武士の発生と成立  橋昌明氏の国衙軍制論への態度

橋昌明氏の国衙軍制論への態度

石井進氏に関連して

橋昌明氏は『武士の成立 武士像の創出』の5章で、中世前期までの武士史を大きく三期に分割し、その第一期を10世紀第3四半期ぐらいを境に更に2段階に分けて検討しています。その第1段階においては、

諸国の「兵士」も武士かどうか検討が必要である。近年の平安期国衙の軍事力に関する精力的な研究(下向井氏を指す)には刺激を受ける点も多いが、実態認識に違いがある。著者はそれが国司を中心とし、在地有力豪族が随時協力する形であったと考えている。その際武力の中核として重視すべきは受領の国内支配の手足となった、都からともなってきた彼らの郎党たちで、著名な藤原元命の場合は「内舎人二人」「前滝口二人」ら、都の武士が含まれていた。

としています。「内舎人二人」「前滝口二人」と言うと「それだけ?」と思いますが、それぞれ郎党を引き連れているはずです。

そして第2段階の10世紀末から11世紀後半にかけてのいわゆる「摂関時代」時代には徐々に「ミウチ」から「イエ」に移り変わる時代であり、京の軍事貴族「兵の家」の子孫・庶流・傍流が、婚姻などをテコとして東国を中心に「留住」から「土着」への傾斜を強めていきます。

以前に引用して「これには手をたたいちゃいました。その通りだと私も思います。」と書いたのはその5章1節の最後の1行です。

11世紀以降、在地領主の武士化ではなく、武士の在地領主化が進行した。 (p148)

さて第二段階は政治的には「イエ」としての王家の形成による院政のはじまり、それが「ミウチ」関係に依存した摂関家の力が徐々に弱まる時代、社会・経済的には荘園公領制の成立期となりますが、それはまた武士の役割が増大した時期でもありました。

このページは国衙軍制ですからあくまで地方に限って話しを進めますが、この時期は「土着」した「兵の家」から更に二次的な武士の「家」が成立し、それぞれが独自に武装集団を形成する段階です。系図を見ていても判りますが、ある時期に急激に支族(分家)が増えてそれぞれの「名」を名乗ります。「開発」のエリアが急拡大してそれぞれの「名(みょう:土地)」を兄弟・叔父甥で分担していったのでしょう。個々でも小武士団、一族が集まって大武士団になります。

国衙の軍事体制も彼らと武に堪能な在地領主の結集によって充実しはじめ、白河院より「諸国に兵仗(へいじょう)多く満つ、宣旨を下され制止を加うべし」(「後二条師通記」1099年(康和1)5月3日条)といわれるような事態が生まれていた。石井進氏が描いた国衙軍制の見取り図が検証可能になる段階の到来である。氏は、国内武士の組織化や武士身分認知の方法として、国内の館への欠番や参勤、国守主催の大狩への動員、諸国一宮への流鏑馬などの軍事的儀式の奉仕などがあったと得。おおむね妥当な指摘であろう。・・・・こうした動きの中で、武に堪能な在地領主の一部が、新たに武士身分に入ってきた。

としています。ただし

石井氏が、武士の身分認知を国司国衙との関係だけで説いているのは、論文の主題が国衙軍制にあったからで、地方武士の場合、実際にはいくつもの途があろう。さしあたり、α源平武家の「棟梁」の傘下に入り実績を積む。、β中央の武官・武職につく、などの方法が予想される。
・・・・αは軍事貴族の側からいえば、彼の従者組織が漸次的に拡大してゆく過程である。

と釘を刺しています。いや石井進氏に対してではありませんが。

そして武家の棟梁

ただし保元の乱以前の武家「棟梁」の実勢を、過大評価することは適当でない。
なぜならば・・・・「棟梁」自身が所領の獲得に汲々としている段階では、「御恩と奉公」の関係は「未成熟」で、主従制の急速な拡大の条件は、現実には存在しなかった。

源頼朝の父源義朝が1143年(康治2)千葉介常重と下総守藤原親通との相馬御厨を巡っての内紛に介入(相馬御厨の強奪 )して千葉介常重から相馬郷の「圧状(無理矢理書かせた譲状)」を取って実質的に押領しことを思い出しますね。野口実編 『千葉氏の研究』 に収録されている黒田紘一郎「古代末期の東国における開発領主の位置」で、源義朝はその段階では棟梁などではなく、同じレベルで領地を奪おうとした形跡があると論じられていました。

