5.寝殿造の内郭  

寝殿造の内郭

上級の寝殿造では門が二重になっている。大路や小路に面している正門と、その正面にある中門である。その中門の内側のエリアが寝殿造の中心部で、ここではそれを内郭として、寝殿に近い方から説明する。

二棟廊 

二棟廊は複廊である。複廊自体は奈良時代からある。薬師寺の二棟廻廊の画像で判るように単廊を二つ並べたものであるので、下から見たら棟が二つあるように見えるが、外から見ると棟はひとつである。平安内裏では紫宸殿の東北に太い廊があるがこれが複廊である(川本重雄2012、pp.32-33)。寝殿造でも二棟廊と呼ばれるものは多くこの位置になる。ただし内裏のように東とは限らない。東三条殿で二棟廊と呼ばれているのは外郭にある複廊だが、それを例外として普通は寝殿の北側から東西に突き出す複廊が二棟廊と呼ばれる。先述の通り二棟廊という呼び名が出てくるのは12世紀からである(飯淵康一1985)。時代が下ると「公卿座」とも呼ばれるようになる。

渡廊 

渡廊は先の二棟廊を含めて呼ぶ場合もあるが、二棟廊以外は単廊である(川本重雄2012、pp.37-38)。平安内裏では紫宸殿の東南に細い廊があるがこれが単廊である。紫宸殿と同じように二棟廊と渡廊の両方がある場合には、北が二棟廊、南が渡廊である。一般に渡廊の位置には透渡殿と書かれるが「透」とは限らない。渡廊という呼び名が出てくるのは10世紀からで、透渡殿は11世紀末から12世紀初めごろである(飯淵康一1985)。

対屋 

対屋も『家屋雑考』の影響と、東三条殿の復元図から寝殿と同じ広さで同じような構造というイメージが強いが、そうとも限らない。なお『家屋雑考』では対屋を寝殿と同じ東西棟に描いているが、これは太田静六により南北棟と改められている。

「対(対屋)」の他に「対代」「対代廊」という言葉も出てくる。「対」には「対代」や「対代廊」を含むこともある(太田静六1987、p.535)。「対代」には「対代廊」を含むこともある。文献上の「対代」の初出は『権記』長保5年(1003)2月20日条の枇杷殿の対代。「対代廊」は『柳原家記録』寛治5年(1092)正月1日条の堀河殿東対代廊が初出である(川本重雄2012、p.307)。

かつては寝殿を90度傾けたようなものが本来の「対」で、寝殿造の変質、衰退とともにそれが段々と簡略化されていったのが「対代」や「対代廊」と思われていた(川本重雄2012、p.315)。特に太田静六は「対代」「対代廊」という言葉が出てくる以前が「正規寝殿造」で(太田静六1987、pp.308-309)、出てきた頃からそれが変形し、「対代ないし対代廊が平安末期の特色」(太田静六1987、p.522)で、その後の平家時代に小型化が進むとする(太田静六1987、p.541)。この太田静六の説(仮に衰退論)はその後川本重雄により否定されるが、その前に「対」、「対代」、「対代廊」は何処が違うのかという点である。

「対代廊」は「母屋梁行一間という形態上の共通点を持っている(川本重雄2012、p.314)」。ただしここで云う母屋とは建築構造での母屋ではなく用法としての母屋である。二棟廊でも母屋と庇という云われ方をする。その場合の母屋とは屋敷の主人が着座するような上段のような意味、対して庇は臣下が侍う(さぶらう)場所である。

「対」が梁間四間以上で、「対代」が梁間四間未満というならその区別ははっきりするのだが、飯淵康一によって「対代」と云われるものも梁間四間のものがあることが立証されているし(飯淵康一1985、pp.29-31)(ただし三条烏丸殿の西対については川本重雄が異論を述べている)(川本重雄2012、pp.311-314)、川本重雄も「寝殿と対」において「対代廊が母屋梁行一間という形態上の共通点を持っているのに対し、対代にその共通性を見出すことは極めて難しい(川本重雄2012、p.314)」とする。というのは、梁行二間の母屋に四面庇や南広庇が付加された形式のもの(三条烏丸殿東対代)もあれば、四面庇のうち寝殿側の庇が広庇になっているもの、寝殿側の庇のないものなど、様々な形式の対代があるためである(川本重雄2012、p.314)。

