武士の発生と成立  下向井龍彦氏の国衙軍制論 

下向井龍彦氏の国衙軍制論

『日本の歴史7巻−武士の成長と院政』(講談社:2001年)の「3 王朝国家の軍制と武士」の冒頭(p128)で下向井龍彦氏は

平安時代には国家の力は衰え、地方の治安は乱れ、受領は収奪することしか考えなかった。だからこそ有力農民は自分が開発した所領を自分の手で守らなければならず、そのために武装して武士になった−−−これが古典的な武士成立のイメージであった。・・・しかし私は、平安時代の地方社会はかなりの程度、法と制度によって秩序づけられていたと考えている。土地に対する権利は「公験(くげん:いわば権利書)」を持っていれば、基本的には国衙の法と裁判によって守られていたのである。

とおっしゃっています。私もこの間、割と細かい処まで平安時代を読んできましたが、それまで抱いていたイメージとは違って意外に法制度が浸透し、検非違使の動きや、貧民・孤児・被災者などに対する福祉・救済制度が機能していることにおどろかされました。そりゃ、あくまで「意外に」であって、現在の感覚からすれば有るか無しかの程度ですが。

しかし、だからと言って

所領を守る為に武士が登場したと言うのは幻想である。では武士はなぜ武装が公認され、何の為に武芸の鍛錬に励むのか。それは彼らが、「国家の支え」「転化の固め」として反乱鎮圧の為に戦う戦士だったからである。

と言われると「おいおい、あんた黒板勝美さん?」と言いたくなります。もちろん違うことは存じておりますし、上記の一文も手放しで武士を礼賛するための文章ではなく、

王朝国家の武装蜂起鎮圧システムを国家軍制ととらえ、武士が王朝国家の軍制の中でどのように位置づけられていたのかを眺めてみよう。

と言う主題への前振りなのですが。下向井龍彦氏の特徴は極めてシステマチックな軍制を描き出すことですね。

例えば平将門の天慶の乱の少し後、10世紀後半当時の京都の軍事力とも言えない警察力はどうも微々たるもののようで、町中の警護は検非違使が担当しますが、大した数ではなく、それぞれ10〜20と言った程度。何か事が起きるとそれが強盗の類でも、その捜索には「諸衛佐以下舎人以上」に加え「武勇に堪えたる五位以下」を召集し、このときだけは弓矢の携帯を許し、馬寮より馬を支給して捜査に当たらせたと言うことがありました。「索盗」とか「大索」と言われるものですね。 

その「大索」についても「この天皇による在京武士招集も、国家軍制の一環として捉えることが出来る」と、なにかしら軍制が先にあったかのような説明になってしまいます。

そして「追補官符」「重犯検断手続き」「廻文と国内武士注文」「勲功賞申請手続き」を説明して

以上、本節では、10〜12世紀を通じて一貫して存在し続けた王朝国家の国家軍制(反乱鎮圧のメカニズム、軍制動員のメカニズム、国衙の武士編成の仕組み)を具体的事件に即して復元してみせた。図解(ここでは省略)したモデルは、いかなる場合でもかならず適用されたというのではなく、あくまで制度的・手続き的にはこのようなシステムが存在し、政府も国衙も当事者も、この仕組みを意識し、利用しながら行動していたということである。

と章を結んでいます。 

「国内武士注文」というのは先に紹介した国衙の「譜第図」「胡簗注文」のことですね。その「国内武士注文」こそ、武士身分であるかないかの認定根拠であったと言うべきであるとするところは石井進氏とほぼ同じです。ただし、想定する年代には若干のずれがあるようですが。

同じ国衙軍制論ですから重複するところは省いて私の印象ベースで下向井龍彦氏に特徴的なところだけを書いてみました。下向井氏については次ぎのページで橋昌明氏との論争に関してまたふれることにします。