと思うと前後を庇で拡張するしかない。母屋の梁間二間の南北に庇をつけて四間、更に孫庇を通常北に追加して五間。これが限界である。あとは太い柱、太い梁を使って柱の間(柱間寸法)を大きくすることが残された唯一の方法である。


柱間寸法

これまで「三間四面」とか「五間四面」とか使ってきたが、その一間(ひとま)とは我々が知る尺貫法での1間(いっけん)とは違う。もっとも尺貫法で定められているのは尺で10/33メートル(およそ30cm)というだけで、建物に使う1間は関東では6尺だが関西では6尺6寸で1割ぐらい長い。がそれでも1割ぐらいである。しかし平安時代から中世にかけての何間とは単に柱が何本の意味しかない。

文献史料に見る寝殿造の柱間寸法

何丈とか何尺とかは我々の知っているものとほぼ同じだが、柱間寸法については屋敷により建物により違う。更に同じ寝殿でも母屋と庇で違う。太田静六は『寝殿造の研究』の「平安末期以降鎌倉時代における諸第の柱間寸尺」のなかで次のようにまとめる。

三間四面庇の寝殿なら、庇が八〜九尺で、母屋が十〜十二尺ぐらい、五間四面庇なら、庇が九〜十二尺内外で、母屋が十三〜十五尺内外、また透渡殿の梁間は小規模なもので八尺ぐらい、大規模なら十二尺前後であったらしい。

記録に残る」ものは極めて少ない。実は史料から判るのは次の6件だけである。

- 所有者・屋敷 建物 母屋 その他
1 権大納言藤原邦綱・五条東洞院殿 寝殿・七間四面 不明 不明

同上 五間四面屋(対屋?) 14尺 8尺
2 鳥羽天皇・小六条殿 寝殿・推定三間四面 不明 8.5尺
3 関白九条兼実冷泉万里小路殿  寝殿・五間四面 不明 11尺 透波殿 8尺
4 関白九条兼実・大炊御門笛小路殿 寝殿・推定三間四面 12尺 9尺
5 関白藤原基通六条堀川殿  寝殿・三間四面 推11尺 8尺
6 権中納言藤原定家・京極殿、 寝殿・三間四面 10尺 8尺 中門廊代 7尺

見て判るとおり、どれも平安時代末期から鎌倉時代であって、寝殿造の最盛期の柱間(はしらま) の寸法を記した史料は無い。太田静六が「五間四面庇なら、庇が九〜十二尺内外で、母屋が十三〜十五尺内外」と推定したのは寝殿造の最盛期についてである。ただしこの乏しい史料からでもある程度の傾向は読むことが出来る。

一番柱間寸法が変わるのは寝殿の母屋で、立派な寝殿では多分柱間寸法も大きいだろうと推測できる。先ほど述べた「あとは太い柱、太い梁を使って柱の間(柱間寸法)を大きくすることが残された唯一の方法」を実行するには相当の財力を必要としたろう。寝殿の母屋柱間寸法が通常10〜12尺なのは、普通入手出来る高級木材を梁や柱に使うと、出来る母屋の柱間寸法はそれぐらいが限界だったということだ。柱間寸法12尺の母屋とは12尺二間の24尺つまり7m強を中間に柱無しで上の屋根を支える梁(横柱)ということである。
権大納言藤原邦綱の五条東洞院殿で寝殿ではない五間四面屋の母屋柱間が14尺ということは、通常の高級木材ではなくて、なかなか手に入らない太い最高級木材を使ったということになる。

それに対して庇の間は似たり寄ったりで、九条兼実の冷泉万里小路殿がひとつだけ飛び抜けているが、他は8尺から9尺である。困ったことに一番指図の残る東三条殿の柱間寸法が判らない。しかし指図から判断すると庇の間でも12尺はあったはずである。九条兼実の『玉葉』文治2年(1186)10月25日条にこう記されている。、

此日大饗御装束始也、(中略)見座体南庇今一尺(一丈一尺也、仍不足也)、狭之間、座後不可有其路

10月29日に兼実の子・良通が内大臣に任ぜられるので、その大饗の準備を行ったが、大饗の場として定めた寝殿南庇の寸尺が11尺であと1尺不足し、座の背後に通路を設けることが出来なかったというのである。兼実の万里小路亭はこの時期としては決して狭い方ではないのだが、東三条殿なら2列の公卿座は十分に収まっていた。東三条殿のような最盛期の摂関亭では寝殿や対屋の庇は12尺以上あったものと思われる。12尺とは八畳間の幅である。それだけあれば二列の対座宴席の後ろを人が通れるだろう。