梁行二間の母屋に四面庇や南広庇が付加された形式の三条烏丸殿東対が「対代」と呼ばれているので、平安時代末期で「対代」と云われた事の無い「対」(正規の対と仮称)を太田静六の『寝殿造の研究』から探すと、花山院西対、東三条殿東対、堀河殿西対・閑院東対が上げられる。花山院西対はここでは省くが、残り三つで三条烏丸殿東対代と違うところは孫庇を加えて梁間が五間なことである。

花山院西対を除いたのは太田静六は「図31 東一条第(華山院)の規模概要(右大臣師輔時代)」(太田静六1987、p.139-290)の「西対平面図」に西孫庇を書き込みながらその根拠を述べていないことによる。

かつ、12世紀の初めの藤原忠実の語談をまとめた『富家語談』には「仰云、対代ト云ハ無片庇対ヲ云也」と「片庇」つまり「孫庇」の無い「対」を「対代」というと記している(川本重雄2012、pp.314-315)。それらをまとめると次のようになる。

  1. 「正規の対」: 梁行二間の母屋に四面庇、南広庇、そして寝殿の反対側に孫庇を備えた対。
  2. 「対代」  : 「正規の対」で述べた対の規格に合わないもの。
  3. 「対代廊」 : 「対代」のうち母屋梁行一間のもの。

川本重雄は、「対屋」とは大きさと無関係な寝殿に対する脇殿であり、藤原兼家の頃に内裏の清涼殿(梁間五間)をまねて西対を作り顰蹙を買ったが(大鏡、.「太政大臣兼家」、p.167)、逆に云うと藤原兼家以前には梁間五間、つまり孫庇まである脇殿は無かったということになる。しかしその子の道長の頃には既に既成事実化し、儀式饗宴の場が寝殿から対屋に移り、儀式の場としての左右どちらかの対屋(通常正門側)に孫庇が付いたか、あるいは儀式用の対とそうでない方の区別が意識化されて「対」と「対代」の呼称の違いが生まれたのではないかとした(川本重雄2012、pp.316-317)。

なお、対の屋根は寝殿と同じ様な入母屋屋根とイメージされる場合が多いが、『年中行事絵巻』には南面の弘庇の屋根は、室生寺の金堂や宇治上神社拝殿、法隆寺の聖霊院のような縋破風(すがるはふ)に描かれている(年中行事絵巻、p.11上段他)。つまり切妻屋根の切妻に庇を追加したような形である。

現在では縋破風は神社仏閣正面の階を覆う屋根の突き出しを指すことが多いが、寝殿造の時代にはそれは階隠と云い、縋破風は梁間の長さ全部を覆う。

室生寺の金堂_13.jpg

室生寺の金堂の縋破風。室生寺の金堂本陣部分は切妻屋根では無いが、拝殿として一間増築している。


中門廊と中門 (内郭と外殻の狭間)

中門廊

右から二つ目の門が中門で、その南北の単廊が中門廊。太田博太郎、『図説日本住宅史』、1948より。

中門廊は寝殿造の外殻と内郭を区切る単廊である。少なくとも平安時代後期以降、中規模以上の寝殿では必ず備え、時代の進展に伴い寝殿造が変化していっても最後まで残った重要な要素である。その位置は、例えば東三条殿のように大規模で東対がある場合には東対の東端から南に延びる。中小規模で対代廊も含め対が無い場合には二棟廊の端から南に延びる。その中間に中門があり、通常はその正面が正門になる。中門の北側、対屋や二棟廊の側は板床が張られるか、南側は土間が一般的である。中門廊の外側は塗り壁であり、外に向かって車寄戸が開く。

