8・寝殿造の発生

寝殿造の発生

大陸の宮殿建築との相違

一般には寛平6年(894)を最後に遣唐使による大陸文化の輸入が途絶え、いわゆる国風化・国風文化の発展、唐風様式からの脱却という流れの中で寝殿造を考えることが多い。太田静六は『寝殿造の研究』の中で、寝殿造は中国から導入された宮殿建築を基礎としながらも(太田静 六1987、pp.24-28)、これを国風化して日本国独特の邸宅建築として大成したとする(太田静六1987、pp.35-36)。福山敏男もこう書く。

中国の四合院の方式が、直接間接に、古く日本に伝わり、それが飛烏・奈良・平安前期と流伝したものであろう。もちろん建物の細部には日本的要素が早くから加わっていたはずで、日本的要素の比率が次第に大きくなり、平安後期の始め、十世紀に入るころに、中国的要素を振り切るようにして、独自の寝殿造が完成したものと考えられる。(福山敏男1984、p.233、「寝殿造の祖形と中国住宅」)

四合院と三合院は古くからの中国の建物の配置で、三合院はコの字形、四合院はロの字形に建物で中庭を取り囲む形である(川本重雄2012、p.17)。しかしその後の発掘調査の側からは異なった意見も出ている。例えば、主要な官衙は正庁の前庭左右に附属棟を置き、三合院に似た配置としたが、内裏中 心以外はなぜか正式の三合院を崩した形が多く(新建築学大系1999、p.101)、内裏や官衙には用いられても、一般の住宅には奈良時代でも少ないと云 われている(新建築学大系1999、p.120)。

しかし寝殿造を建築様式として考えるには、国風化などという曖昧なものではなく、堀口捨己が寝殿造の終焉を「母屋と庇の区別がなくなったこと」とあげたよう に、その始まりにおいても具体的な指標が必要となる。太田静六は寝殿造の特徴、あるいは国風化の内容として8点を挙げている(太田静六1987、p.22)。

  1. 土間式ではなく床が高く張られたこと、
  2. 屋蓋が瓦葺から和風の檜皮葺となったこと、
  3. 柱や極を始めとする総ての木部を丹土塗などにすることなく白木造にしたこと、
  4. 屋内へ入るのに履物を脱いで上る和風が取入れられたこと、
  5. 寝所が中国式の寝台ではなく畳上に直接寝る本来の和風を続けたこと、
  6. 以上と関連して日常生活には座式を守り、唐風の椅子式によらなかったこと、
  7. 家屋全体が中国式の密閉式から我が国特有の全面開放式によったこと、
  8. 中国や欧米でみられる閉鎖主義の個室本位から、これも我が国特有の融通自在で開放的な大部屋式によったこと

これらは大陸の宮殿建築と寝殿造との主な違いである。

なお太田静六自身はその後に「中国の宮殿ないし住宅、或いはこれを踏襲した平安内裏形式と寝殿造との聞にみられる最大の相違点は、正殿なり寝殿の前面に池 や中島なりを持つ自然的庭園が有るか無いかである(太田静六1987、p.30)」と池を重視している。しかし太田静六自身が認めるように、池の無い寝殿 造も存在する。

中には当時の庶民の住居と上層住宅を区別する指標もこのなかにある。この8点が日本と大陸との邸宅の相違ではあっても、寝殿造以前の宮殿・貴族邸宅が完全に唐風邸宅であったと云えない限り、そのまますぐに寝殿造とそれ以前とを区別する要素にはならない。

寝殿造以前の日本の上層住宅

この写真は東京国立博物館にあるレプリカ。四棟の建物が描かれ、建築史では極めて有名。古墳時代の首長宅における建物群との見 方が多い。下になってしまっているが、テラス付きの高床建築が描かれている。 

奈良県佐味田宝塚古墳から出土した 4世紀頃の「家屋文鏡」(かおくもんきょう)の時代、あるいは家形埴輪の 時代から、日本では支配者階級は床の家である。従って1点目は寝殿造の段階を区切るものにはならない。2点目の「瓦葺」も、太田静六自身が「一般貴族の邸 宅までが瓦葺であったという実例は未だ一例も確認されていない」と云う(太田静六1987、p.29)。3点目の「丹土塗」も、奈良時代から日本の上層邸 宅で主流であったことはない。4点目の「履物を脱いで上る」はどうだったのか判らない。

