武士の発生と成立  福田豊彦氏の国衙軍制論への態度

福田豊彦氏(東工大名誉教授)が1974年の『シンポジウム日本の歴史7 中世国家論』(学生社)の為に書かれた「王朝国家をめぐって」と言う論文があります。

私は戸田芳実氏編の『5 中世社会の形成』しか持っていないのですが、4つぐらいのテーマ毎にパネラーみたいな形で問題提起みたいな論文発表をやって、そのテーマについで学者さん達がディスカッションすると言うような構成で、ディスカッションではそれぞれの学者さんの「このへんをどう捉えるか悩ましいところだ」みたいな生の声が聞こえて実に面白いです。

それが『東国の兵乱ともののふたち』(福田豊彦:吉川弘文館 1995年)と言う本に収録されています。その中で石井進氏の論にもふれられていますのでちょっと見ていきましょう。

武士身分の成立

石井さんは・・・・などにより、武士身分の認定は国衙との関連によってなされたとし、武士身分成立の時期を白河院政期と推定されます。
この問題にもその成立の時期と、国衙がそれにどのように関与していたのか、という2つの問題があるわけです。私は石井説を従うべき見解とは思いますが、身分は政治的な区別の制度であることを考慮しますと、・・・・、尚検討する余地があると思います。
なおここには、「武士」身分なのか「侍」身分なのかという問題もありましょう。

「武士」身分なのか「侍」身分なのかというところは実は橋昌明氏も指摘していました。ただ石井進氏も、石井氏が挑戦(?)した当時の主流派の人達の問題意識も、「侍」身分の「武士」ではなくて実は「武士団」なんですね。それは石井進氏の「武士団とは何か」安田元久氏の「在地武士団の成長」といった風に、それぞれの論文のタイトルにも現れていると思います。

棟梁の成立

この棟梁成立の時期は、通常、「武士長者」(『中右記』天仁元年正月24日)とよばれた義家の段階、11 、12世紀の境目ころとみるのが一般的であろうと思います。しかし、この時期にも源氏の経済的基盤は貴族的なものであり、源氏の地盤といわれる関東においても在地領主との間に所領支配に基づく主従関係は認められず、そうそた関係は12世紀の義朝期まで下らなければならない、という安田さんの指摘もあります。
・・・源氏のいわゆる直系に限られた棟梁研究ではなく、棟梁候補者あるいは棟梁と目された者が並列的に幾人か存在した可能性をふまえて追求する必要がありましょう。この棟梁問題ではまた、荘園寄進の対象(本家両家)ではなくて、寄進に当たっての媒介の役割を果たした貴族層(預所など)との接点で考える必要がありそうに思います。

安田元久氏の指摘というのは『古代末期に於ける関東武士団』(吉川弘文館:1961年)だそうです。そんなに昔から、驚きました。最近では元木泰雄氏(京大)が強調されていますね。

ところが新進気鋭の国衙軍制論者と目されたはずの下向井龍彦氏の方は、逆に源頼信を「『武家の棟梁』の出現の契機」(岩波・日本通史6 p207)と言ったりし、かつ、出過ぎた源氏を院がたたいて調整をしたと、私ですら撤回した旧説を1995年段階でも展開されています。

更に院政初期に「院権力は追討使の軍事指揮権を媒介に、源氏に東国武士を掌握させ、平氏に西国武士を掌握させることにある成功したのである」としています。何でしょう、この立場の逆転は。古臭学派なはずの福田豊彦氏の方が新鮮に聞こえます。

もっとも福田豊彦氏は「棟梁」を否定している訳ではなくて、1985年段階でも、前九年の役で源頼義が必死に頑張って協力してくれた配下約20名の恩賞(おそらく下級の官職)を獲得したことをもって「そうした官位を得るために武者が権門に仕えたことを考えると、頼義はまさに権門の地位を得た訳で、国家の官符は私的な棟梁の形成に重要な役割を果たしていることになる。(p78)」と『前九年・後三年の役』を結んでいます。

「おい、ほんじゃぁ武家の棟梁はいったいどこからなんだよ!」と言いたくなりますが、先の引用で問題にされているのは「所領支配に基づく主従関係」なんですね。「武家の棟梁」とは平安時代においては本当の権門に対する口利き、媒介、紹介であって「所領支配に基づく主従関係」が初めて出てくるのは頼朝挙兵を待たなければならないのではないでしょうか。

でも「武家の棟梁」って平安時代にもさんざんでてくるじゃないかって? そりゃ後世の源氏礼賛で意味を増幅されて使われたイメージをわれわれが引きずっているところに問題があるんじゃないですかね。なんかそんな気がしてきました。

