6.寝殿造の外郭  

寝殿造の外郭 

築地塀

屋敷を取り囲む屏は、上級の寝殿造では築地塀である。現存するものは寺院が多いので上は瓦だが、寺院ではない寝殿造では瓦は使わず、絵巻でも横板を敷き、その上に土を乗せている。土とは云っても粘土に色々なものを混ぜて固めている。

筑地塀

日本絵巻物集成,5 『春日権現験記絵上』、雄山閣 1943、p.43 より。

門 

門は通常は屋敷の東西のどちらかに正門を開くが、屋敷が方一町(一町120m四方)の場合は東西南北全て大路か小路となり、正門の反対側にも門を開く。北にも正門よりは小さい門を開く。南に門があることは少ないが、有ることもある。東に正門を開く屋敷を東礼の家と呼ぶが、その東礼の家であれば正門側の大路、または小路に二つ門を開くことも多い。その場合はその面の南側が正門であり、それを南門と呼ぶことがある。その場合の北門は屋敷の東面の北の門の意味である。

必ず東西に門がある訳ではなく、敷地が南北1/2町とか、1/4町(60m四方)の場合には大路、または小路は東西どちらかだけになるので門も東西どちらかだけになる。その場合でも正門と通用門の二つが開かれる。

四脚門

平安時代から中世にかけて、格が高いのは棟門でかつ四脚門(よつあしもん、しきゃくもん)である。公卿の中でも大臣クラスが四脚門を持つ。絵巻には『年中行事絵巻』の天皇が父後白河上皇の住む法住寺殿へ朝覲行幸(ちょうきんぎょうこう)するシーンに描かれている(年中行事絵巻、p.8)。ちなみに四脚門とは柱が4本ではない。門柱の前後に控柱を2本ずつ、合わせて4本立てたものをいう。従って柱は6本である。東三条殿には東西に四脚門があるが、通常は東西のどちらかであり、それが正門になる。大路に正門を開けるのは大臣家だけである。

画像は法隆寺東院伽藍の西門。

棟門

棟門は四脚門に次いで格が高い。寝殿造では事実上築地塀とセットで、築地塀が前後左右の揺れを吸収している。『松崎天神縁起』にある天神社の門とほとんど同じ構造であることがこの写真で判る。先に挙げた『春日権現験記絵』の裕福な受領の屋敷の門も板屋根の棟門に描かれている。

唐招提寺・御影堂の棟門。

唐門

唐門は棟門より格が低い。現在では左右に唐破風のあるこの様式は平唐門と分類され現物はあまり残っていない。現在の寺院ある唐門は正面に唐破風のある向唐門(むこうからもん)の方が多いが、向い唐門が格の高い門と見なされるようになったのはずっと後の時代である。


法隆寺東伽藍の唐門

絵巻では桧皮葺で描かれることもあるが、多いのは『西行物語絵巻』()や『男衾三郎絵詞』()にあるような板屋根である。

土上門

絵巻きでは諸大夫の屋敷の門によく描かれる。形は似ているが唐門より格は低い。格の高い屋敷では使用人の門などに用いられる。実物は法隆寺西伽藍のにある。塔頭の通用門である。この塔頭の正門は北側の四脚門 である。この土上門のすぐ右に唐門があるが、その唐門よりもこの土上門の方が一回り小さい。ちなみに現在は土ではなく、檜皮葺になっている。しかし木部の構造は絵巻に有るとおりである。

法隆寺西伽藍の土上門


侍廊 

まず侍廊とは通常どのあたりに位置するのかを示しておく。図は持明院統の名の元となった持明院殿である。この持明院殿は、南北朝時代のさなか文和2年( 1353)2月4日に焼失した。侍廊はこの図の右側、「文殿・殿上」とある梁行二間の複廊である。ただし常に対屋などに接続しているとは限らず六波羅泉殿(太田静六1987、p.613)や頼長の宇治小松殿(太田静六1987、p.622)のように独立している場合もある。

寝殿造・持明院殿
川上貢(初出1967)、『新訂・日本中世住宅の研究』、p.164より作成

侍廊は侍所とも呼ぶ。侍所と云っても武士の詰め所ではない。「侍」の意味は「侍女」の「侍」と同じで、「さぶらう=仕える」である。公卿に仕える家司、今風に言うと秘書、執事、召使い、奉公人の詰所である。出退勤を管理する管理職(別当・所司)の事務所でもある。また家政機関の事務所でもあり、絵巻には裕福な受領を現すのに、この画像の左上のように侍廊へ酒、魚、米などが運び込まれるシーンが描かれる(春日権現験記絵、上、p.**)。