寝殿造の時代には確かに履き物を脱いで床に上がっている。解らないというのは寝殿造の時代以前である。

5点目の「寝所が中国式の寝台」、6点目の「唐風の椅子式」は内裏 では寝殿造の時代にも使われている(小泉和子2015、p.38)(小泉和子1979、p.27)。確かに内裏以外では使われなかったのかもしれないが、 逆に奈良時代には貴族は椅子式の生活だったと云えない限り使えない。残るのは7点目と8点目の二つだけである。

他には、主たる建物が母屋・庇の平面構造で、附属する建物は単廊と複廊という建築群とは寝殿造の説明には使えるが、奈良時代にもあり寝殿造の成立を示す項目にはならない。

堀口捨己は寝殿造と書院造の違いに「母屋と庇の区別がなくなったこと」をあげたが(堀口捨己1943、p.37)、寝殿造の終焉の定義には有効でも、奈良時代からあり寝殿造の成立の指標にはならない。

「唐風寺院建築」なら飛鳥時代も奈良時代も現存するのだが、奈良時代の貴族の住宅として記録に残るものは正倉院文書にある大宅朝臣船人の住宅だけである。しかしそこには檜皮葺板敷屋一棟、草葺東屋一棟、檜皮葺の倉と草葺きの倉各一棟の合わせて四棟と云うことしかない(平井聖1974、pp.50-51)。しかし奈良時代の邸宅に関わる二つの建物の復元図がある。そこから寝殿造以前の「上層住宅建築」が割り出せる。寝殿造が「国風化」と云われるのでひとまず「唐風住宅建築」としておく。

ひとつは聖武天皇の夫人の一人橘古那可智邸の一棟を移築したと伝える法隆寺の伝法院である。

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現在の法隆寺・伝法院

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浅野清復元図より作成

解体修理時の調査で移築前の姿が復元された。梁行は柱間の狭い四間である。桁行は右から屋根の無いテラス二間、屋根付テラス二間。そして壁と扉に覆われた閉じた室(むろ)の三間である。閉じた室とは云っても日中は妻戸を開け放っていたのかもしれない。現在は瓦葺だが、当初は檜皮葺だったとされる(『新建築学大系 2 日本建築史』、1999、p.116)。この伝法院の移築前の復元図について、1978年の『建築学大系4-I 日本建築史』ではこう書かれていた。

上流の住宅の寝殿というようなものではなく、平安内裏の例でいえば、綾綺殿などを簡略にした形式で、大嘗宮のユキ、スキの正殿の形式にも通じるから、古い伝統を受けついだもので、儀式的な宮殿関係の建物が、橘夫人のあっせんでこの寺に施入されたと考えられよう。(建築学大系1978、pp.34-35)

しかしその後、建築の形式としても住宅建築そのものと思われるようになって、橘夫人宅の建物との見方が復活している(新建築学大系1999、p.117)。

もうひとつは石山寺に寄贈された奈良時代の藤原豊成の家である。これは東大寺の資材帳から関野克が復元した図と模型が知られる(関野克1942、pp.53-56)。

寝殿造の歴史
関野克復元図、太田博太郎、『図説日本住宅史』より

建物の外壁の中はひとつの大きな空間であり、それを濡れ縁が囲み、前後に大きな屋根付き、吹き抜けの庇(テラス)が付く板葺きの建物である(新建築学大系1999、p.116)。別案も提示さ れているのだが、いずれにしても屋内は壁に覆われ、開口部は両開きの扉で、それを開かない限り光は入らない。

なお、後者の藤原豊成の家については史料に「北殿」とあり、正殿である寝殿などと比べると、少し格の下がる建物だったのかもしれないことも指摘されている(新建築学大系1999、p.117)。

両例とも入母屋屋根ではなく切妻屋根である。板床や、檜皮葺や板葺きで、瓦葺でないことなど、大陸様式要素と云えば両開扉(妻戸)ぐらいなのだが、いずれにしても発掘調査を別とすれば、この二つ以外に寝殿造以前の上層住宅を知る手がかりは無い。このふたつの「上層住宅建築」でも8点目の「閉鎖主義の個室本位」対「融通自在で開放的な大部屋式」は寝殿造と共通する。しかしひとつだけ寝殿造とは全く異なる要素がある。7点目の「密閉式」対「全面開放式」である。

