武士の発生と成立 福田豊彦氏の国衙軍制論への態度 |
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福田豊彦氏(東工大名誉教授)が1974年の『シンポジウム日本の歴史7 中世国家論』(学生社)の為に書かれた「王朝国家をめぐって」と言う論文があります。 私は戸田芳実氏編の『5 中世社会の形成』しか持っていないのですが、4つぐらいのテーマ毎にパネラーみたいな形で問題提起みたいな論文発表をやって、そのテーマについで学者さん達がディスカッションすると言うような構成で、ディスカッションではそれぞれの学者さんの「このへんをどう捉えるか悩ましいところだ」みたいな生の声が聞こえて実に面白いです。 それが『東国の兵乱ともののふたち』(福田豊彦:吉川弘文館 1995年)と言う本に収録されています。その中で石井進氏の論にもふれられていますのでちょっと見ていきましょう。 武士身分の成立
「武士」身分なのか「侍」身分なのかというところは実は橋昌明氏も指摘していました。ただ石井進氏も、石井氏が挑戦(?)した当時の主流派の人達の問題意識も、「侍」身分の「武士」ではなくて実は「武士団」なんですね。それは石井進氏の「武士団とは何か」安田元久氏の「在地武士団の成長」といった風に、それぞれの論文のタイトルにも現れていると思います。 棟梁の成立
安田元久氏の指摘というのは『古代末期に於ける関東武士団』(吉川弘文館:1961年)だそうです。そんなに昔から、驚きました。最近では元木泰雄氏(京大)が強調されていますね。 ところが新進気鋭の国衙軍制論者と目されたはずの下向井龍彦氏の方は、逆に源頼信を「『武家の棟梁』の出現の契機」(岩波・日本通史6 p207)と言ったりし、かつ、出過ぎた源氏を院がたたいて調整をしたと、私ですら撤回した旧説を1995年段階でも展開されています。 更に院政初期に「院権力は追討使の軍事指揮権を媒介に、源氏に東国武士を掌握させ、平氏に西国武士を掌握させることにある成功したのである」としています。何でしょう、この立場の逆転は。古臭学派なはずの福田豊彦氏の方が新鮮に聞こえます。 もっとも福田豊彦氏は「棟梁」を否定している訳ではなくて、1985年段階でも、前九年の役で源頼義が必死に頑張って協力してくれた配下約20名の恩賞(おそらく下級の官職)を獲得したことをもって「そうした官位を得るために武者が権門に仕えたことを考えると、頼義はまさに権門の地位を得た訳で、国家の官符は私的な棟梁の形成に重要な役割を果たしていることになる。(p78)」と『前九年・後三年の役』を結んでいます。 「おい、ほんじゃぁ武家の棟梁はいったいどこからなんだよ!」と言いたくなりますが、先の引用で問題にされているのは「所領支配に基づく主従関係」なんですね。「武家の棟梁」とは平安時代においては本当の権門に対する口利き、媒介、紹介であって「所領支配に基づく主従関係」が初めて出てくるのは頼朝挙兵を待たなければならないのではないでしょうか。 でも「武家の棟梁」って平安時代にもさんざんでてくるじゃないかって? そりゃ後世の源氏礼賛で意味を増幅されて使われたイメージをわれわれが引きずっているところに問題があるんじゃないですかね。なんかそんな気がしてきました。 「辺境軍事貴族」と「地方豪族軍」
出たー! って感じですね。 しかし福田豊彦氏は「農民から武士が生まれた」などとは言っていないので、単純に「職能論」やら「国衙軍制論」を持ってきただけでは「私営田領主=兵(つわもの)」「在地領主=武士」な学者さん達が「わたしは間違っていました、降参です!」などと言う訳はないのです。それに、われわれはどっちが正しいかに賭けをしている訳ではないので、むしろ福田豊彦氏らがなぜ「私営田領主=兵(つわもの)」「在地領主=武士」の区別にこだわっているのか、そこにどういう差があるのかに耳を傾けた方が良いと思います。 橋昌明氏の武士像のページの冒頭で「『だまされないぞと思う方・・・』ん? 呼びました?」なんておちゃらけて書きましたが、歴史は気をつけないと本当に騙されてしまいます。なんせいい歳をして歴史好きな大人は絵本の世界の英雄(武士)や、軍記ものな世界に子供の頃から目をキラキラさせていたんですから。 どうやら武士(郎党まで含めて)の人口は院政期以前ではえらい少ないらしい、院政期初期だってそんなに多くはなさそう。それが急に増えたのはどうも12世紀に入るぐらいから。それが木曽義仲や頼朝挙兵以降で急激に増えたらしい。 もちろん本職の学者さん達にとってはあたりまえの「事実」なのでしょうが、なんせこちとら素人なんで「何かありそう」と言う程度にしかわかりません。それと、戸田芳実氏の「辺境軍事貴族」が出てきてしまいました。困りました。もうこれ以上手を広げたくないんですが。 2007.10.20 |
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