で、それは源義朝だけではなく、源義家にも言えることだと思います。私がそう思うのは元木泰雄氏に洗脳されたからかもしれませんが、橋昌明氏も言ってたんですね。2年も前に読んだはずなのに気がつきませんでした。気がついてみると、他にも多くの方が。次ぎのページでふれる福田豊彦氏は 「私営田領主=兵(つわもの)」「在地領主=武士」の区別にこだわる、印象としては古い学説の方ですが、その福田豊彦氏もそうおっしゃっています。

下向井龍彦氏に関連して

橋昌明氏の『武士の成立 武士像の創出』の付論「武士発生論と武の性格・機能をめぐって」については既に「橋昌明氏の武士像」への追記で触れましたが、実はそこではわざと触れずに、このページの為にとっておいた部分があります。下向井龍彦氏の国衙軍制論に対する反論、付論3節の「国衙は武士の発生源か」と言う3ページ強です。

「石井進氏が描いた国衙軍制の見取り図が検証可能になる段階の到来」を橋昌明氏は11世紀の後半とされますが(石井進氏は11世紀中頃以降とほぼ同じ)、下向井龍彦氏が国衙軍制の中身として強調している「重犯」追捕、「凶党」蜂起鎮圧は「実質があるのは氏らが言う前期王朝国家期」(つまり11世紀前半以前)であってそれ以降ではない、つまりそれは国衙軍制ではないとします。

確かに下向井龍彦氏は2001年時点でも、1995年時点でも10世紀天慶の乱の頃から追捕官符による国衙軍制が成立していたかのように書かれています。それを確認したうえで橋昌明氏は以下のように論を進めます。

氏も認めるように追捕使に発兵権=軍勢催促権をゆだねる「追捕官符」からは、武力の内容も組織形態も明らかにはできない。下向井氏はこの軍事力の中身を@追捕使の一族・郎等、A傍輩的武勇輩(在庁・郡郷司・刀禰・王臣家家人)と想定しているが、院政期以前ではAが組織的に動員されたことを、積極的に裏付ける史料は示されていない。氏が論拠とした史料のうち、「本朝世紀」天慶2(939)年4月19日条の「まさに国内の浪人、高家、雑人を論ぜず、軍役を指し宛つべきこと」は、出羽俘囚反乱と言う特殊状況での措置である。しかも氏は、この史料から「国内(土人)浪人に対する『軍役』賦課」を読み取っているが、「(土人)」は史料にもとづかない飛躍である。

と。手厳しいですねぇ。でも論拠は明確にしています。

下向井龍彦氏の著書は『日本の歴史7巻−武士の成長と院政』(講談社:2001年)より前は、『岩波講座日本通史・古代5』(1995年)収録の「国衙と武士」(この段階からそれまで「『武勇の輩』と呼んでいた10-12世紀の戦士身分概念を武士と表記」することにしたそうです)しか持っておらず、その「国衙と武士」を読みなおしてみたのですが、該当部分(出羽俘囚の乱への対策P187)には「(土人)」の記載はありませんでした。

どうも橋昌明氏は1981年の『史学研究』151での初期の論文「王朝国家国衙軍制の構造と展開」を指して批判されているようです。そんな学会誌まで素人の私には検証できません。
しかし、1995年の「国衙と武士」において「高家雑人(こうけのぞうにん)を論ぜず」を「この文言自体は天慶出羽の乱への対策であるが、これも延喜の「例」に依拠していた。」とカッコ書きで注記しています。それ以前から橋昌明氏の批判が有ったのでしょうか。しかし下向井龍彦氏はあくまで「法的根拠」にこだわっておられますね。それらに対し橋昌明氏は以下の様に結論づけられています。

結局、摂関期までの追捕使とは、国内武士を統制する指揮官というより、受領もしくはその協力者たる国内有力者の軍事行動を、適法ならしめる措置をいっているのであろう。国司から郡司雑任クラスまでの弓箭(剣)を含む武装の勅許といった事実も存在するから、国衙レベルで個別に軍事組織の形成が進行していたことは否定しないが、氏が印象ずけようとしているシステマチックに機能する国衙軍制は、全体としては形成を見ていないとすべきである。

どちらが正しいのか、私には判断できませんが、ただ最後の「システマチックに機能する国衙軍制」などは私もあり得ないだろうと思います。