寝殿造の時代

飛鳥・奈良の時代の国内の唐風建築や上層住宅と寝殿造の一番はっきりした違いは、唐風建築が壁と妻戸による 閉鎖的な屋内であるに対し、寝殿造は壁の代わりに蔀で覆い、夜は閉ざすが、昼間、あるいは儀式のときにはそれを上げ、あるいは外して開放的な屋内空間を作るということである。これは大陸の住宅にはない。純粋唐建築に無いばかりか、奈良時代の上級貴族の建築にも無い。更に下層の農家や町屋にも無い。寝殿造をそれ以前、さらに同時代でもそれ以外と区別する大きな要素である。川本重雄も『寝殿造の空間と儀式』にこう書く。

注目される点は、寝殿造を構成する寝殿を始めとする建物が、非常に開放的な作りになっていたことである。絵巻物などに描かれるように、寝殿の周りには半部 と呼ばれる建具が吊られ、これによって建物の内部空間と外部とが区切られていた。しかし、この半蔀は昼の間、上半分を軒下に吊り下げ下半分をじゃまになら ない場所に片付けておくのが原則で、その間つまり日中は、寝殿造の内部と外部は、御簾や几帳などの調度によって仕切られるだけであった。(川本重雄2012、p.4)

ただし、川本重雄は開放的であることを日本独自とはしない。日本でも江戸時代初期までの下層住宅は閉鎖的であり、そこから、寝殿造の源流を唐風の儀式建築に求める。(後述)

蔀(格子)はいつ頃から使われだしたのだが、承和10年(843)に建てられた東寺の灌頂院・礼堂の図に正面七間に内側に跳ね上げる「格子」が描かれ、書き込みにも「格子」とある(高橋康夫1985、p.39)。その「蔀」が住宅の前面などに用いられ、開放的な室内を実現ている最初の記録(川上貢1973、p.75)(太田博太郎1976、p.537)は仁寿2年(852)の「尼証摂施入状」(平安遺文101)である。

五間檜皮葺板敷東屋一宇在三面庇〔南五間懸板蔀五枚、東二間懸板蔀二枚、北三間懸板蔀三枚〕(東南院文書3ノ41)

つまり尼証摂が宇治花厳院に奉納した五間檜皮葺板敷東屋は、南・東・北の三方に庇を付加していたが、それらの庇の柱聞にはすべて「板蔀」が「懸」けられていた。この「尼証摂施入状」が、柱間装置あるいは建具としての「蔀」についての最古の史料である。なおこの時代だと「蔀」は格子状では無かった可能性もある。

太田博太郎は 『建築学大系 28』「日本住宅史」においてこのような図で平面を説明し「寝殿造の寝殿や東西対の平面はこのようにして出来上がった」と書く(太田博太郎1976、p.537)。

寝殿造の歴史
太田博太郎「日本住宅史」より作成。北庇は違う書き方も出来る。

これは「檜皮葺板敷東屋」とあり寝殿とは書かれていない。庇はまだつながっていないが、母屋を略取り囲んでおり、堀口捨己の寝殿造の定義には合致する。既に触れたように母屋と庇による平面構造は唐風建築の時代からあった。唐風建築と寝殿造を区別する要素を太田静六は前述の通り8点あげたが(太田静六1987、 p.22)、その中でも唐風建築の時代から既に国風化されていたものを除くと(7)の「家屋全体が中 国式の密閉式から我が国特有の全面開放式によったこと」が、この「尼証摂施入状」にある「五間檜皮葺板敷東屋」には蔀(しとみ)によって体現されている。

更に云うなら、奈良時代から既に 始まっていた(1)の「土間式ではなく床が高く張られたこと」が「板敷」に、(2)の「屋蓋が瓦葺から和風の檎皮葺となったこと」が「檜皮葺」に見られる。「板敷」は寝殿造よりも下層の町屋にも見られるが、それらは「板敷」と「土間」が共存している。それに対して「板敷屋」とは土間が無く、町屋よりも 上層の建築であるとを意味している。この平面からは寝殿造とは無縁な下層住宅と思われるかもしれないが、豪華な寝殿造を建てたことで有名な藤原頼通の建てた宇治鳳凰堂にこういう壁画がある。上級ではないが、藤原頼通の時代でも頼通が建てた高陽院や東三条殿のような大規模寝殿造は一握りであり、上層住宅の中で大多数を占める上の下は一般にこのようなものであったことが解る。