平井聖は、中門をくぐり寝殿南面の中央階より昇るのが主人の経路であり、普段訪れた人は中門廊の中門付近から昇ったとする(平井聖1974、pp.89-90)。大臣家の大饗のときには招待客の尊者と公卿達も中門から南庭に入り、招待者の大臣と庭で拝礼する。その様子が『年中行事絵巻』にある(年中行事絵巻、pp.52-53 上段)。しかし飯淵康一は記録を細かく分析し、主人といえども中門をくぐり寝殿南面の中央階より昇るのは儀式のときだけであることを明らかにしている。(飯淵康一2004、5章)。また中門廊の中門側妻ではなく、その手前で外側(正門側)に開く車寄戸が後の玄関である。

ただし玄関の直接の源流には主殿造の「色台」(式台)も絡み単純ではない。

しかしそこを使える者はそんなに多くない。屋敷の主人の通常の出入り口、及び来訪者のうち位の高い者の出入り口になる。多くの者は勝手口にまわる。寝殿造での勝手口は次章「寝殿造の外郭」で触れる。

その中門廊の壁の外側には濡れ縁がある。身分の低い者は主人の側近、家司を呼んでもらい、家司がこの縁で身分の低い来訪者に面会している図が『春日権現験記絵』にある(春日権現験記絵、上、p.18)。また『西行物語絵巻』では、出家を決意した西行が鳥羽殿で院の近臣に暇乞 いする場はやはりこの中門廊外側の簀子縁である(西行物語絵巻、p.**)。絵巻上の話とはいえ、兵衛尉に過ぎなかった西行は鳥羽院の中門廊には上がれなかったが外側の縁には上がれた。

その外側の塗り壁には、内側に床のある中門の北側では横格子の連子窓があり、この横連子窓とその左の車寄戸は中門廊の重要な構成要素である。寝殿造の後期には中門が省略されることも多いが、それでも中門廊と横連子窓だけは残り、初期の書院造にまで引き継がれている。

例えば園城寺の光浄院客殿など。

なお、中門の南側の、内側が土間の部分では連子窓は横連子ではなく、寺社の廻廊などと同じ縦連子である。寺社の廻廊にも通常床は張られていない。なお、絵巻、例えば『春日権現験記絵』にある関白忠実の屋敷などに描かれる中門南廊の縦連子は法隆寺や、薬師寺、春日神社の廻廊ほどの高さは無い(春日権現験記絵。上、p.17下段、p.18上段)。

ただの廊下ではない中門廊 

中門廊を含む内郭が主人の世界であり、その床に上がれる者は限られていた。内裏や里内裏、女院を含めた院御所ではそれを殿上人と呼び、貴族社会では位階が 同じでも殿上人とそうで無い者は扱いが違う。内郭の床の上はもちろん主人の世界だが、中門廊、広庇、縁まではある程度の身分の者の上がれる場所である。その 身分によってそのどこまで入れるかが決まる。その一番外側が中門廊である。中門が省略される場合でも中門廊の有無が屋敷の格式の境目となる。良い例が後に 説明する藤原定家の屋敷である。

押領使漆時国の館

鎌倉時代14世紀の作とされる『法然上人絵伝』の押領使(武士)漆間時国の館には画像のような中門の無い中門廊がある。ここに中門廊が描かれているのは、地方の在地領主ながら押領使で、身分の高い武士ということを説明しようとしている。そしてそこには武具をまとった郎党が宿直し、寝殿には屏風の向こうに主人夫婦の寝姿が描かれる(法然上人絵伝、p.3 下段、p.4 上段)。この構図は寝殿に居る者と中門廊に居る者の身分的関係を簡潔に表している。

宴会場にもなる中門廊

中門廊は場合によっては宴会場にもなる。『台記』保延2年(1136)12月21日条に藤原頼長の内大臣昇格に勧学院学生(がくしょう)が参賀に訪れたときの指図がある(川本重雄2012、p.60、図26)。その席は東中門廊に設けられている。柱間三間を使い、相対する3枚2行の畳で20膳を用意している。これをもってもただの廊下ではない(川本重雄2012、pp.188-189)。先の『年中行事絵巻』などではこの中門廊は細くみえるが、『山槐記』には閑院の中門廊の梁間が1丈2尺とあり(太田博太郎1972、p.162)、当時最大級の東三条殿でも同程度とすれば、この宴会場は八畳間を三部屋つなげたぐらいのスペースということになる。