その屋敷の主人が上級の皇族や、あるいは一時的にでもその屋敷が里内裏に使われるときなど、この「侍所」は蔵人所とか殿上廊などとも呼ばれたりする。院政期になると、公卿議定(院御所議定)は院御所のこの侍所で行われている。

先の中門廊はいわば主屋の玄関であったが、侍廊(侍所)は勝手口でもある。『三条中山口伝』にもこうある。

諸大夫、大臣家は、家札にあらざる人は障子上に著すべし。中門を昇るは非礼。

現代語になおせば「諸大夫が大臣家に伺うときは、家札(家来、家司)にでない者は侍廊の障子上に入るべきである。中門廊をから入るのは身の程知らずである」ということである。主人と客の身分によって出入口は細かく規定されていた。ところでこの文は中門廊を中門と書いている。鎌倉時代以降、中門の無い中門廊が増えている現れかもしれない。なおなお三条中山とは三条実房中山忠親である。

指図の残る東三条殿の例を挙げる。『三条中山口伝』に「障子上に著すべし」とある場所は、この図では左下の畳みが二枚づつ向かい合って敷かれている中門廊側二間である。侍廊は家政を司る家司らが控える場所であるが、来客が控える場でもあった。

侍廊

「類聚雑要抄・巻2」 『群書類従26』  続群書類従完成会 1929、p524-5 にある東三条殿の侍廊指図

時代も屋敷も違うので先の図とは必ずしも一致はしないが、十四世紀前半に成立した『後押小路内府抄』にこうある。

侍屋、常は五ヶ間(上の二ヶ間を障子上となす、これ諸大夫の座なり。下の三ヶ件を青侍の座となす。)障子上台盤を立てず。侍の座台盤を立つ(朱漆。四尺一脚。八尺一脚)。奥端対座に紫端畳を敷く。障子上も紫端なり。高麗端を敷く。家門もこれあり云々。是は諸太夫を貴ぶの儀なり。

なお青侍とは諸大夫未満。貴族の末席にもなっていない六位ぐらいの者である。「障子上」の東が家司の詰め所で更に東が宿直室になっている。絵巻では『年中行事絵巻』に、東三条殿の大饗の会場に入場する前の控え室である侍廊に参集する公卿が描かれている。

侍廊は東礼の寝殿造なら東の正門と中門廊の間の北側、正門を入って向かい側には車宿りと随身所がある。大路または小路に面した外側の門は日中は開いているのでこの中庭までは誰でも、無関係な庶民までも入れるので侍廊の前には屏が設けられ、中が覗かれないようになっているのが通例である。


車宿 

牛車(ぎっしゃ)の車庫である。絵画に牛車は多く描かれるが、車宿が描かれることは滅多にないが『春日権現験記絵』巻六、平親宗邸(春日権現験記絵、p.40下段)と『法然上人絵伝』の1巻にある(法然上人絵伝、p.**)。大型の寝殿造では梁間2間の棟行3間ぐらいが多い。上級寝殿造では中門南廊につながる。

随身所 

その車宿の道側が随身所である。西例の寝殿造なら西門、東礼の東三条殿などでは東門と中門廊の間に侍所廊と向き合う形で車宿と随身所が並ぶ。侍所よりも格下であるが、同様に囲炉裏と宿直室が備わっている。ただし随身所があるのは大臣クラスである。

随身所

「類聚雑要抄・巻2」 『群書類従26』  続群書類従完成会 1929、p.526 にある東三条殿の随身所指図

雑舎 

雑舎と言われるものはこれまでの説明に登場しなかったものである。例えば台所、台盤所は寝殿の中とかその近くに設けられるがそれは料理を作る厨房ではない。当時の厨房は当然土間である。そして竈がある。倉庫、厩、に牛舎、下人、下女などが住まう長屋もあるはずだが、それらが当時の図面に現れることはまずない。

唯一の例外は、比叡山門跡・青蓮院の里坊・十楽院である。鎌倉時代末期より南北朝時代初期頃の状況を示す配置図が『門葉記』にある。これは非常に貴重な図である。というのは指図は通常、儀式の室礼の指図であって、正門から寝殿のハレ面しか描かれない。希に御産の室礼とか、移徙の指図で寝殿の北側が知られる程度で、寝殿の北の雑舎の配置図など皆無と云ってよい。この十楽院の図にはそれが描かれているのである。御厨子所(厨房)まで描かれている。

十楽院