といっても上座の大納言・中納言の座は対座ではなく奥にのみ座を敷き、下座の参議の座だけ対座で席を設けているが(親王座は設けてはあるが出席しない)。


兵範記』保元二年 (1157)8月17日条、東三条殿の任大臣大饗指図(寝殿南庇と西庇)
なお上が南である。

庇の間が狭いなら寝殿の母屋でやれば良いではないかと思うのだが、母屋でやるのは正月大饗だけ。任大臣大饗や任大將大饗は寝殿の南庇で行うのが例である。東三条殿の指図が沢山残るのは、そうした前例が確立した王朝国家最盛期の古風で最上級な寝殿造で、唯一焼失を免れた屋敷だったからだろう。摂関家も住むのは別の屋敷で、儀式のときだけ東三条殿を使う。ただ兼実の子の良通が内大臣に任ぜられた文治2年以前に東三条殿も焼失していた。

この万里小路亭の母屋寸尺は庇寸尺から類推すると15尺ぐらいであったかと太田静六は推測する。東透渡殿については『玉葉』文治2年7月27日条に「今此透渡殿梁八尺也」とある。透渡殿の幅を知る唯一の史料である。

なお一般雑舎や地方での発掘報告書では上記のようなサイズではなく、2m前後と2.4m前後を中心に分布していると読んだ覚えがある。大ざっぱに言うと 7 尺から 8 尺。東国と関西では違うと。関西が2.4m(8 尺)か?

発掘調査での柱間寸法

太田静六がまとめた先ほどの資料は文献史料に基づくものだが、発掘調査からの表を見つけた。藤田勝也2007「寝殿造と斎王邸跡」 p.79 である。「4.1 寝殿造の時代区分」では「準備期」とした時期に相当する。
数値は「公的領域・桁行柱間」 / 「公的領域・梁行柱間」 - 「私的領域・桁行柱間」 / 「私的領域・梁行柱間」。単位は「尺」で、それぞれ平均値である。山城高校遺跡は調査地全体の桁行/梁行柱間平均である。

- 寝殿造準備期の上層住宅 公的領域・桁行/梁行 私的領域・桁行/梁行
1 平城京左京三条二坊(長屋王邸跡)  9.4尺 / 9.1尺 10.2尺 / 10.2尺
2 長岡京東院(桓武天皇の仮の内裏)  10尺 / 9.0尺  9.7尺 / 9.2尺
3 平安京右京一条三坊九町(山城高校遺跡 10尺 / 8.8尺
4 平安京右京六条ー坊五町(リサーチパーク 8.3尺 / 8.2尺 7.3尺 / 8.0尺
5 平安京右京三条二坊十六町(斎王邸 10尺 / 9.0尺 9.7尺 / 9.2尺

先ほどの寝殿造の数値とは直には比較出来ないので、ちょっと換算してみよう。一番大きいのが五条東洞院殿、権大納言藤原邦綱の五間四面屋(対屋?)母屋14尺、庇8尺を使うと、母屋14尺×5間+庇8尺×2間を計7間で割ると12.2尺で「公的領域・桁行柱間寸法」と比べてもだいぶ大きい。
もうひとつ藤原定家の京極殿の三間四面庇の寝殿では、母屋10尺×3間、庇 8尺×2間の平均は9.2尺。「準備期」の「公的領域・桁行柱間寸法」5件の平均9.5尺と比べると「ちょっと短いけど、まあ似たようなものか」となる。

どうも寝殿造以前も以降も貴族の屋敷の底流は変わらず、摂関家や院政期の院(治天の君)などだけが大型寝殿、池付き大邸宅(今では庭があるだけで都心なら大邸宅だが)などのバブルを享受しえたのではないかと思えてくる。私が勝手に思っているだけで学術的論証まで出来るとは思わないが。

寺院建築での柱間寸法

寺院建築での柱間寸法も見てみよう。寺院建築は寝殿造のような住まいとは状況が異なる、おまけにほとんどは奈良時代のもので、あくまで参考であるが。

- 奈良の寺社建築 母屋梁間 尺換算 柱間寸法
1 唐招提寺金堂 8.1m 27尺 13.5尺
2 新薬師寺本堂 9.0m 30尺 15尺
3 興福寺東金堂 7.5m 25尺 12.5尺
4 法隆寺大講堂 8.6m 28.7尺 14.3尺
5 法隆寺上記前身建物(食堂?) 10.6m 35.3尺 17.7尺
6 平城京・大極殿

17尺
7 平城京・朱雀門

17尺

(上記平均)