格式の壁・諸大夫の座

正月大饗(だいきょう)は太政官である大臣が開くが、東三条殿の場合、寝殿母屋に尊者(主賓)と公卿、西庇の間の少納言外記 (ここまでが太政官)が西北渡廊(複廊)で(川本重雄2012、p.142、図47)、太政官でない殿上人が北西渡廊(複廊)であるに対し、殿上人でない諸大夫は西中門廊(単廊)である(川本重雄2012、p.144、図48)。

やはり東三条殿で頼長の任大将饗(任官祝賀会)が開かれたときは、近衛府の大將・中将・少将と公卿は寝殿の南庇である。通常主人や尊者(主賓)と同席するのは公卿だけだが、この場合は任近衛大将饗なので近衛府の少将は例え五位であっても直属の部下で重要なゲストになる。それに対し近衛府官人でない殿上人は西庇。殿上人でない諸大夫は、寝殿の西弘庇も西北渡廊(二棟廊)も北西渡廊も空いているのに、ずっと離れた西中門廊である(川本重雄2012、pp.173-174 図58)。

この両指図を比較すると、単にランクの順に場所を割り当てたのではないことが解る。中門廊と西北渡廊(二棟廊)の間には簡単には超えられない壁がある。殿上人は勿論、中将・少将も位階では四位、五位が普通で諸大夫のはずだが、位階だけではないランクというものがある。

『平家物語』には侍階級の家の出である平忠盛が殿上人となったときに公卿たちによる闇討ちが企てられるという「殿上闇討」が書かれているが、それが事実かどうかはともかく、ある意味位階以上の格式が貴族の意識にあったことを示している。

この廷臣の階級で云えば、鎌倉の親王将軍の御所は執権でさえ中門廊止まりである。『吾妻鏡』に執権が椀飯で御所に上がっている記事はあるが、あれは給仕役で一緒に会食をしている訳ではない。東三条殿の大饗でも給仕役は家人の家司が行っている。


摂関家以外では

飯淵康一が比較したのは、その時代の公卿の中でも最上級の貴族である。「摂関家拝礼」や「賀茂詣」や「春日詣」など、扈従はしても主役になることはない普通の公卿は、新築の寝殿に初めて入るときは寝殿南階を使うかもしれないが、新装花殿(新築の屋敷)に入るなど一生の内何度あるかというぐらいで、ほとんど中門廊だったはずである。公卿より下の諸大夫だったら裕福な受領でもないかぎり中門廊すら無かったかもしれない。公卿だった藤原定家でさえ、晩年の屋敷を五位の家司に建てさせたら中門廊が無く、あとから中門廊代を増築したほどである(『明月記』、寛喜3年(1231)2月14日条)(藤田盟児1990)。

其の他  

  • 釣殿
    釣殿は中門廊の先に池に面して立てられるもので、納涼や私的な遊行に用いられる。ただし東西中門廊の先に釣殿がある例は極めて希である。
  • 泉殿
    『家屋雑考』の影響色濃い昔の平面図には東西の中門廊の先に池に面して片方が釣殿、もう片方が泉殿と描かれることがあるが、多くの寝殿造の記録を分析した太田静六は、両方の中門廊の先が池に面して建物が建てられているケースはほとんど無く、あってもそれは両方とも釣殿であるとする(太田静六1987、p.64、p.74、p.83)。
  • 念誦堂
    特に鎌倉時代に目立つが、院御所などの大規模な寝殿造において、中門廊の先端には念誦堂が置かれることが多い。(事例:西園寺家の北山殿、里内裏・大炊御門万里小路殿(弘安以降)、常盤井殿・第2・3期、仁和寺蔵の弘安元年(1279)12月16日の行幸の指図が残る(藤田勝也1999、p.139)。御所・二条高倉殿、『勘仲記』弘安6年10月10日条にあるがその位置は不明。院御所・持明院殿(川上貢による復元図)。
  • 常御所
    平安時代末から鎌倉時代にかけての常御所は寝殿の北側を指すことが多い。あるいは二棟廊を使うこともある。寝殿造の末期には独立した建物となるるが、この段階での寝殿は主人の住まいではなく、公家社会の儀礼、有職故実の為だけの建物となる。