「辺境軍事貴族」と「地方豪族軍」

とくに国家軍制に関しては、石井さんの提出された地方軍制の図式は、内乱期の軍事力の面でも、鎌倉幕府守護制度の源流としても、きわめて重要なものであります。石井さんがこの図式の素材としては11世紀初頭の「忠常討伐説話」(『今昔物語集』)を重視されながら、こうした図式が成立する時期としては11世紀中葉とし、これを「院政期の国衙軍制」として提出されていることに、私は大変興味深いものを感じます。石井さんのこの時期設定の根拠は『今昔物語集』成立の時期にありますので、石井さんの真意はわかりませんが、私営田経営という段階の設定をなお有効と考え、将門、忠常を私営田領主=兵(つわもの)ととらえる私にとって、これが重要な意味をもってくるわけです。

いっぽう、10世紀の平将門や藤原玄明(はるあき)が国衙から互通の文書である移牒(いちょう)を送られる公的機関であり、この時期にはこうした「辺境軍事貴族」が家柄として成立していたことは、戸田さんの研究により明らかにされています。こうなると戸田さんの「辺境軍事貴族」が石井さんの「地方豪族軍」とどのように関連するのかが問題となりましょう。私は両者が同一の実態を指すかどうかの検討はまだなされていないように思いますので、11世紀半以前の将門や忠常を私営田領主=兵(つわもの)の段階と見てそれ以降の在地領主=武士と区別する見解も、まだ修整する必要を認めないわけです。

出たー! って感じですね。
「私営田領主=兵(つわもの)」「在地領主=武士」 。私は歳は食っていても歴史学では新参者ですのでこういう学説をリアルタイムには経験していないのです。いや、確かに高校生のときに竹内理三氏の「武士の登場」を出版と同時に(なんせ『日本の歴史』全26巻は毎月自動的に送られてきたので)リアルタイムに読んでいたはずですが、実は1/10も頭には入っていなかったことはこのシリーズの冒頭で白状したとおりです。

しかし福田豊彦氏は「農民から武士が生まれた」などとは言っていないので、単純に「職能論」やら「国衙軍制論」を持ってきただけでは「私営田領主=兵(つわもの)」「在地領主=武士」な学者さん達が「わたしは間違っていました、降参です!」などと言う訳はないのです。それに、われわれはどっちが正しいかに賭けをしている訳ではないので、むしろ福田豊彦氏らがなぜ「私営田領主=兵(つわもの)」「在地領主=武士」の区別にこだわっているのか、そこにどういう差があるのかに耳を傾けた方が良いと思います。

橋昌明氏の武士像のページの冒頭で「『だまされないぞと思う方・・・』ん? 呼びました?」なんておちゃらけて書きましたが、歴史は気をつけないと本当に騙されてしまいます。なんせいい歳をして歴史好きな大人は絵本の世界の英雄(武士)や、軍記ものな世界に子供の頃から目をキラキラさせていたんですから。
例えば「俵藤太秀郷の百足退治」、源頼光なら丹波国大江山での酒呑童子討伐や土蜘蛛退治の説話、それに頼光の四天王、その他の伝承の成立時期とか、われわれが平将門の戦闘シーンで思い浮かべる大鎧の成立時期も実はもっとずっと後だとか。このサイトでもいくつもの絵巻物を挿絵がわりに使っていますが、あれらは全て平安時代末期以降のものです。 保元の乱での動員数を見ると、「えっ、これっぽっち?」 滝口の武士だって「えっ、これっぽっち?」です。

どうやら武士(郎党まで含めて)の人口は院政期以前ではえらい少ないらしい、院政期初期だってそんなに多くはなさそう。それが急に増えたのはどうも12世紀に入るぐらいから。それが木曽義仲や頼朝挙兵以降で急激に増えたらしい。
院政期の間でもある時を境に、少なくとも関東では「武士団」が急成長している。その時期が福田豊彦氏がこだわる「私営田領主」から「開発領主」への変化の時期に符合するらしい。在庁官人が「介」とか「大介」とか「大掾」とか名乗って世襲しだすのもその辺じゃないか? などと考えると 「私営田領主=兵(つわもの)」「在地領主=武士」の区別の根拠と言うか、はっきりいうとその「動機」はなんなのかということがかなり重大な問題を含んでいそうに思います。

もちろん本職の学者さん達にとってはあたりまえの「事実」なのでしょうが、なんせこちとら素人なんで「何かありそう」と言う程度にしかわかりません。それと、戸田芳実氏の「辺境軍事貴族」が出てきてしまいました。困りました。もうこれ以上手を広げたくないんですが。

2007.10.20