寝殿造の歴史

『図説日本住宅史』(1948)より

以上により寝殿造の重要な要素である「母屋・庇の構造」と「蔀による開放的な上層住宅」を兼ね備えた上層住宅はおおよそ9世紀頃から15世紀後半の応仁の乱までとなる。寝殿造の時代はこの中にある。そこに更に寝殿造を定義付ける他の要素が加われば更に短くはなるが延びることは無い。大づかみであるが、寝殿造の構成要素、と書院造のとの大きな違いとされるここまでの要素の出現時期を図示するとおおよそこうなる。「寝殿造の時代」というのはこの範囲の中という程度のアバウトなものである。

寝殿造の歴史

 

寝殿造の成立時期

京都市埋蔵文化財研究所は「寝殿造成立前夜の貴族邸宅−右京の邸宅遺跡から」 というリーフレットを公開しているが、8世紀初頭藤原京の右京七条一坊、8世紀前半の平城京左京三条二坊(長屋王邸跡)、8世紀末から9世紀初頭の平安京 右京一条三坊九町(山城高校遺跡)、9世紀中頃右大臣藤原良相(813〜867)の邸宅右京三条一坊六町、同じく9世紀中ごろの平安京右京六条ー坊五町. (京都リサーチパーク遺跡)、そして最近発掘された9世紀後半の右京三条二坊十六町(斎宮邸)(報告書発表は2002年)まで含めて寝殿造は成立していないと書く。そして「寝殿造という建物と庭園が一体化する住宅様式を成立させるのは10 世紀以降」とするが、その10 世紀以降についてはその4件の遺構に匹敵するような発掘は無い。

堀河殿の発掘はあるが、敷地の一部に留まり、主要な建物の跡は検出されていない。逆にこれまで知られている太田静六の堀河殿復元図とは矛盾する結果となっている。

一方で川本重雄は9世紀初頭と推定される平安京右京一条三坊九町(山城高校遺跡次表d)を「寝殿造のより初期の形態とするにふさわしい」 と述べている(川本重雄1987、p.48)。また「寝殿造の初期形態」(川本重雄1987、p.40)とも書く。福山敏男もその山城高校遺跡(次表d)に関してこういう。

この遺構は寝殿造の先駆をなすものかとも考えられて、世の注目をひくようになった。主として平安京内の上流階級の住宅であった 寝殿造は、十世紀の末ごろには完成していたことが『源氏物語』の描写からも分かるが、それ以前の、未完成の段階にあったと思われる十世紀前半、あるいは九世紀やそれ以前の上流住宅について、改めて考え直してみる必要が生じてきたわけである。(福山敏男1984、p.222、「寝殿造の祖形と中国住宅」)

平山郁男は9世紀中頃の右京六条一坊五町は次章の表の「e:京都リサーチパーク遺跡」についてこう書く。

右京六条一坊五町では南庭が極端に狭く、正殿、後殿、脇殿などの中心殿舎を敷地の南東に寄せ、北側には雑舎を疎らに置く構 成が見られる。このような住宅も含め,寝殿造の成立とともに、その具体像を考えるべきであろう。(太田博太郎編1999、p.54、章の執筆は平山郁男)

飯淵康一は、『続・平安時代貴族住宅の研究』 に再録した「貴族住宅構成要素の発生」に後書きを追加し、平安京右京一条三坊九町(山城高校遺跡次表d)と右京六条一坊五町(京都リサーチパーク遺跡次表e)を紹介した上でこう書く。

この様に平安前期に於いて、実際には建物同士を結ぶ廊が発生し、対には東・西庇そして南庇が備えられていた。しかしながら、東・西の孫庇や南孫庇の存在は認められない。これらの段階を経て次第に各構成要素が整備され完成期へと至ったものと考えられる。(飯淵康一2010、p.150)

以上9世紀からとする説、11世紀からとする説など様々であり、諸説を総合すると9〜10世紀が過渡期となる。

寝殿造を構成する建物の発生時期

以上を踏まえながら、次ぎにその寝殿造の過渡期の間にどのような変化があったのかを見て行く。飯淵康一は前項でも触れた「貴族住宅構成要素の発生」(飯淵康一1985)において、寝殿造を構成する建物の発生を個別に検討し、