15.3尺

東京大学出版会シリーズ都市・建築・歴史第2巻『古代社会の崩壊』収録の村田健一「古代建築技術の変遷と終演」 p.161より。

デカイ。法隆寺大講堂の前身建物というのは詳しくは知らないが食堂(じきどう)のことだろうか。確か私財帳にはあの位置に食堂(じきどう)があったと記載されていたと思う。それも含めて最後の5から7までは特にデカイ。奈良時代には可能であっても、寝殿造の時代にそれだけのヒノキの大木を調達することは相当に困難だったと思う。法隆寺の時代からヒノキの大木の枯渇が始まっているのだから。

余談

五条東洞院殿の主である権大納言藤原邦綱だが。最初はたかが権大納言ふぜいがなんでこんなに大きな寝殿をと思った。もちろん位階も官職ももたない凡下・雑人な私などよりはずっと偉いが、ここでは比較対象が天皇とか関白なので。

ところがこの邦綱、生まれも育ちも下級貴族の出で、権大納言にまで登ったのすら異例中の異例。
和泉国、越後国、伊予国、播磨国の受領を歴任して財力を蓄え、「成功」により昇進した者である。普通なら生まれも育ちも公卿な上級貴族からは嫌われる。ところが邦綱の訃報を聞いた九条兼実は『玉葉』治承5年(1181)閏2月23日条に「邦綱卿は卑賤より出ずと雖も其の心広大なり。天下の諸人貴賎を論ぜず、其の経営を以て偏に身の大事となす。ここに因りて衆人惜しまざるはなし」と記している。訃報に接したときまで悪態をつく人間はいないという点を差し引いても、人当たり、経営手腕ともになかなかの人物だったらしい。

平安貴族は一般の印象とは違い、なかなかの実力社会である。特に院政期の院近臣はそうだ。零細平氏の一傍流に過ぎなかった平清盛の家族が平家(家が付くのは公卿)と云われるようになったのは清盛の祖父正盛父忠盛、そして清盛自身が院近臣として経営手腕を発揮して基盤を作っていた為であろう。正盛の系統以外は保元の乱平治の乱の表舞台には登場しない。

「成功」は「せいこう」ではなく「じょうごう」と読む。私財を上皇などに献上して見返りに位階や官職を得ることである。時代劇にある菓子折の底に小判を詰めて「お代官様、これを」「お前も悪よのう」などというみみっちいものではない。それに非合法ではない。次の役職を得る為の権利金と思えば良い。あるい は現地の請負経営で得られた利益の一部を株主に還元と思っても良い。そちらの方が適切か。アメリカなら株主に多くの配当をもたらした経営陣は再任される。 あるいはもっと大きい会社の社長になれるかもしれない。

律令制が事実上行き詰まって以降は、和泉守というような受領国司の最低限の責務は遙か昔の検地(とは云わなかったかもしれないが)で定めたその国の税金を朝廷に納めることである。しかし受領国司の経営手腕によってはより多くの税収をあげられる。それは会社に例えるなら税金を払ったあとの純利益である。その純利益は役員賞与になったり、配当として株主に還元されたりする。株主は株主総会で役員の任免権を持つ者である。受領国司の任免権を持つのは摂関時代なら藤原道長のような摂関家。院政期なら白河法皇などである。株の配当、株主への利益還元が「成功」だととりあえず思っていればよい。別の言い方をすればより大きな利益を得るための「投資」である。その「成功」や、似たりよったりな利益還元が朝廷の支出の一部を支えていた。

諸大夫の受領国司でも伊予守や播磨守は最高級のうまい汁が沢山吸える役職、つまり黒字優良大企業の社長である。それは天皇とか上皇とか、実際に任免権を持つ者の側近でないとなれない。逆に言えば、より多くの純利益をあげられる経営者を側近にして、その者に豊かな国の経営を任せ、より多くの利益還元を得ることが天皇や上皇・法皇の経営手腕なのである。天皇や上皇・法皇とて何もせずに甘い汁を吸えた訳ではなく、無能なゴマスリ貴族ばかりを側近にした訳でもない。ときには私情を挟んで平為俊藤原盛重のように男色の相手を優遇することもあるが、そればかりでは天皇とか上皇の方が倒産してしまう。

藤原邦綱の大きな立派な屋敷はその「成功」に使う為である。実際に邦綱は大きな屋敷をいくつも持ち、そのひとつの土御門東洞院殿は後白河院の院御所になったり、六条天皇高倉天皇の里内裏になったりである。この五条東洞院殿も高倉天皇の里内裏に用いられた。実は藤原道長白河法皇鳥羽上皇など最高権力者の大豪邸はこうした受領の負担で建てられている。

初稿 2015.11.19