武士の発生と成立 橋昌明氏の国衙軍制論への態度 |
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橋昌明氏の国衙軍制論への態度石井進氏に関連して橋昌明氏は『武士の成立 武士像の創出』の5章で、中世前期までの武士史を大きく三期に分割し、その第一期を10世紀第3四半期ぐらいを境に更に2段階に分けて検討しています。その第1段階においては、
としています。「内舎人二人」「前滝口二人」と言うと「それだけ?」と思いますが、それぞれ郎党を引き連れているはずです。 そして第2段階の10世紀末から11世紀後半にかけてのいわゆる「摂関時代」時代には徐々に「ミウチ」から「イエ」に移り変わる時代であり、京の軍事貴族「兵の家」の子孫・庶流・傍流が、婚姻などをテコとして東国を中心に「留住」から「土着」への傾斜を強めていきます。 以前に引用して「これには手をたたいちゃいました。その通りだと私も思います。」と書いたのはその5章1節の最後の1行です。
さて第二段階は政治的には「イエ」としての王家の形成による院政のはじまり、それが「ミウチ」関係に依存した摂関家の力が徐々に弱まる時代、社会・経済的には荘園公領制の成立期となりますが、それはまた武士の役割が増大した時期でもありました。 このページは国衙軍制ですからあくまで地方に限って話しを進めますが、この時期は「土着」した「兵の家」から更に二次的な武士の「家」が成立し、それぞれが独自に武装集団を形成する段階です。系図を見ていても判りますが、ある時期に急激に支族(分家)が増えてそれぞれの「名」を名乗ります。「開発」のエリアが急拡大してそれぞれの「名(みょう:土地)」を兄弟・叔父甥で分担していったのでしょう。個々でも小武士団、一族が集まって大武士団になります。
としています。ただし
と釘を刺しています。いや石井進氏に対してではありませんが。 そして武家の棟梁
源頼朝の父源義朝が1143年(康治2)千葉介常重と下総守藤原親通との相馬御厨を巡っての内紛に介入(相馬御厨の強奪 )して千葉介常重から相馬郷の「圧状(無理矢理書かせた譲状)」を取って実質的に押領しことを思い出しますね。野口実編 『千葉氏の研究』 に収録されている黒田紘一郎「古代末期の東国における開発領主の位置」で、源義朝はその段階では棟梁などではなく、同じレベルで領地を奪おうとした形跡があると論じられていました。 で、それは源義朝だけではなく、源義家にも言えることだと思います。私がそう思うのは元木泰雄氏に洗脳されたからかもしれませんが、橋昌明氏も言ってたんですね。2年も前に読んだはずなのに気がつきませんでした。気がついてみると、他にも多くの方が。次ぎのページでふれる福田豊彦氏は 「私営田領主=兵(つわもの)」「在地領主=武士」の区別にこだわる、印象としては古い学説の方ですが、その福田豊彦氏もそうおっしゃっています。 下向井龍彦氏に関連して橋昌明氏の『武士の成立 武士像の創出』の付論「武士発生論と武の性格・機能をめぐって」については既に「橋昌明氏の武士像」への追記で触れましたが、実はそこではわざと触れずに、このページの為にとっておいた部分があります。下向井龍彦氏の国衙軍制論に対する反論、付論3節の「国衙は武士の発生源か」と言う3ページ強です。 「石井進氏が描いた国衙軍制の見取り図が検証可能になる段階の到来」を橋昌明氏は11世紀の後半とされますが(石井進氏は11世紀中頃以降とほぼ同じ)、下向井龍彦氏が国衙軍制の中身として強調している「重犯」追捕、「凶党」蜂起鎮圧は「実質があるのは氏らが言う前期王朝国家期」(つまり11世紀前半以前)であってそれ以降ではない、つまりそれは国衙軍制ではないとします。 確かに下向井龍彦氏は2001年時点でも、1995年時点でも10世紀天慶の乱の頃から追捕官符による国衙軍制が成立していたかのように書かれています。それを確認したうえで橋昌明氏は以下のように論を進めます。
と。手厳しいですねぇ。でも論拠は明確にしています。 下向井龍彦氏の著書は『日本の歴史7巻−武士の成長と院政』(講談社:2001年)より前は、『岩波講座日本通史・古代5』(1995年)収録の「国衙と武士」(この段階からそれまで「『武勇の輩』と呼んでいた10-12世紀の戦士身分概念を武士と表記」することにしたそうです)しか持っておらず、その「国衙と武士」を読みなおしてみたのですが、該当部分(出羽俘囚の乱への対策P187)には「(土人)」の記載はありませんでした。 どうも橋昌明氏は1981年の『史学研究』151での初期の論文「王朝国家国衙軍制の構造と展開」を指して批判されているようです。そんな学会誌まで素人の私には検証できません。
どちらが正しいのか、私には判断できませんが、ただ最後の「システマチックに機能する国衙軍制」などは私もあり得ないだろうと思います。
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