  • 中門廊の発生は『西宮記』の元慶、仁和年間に堀河太政大臣が中門で客を迎えたとの記載があり、この中門は中門廊以外考えられないから、少なくとも 9世紀末に遡る。
  • 寝殿と東西対を結ぶ渡殿が記録にあらわれ始めるのは10世紀に入ってからで「寝殿東南渡廊有座、南北面対座、西上」とある。
  • 11世紀末、12世紀初めごろになると、南の渡殿が透渡殿と呼ばれる様になる。
  • ほぼ時期を同じくして、二棟廊、二棟渡殿の語があらわれはじめ、
  • 侍所は11世紀後半期より記録には「侍廊」としてあらわれてくる。それ以前は「東対東板屋」、「西対以南妻為侍」とか、東対の北部、東面が侍であったことが『栄華物語』に書かれている。
  • 随身所は、10世紀末には記載されるが、11世紀前半期には専用の場を中門廊南端に得た。

寝殿造を構成する建物の発生を、先の建具の発生に加えて図にするとこうなる。

寝殿造の歴史

それらを整理した上で飯淵康一はこう書く。

東西対屋の南庇、同孫庇の存在はすでに10世紀の前期には知られ、東西孫庇は10世紀末にはみることができる。これを備えた大規模な対屋は11世紀には極く標準的になったものと考えられる。・・・本論によって示されたのは上東門第に代表される様な平安盛期の貴族住宅は徐々にその姿を整えてきた結果のものであるという事である。(飯淵康一2010、p.146)

つまり、大規模で成熟した寝殿造は11世紀からであると。ただしこの時期は史料があまりなく、前述の通り遺跡も未発掘である。一方で12世紀に入ると東西に大規模な対屋を備えた寝殿造の建造は後に内裏となった閑院が知られる程度で下火になる。

ところで、この飯淵の研究によると、『源氏物語』の時代には透渡殿は確認されておらず、その寝殿の説明に透渡殿を描くことには史料的根拠は無いことになる。戦後の寝殿造研究を牽引してきた太田静六もこう書く。

寝殿と対屋とを結ぶ渡殿のうち、南庭に臨む方は透渡殿であることが東三条殿などから立証されるが、平安盛期にあっては未だ大部分の寝殿造は透渡殿の制によらず、普通の渡殿形式によっていたことも注目したい。(太田静六1987、p.310)

なお、寝殿造の再建サイクルだが、内裏は村上天皇の天徳4年(960)の有名な火災以降11世紀末までに火災の他大風・暴風雨による倒壊まで含めれば、13回も再建を繰り返す(藤田勝也1999、pp.120-121)(上島享2006、p.16の表1-1)。平均すればほぼ10年に一度である。100年前後存続した例は平安時代末東三条殿の1例、鎌倉時代末に郊外の伏見殿の1例だけである。火災は10世紀頃からの生活の変化と大都市化の特徴とされる。内裏はその特殊な伝統から同じ様に再建されただろうが、寝殿造はその間動きを止めることなく、火災と再建によって常に変化し続けている。

初期形態からの脱皮時期

藤田勝也は 「寝殿造と斎王邸跡」で次の8点で比較を行った(藤田勝也2007、pp.75-80)。

  1. 敷地中央やや南に主要殿舎群を配し、北半には裏方の機能を担う各種の雑舎的建物というように、南北に対照的な構成であること。
  2. 西棟の寝殿と南北棟の東・西対がほぼ東西に並列し、廊とともに南庭を囲む。
  3. 廊によって建物は連絡する。
  4. 寝殿・対・廊に付属する廊がある。
  5. アプローチに着目すると、内郭と外郭の二重の構造をとる。具体的には中門廊によって、築地塀に開く門から中門廊に開く中門までの領域と、中門内の寝殿や対の南面、園池を望む領域に二分される。
  6. 主要な出入口となる門は南北面ではなく東西面に設ける。
  7. 広大な閤池が敷地南方に築かれる。
  8. 柱下部の基礎構造

これらは発掘調査などから判明する要素で上層邸宅が変化する処を探そうというもので、寝殿造の定義ではない。1)は敷地全体の配置構成上の特徴。 2)、3)、4)は主要殿舎群について、寝殿を中心に各建物の有機的な結合する様子。 5)、6)はアプロー チとアプローチの方向である。7)は建物と庭園との位置関係。 8)は建物自体の特徴である。藤田勝也はこの基準で平城京から平安京までの、遺跡、 あるいは文献で状況がおおよそ判別できるものの評価をしたのが下の表である。 d)と e)は離宮の可能性まであるというぐらいの、それぞれ当時最上流に属すると思われる屋敷である。

寝殿造の歴史

この比較から藤田勝也は東三条殿のような寝殿造は徐々に出来上がっていったと云うよりも、ある屋敷から急に広まった可能性を指摘する。10世紀中頃とはちょうど平安内裏が始めて焼亡した頃である。